「よくのこのこ帰ってこれたものね」

 口を噤んだままのの顔を、エリアーヌが覗き込む。
 長い睫毛に縁どられた瞳は、冷たかった。は鋭く息を呑む。意味もなく開いた唇が、戦慄く。

「私は、あなたの顔を見たくないと言ったのよ?」
「お、ねえさま」
「殿下にシルヴァンにフェリクス……錚々たる顔ぶれを引きつれて、私に対する当てつけのつもりかしら」
「ち、ちがいます」

 は慌てて首を横に振った。「そう」と、エリアーヌがつまらなそうに呟く。

「なら、早くガルグ=マクへ戻ることね。もう一度言うわ。あなたの顔なんて見たくないの」

 エリアーヌの声音が一段と冷える。
 心臓が、ぎゅうと握られた心地がした。は呆然とエリアーヌの顔を見つめる。
 とは比べものにもならない美しい顔は表情をなくして、まるで美術品のようだった。瞳だけが、憎悪を宿して燃えている。
 
「あ……」
「エリアーヌ、何をしている?」
「まあ、フェリクス」

 驚いたふうに振り向いたエリアーヌが、ふふっと小さく笑った。

「怖い顔をなさってどうしたの? 昔なじみでなければ、竦み上がってしまうところよ」
「誰のせいだと……」
「心配しなくても、言付けを頼んでいただけよ。ねえ、?」
「は、はい」

 エリアーヌに微笑みかけられ、は慌てて頷いた。しかし、フェリクスの視線は鋭く、少しもエリアーヌの言葉を信用していないようだった。
 それに気づかぬわけもないのに、エリアーヌが笑みを崩すこともなければ、焦る様子もない。

 「ブルゼンを包んであるから、厨房に行って」と、フェリクスには聞こえないように、エリアーヌがそっとに耳打ちする。
 と目が合うと、エリアーヌがまなじりを和らげた。その眼差しはやさしく見える。
 
 知らぬ間に、じんわりと手のひらに汗が滲んでいた。は唇を結んだまま、俯く。
 返事などはなから期待していなかったと言わんばかりに、エリアーヌが踵を返す。去り際にひどく小さな声が落ちた。

「マイクラン様の無念は私が晴らすわ」

 はっとして顔をあげれば、背筋を伸ばして歩くエリアーヌの姿が目に入った。その向こうに、不機嫌そうに顔をしかめるフェリクスがいる。
 エリアーヌの手が、たおやかな仕草でフェリクスの肩に触れた。

「さあ、客間に戻りましょう。、あまり皆さまを待たせないようにね」

 こちらを振り向いたエリアーヌの瞳は、を映すことはなかった。

 
 
 ブルゼンを手に、廊下をとぼとぼと歩く。
 母のことは気になるが、エリアーヌの言葉を無視するわけにもいかなかった。つま先に視線を落としてばかりで、前方の人影には気がつかなかった。



 静かな声と共に、肩をやさしく押さえる手があった。「前を見て歩くように」と、いかにも教師らしい台詞を告げるベレトを、は驚きをもって見上げた。

「べ、ベレト先生」
「……浮かない顔をしている。母親の体調が芳しくなかった?」
「あ……い、いえ、そういうわけでは」

 慌ててはかぶりを振る。母の顔を見ていない、とはとてもじゃないが、口にはできない。
 じっと見つめられて、は思わず視線を逸らした。あまりに真摯な視線は、心の中まで見透かされてしまう気がした。

「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「問題ない。自分は、手洗いを借りただけだ」

 の戻りが遅いので様子を見に来たのかと思ったが、違ったようだ。はほっと胸を撫でおろす。
 隣に並んだベレトが、自然な仕草での手から籠を取り上げた。「これはブルゼンか。さすがはファーガスだ」と、籠の中身を確認して、ベレトがほんのわずかに表情を緩める。
 籠いっぱいのブルゼンとベレトの組み合わせに、はシルヴァンと共に囲んだ茶会を思い出した。

 ──困難に面したときは、切り開くしかないと自分は思っている。君たちがそうなったときには、惜しみなく力を貸したい。

 ベレトの言葉が脳裏を過ぎると同時に、手を包みこんだその熱までも蘇ってくるようだった。
 
「ベレト先生」

 足を止めると、ベレトも同じように立ち止まる。
 ベレトを見つめれば、硝子玉のような瞳が見つめ返してくる。きゅ、とは一度唇を引き結んだ。

「……前に、進む勇気をください」

 目の奥が熱い。鼻がつんと痛む。
 涙が零れ落ちてしまわないように、はぎゅうと目を瞑った。
 マイクランの言葉通りに姉に疎まれていたという事実は、をひどく打ちのめした。悲しみに暮れるばかりではいけないとわかっている。わかってはいるのだ。
 フェリクスがを生家に連れてきたのは、傷つけるためではない。
 
 ベレトが近づく気配があった。ブルゼンを持たないほうの手が、をそっと抱き寄せる。

はひとりじゃない。大丈夫だ、一緒に進もう」
「……っ、」

 我慢していたはずの涙がぽろりと落ちる。止めようと思うほどに、次から次へと溢れて止まらない。
 
「帰ろう、ガルグ=マクに」

 ベレトの声がいつになくやさしく響いた。はベレトの胸に顔を埋めながら、こくりと頷く。ぽんぽん、と背を叩くその手は、幼子を慰める手つきに似ていた。
 生まれ育ったこの屋敷よりも、ガルグ=マクのほうがよほど、居心地がいい。理由なんて考える必要すらなかった。

 
 
 来たときと同じように、玄関先には使用人がずらりと並ぶ。ただし、その中心に立つのは、伯爵ではなくエリアーヌだ。

が元気そうで安心いたしました。皆さま、妹をよろしくお願いいたします」

 美しい微笑みを浮かべて、エリアーヌが首を垂れる。
「心にもないことを」と、フェリクスが苛立たしげに小さく吐き捨てる。ディミトリが視線でそれを咎め、シルヴァンに至っては軽く小突いていた。
 
 そんな気の置けない幼なじみたちを横目に、頷いたベレトがエリアーヌと握手を交わす。
 はちらりとエリアーヌを見やるが、声をかける気にはなれなかった。エリアーヌもまた、と口を利くつもりはないようだった。その証拠に、視界にを収めることはない。

 胸が痛い。俯きそうになる顔をふいに覗き込まれて、はぎくりと身を強張らせた。リンハルトの大きな瞳がぱちぱちと瞬かれる。

「目が、」
「ほら、さっさと行こうぜ。お貴族様のお屋敷なんざ肩が凝ってしょうがない」
「ハピもこーいう雰囲気苦手。ため息出そう」

 リンハルトの言葉を遮って、ユーリスがベレトの肩を叩いた。ハピの言葉に「やめてくれる?」と、リンハルトが顔をしかめる。
 各々が踵を返すなか、シルヴァンが恭しくエリアーヌの右手を取った。

「会えてよかった。楽しい時間をありがとう、エリアーヌ嬢」

 指先に落とされた唇に、エリアーヌが満足げに笑って「またお会いできるのを楽しみにしていますわ」と返した。


「あ、やっぱり目が赤いね」

 乗り込んだ馬車の中で、リンハルトがの顔を覗き込みながら呟いた。は慌てて手で目元を隠す。この距離では、眼鏡で視線を遮ることが難しい。
 ユーリスが呆れた顔をして、リンハルトの足先を軽く蹴る。

「俺が言うのもなんだが、配慮のない奴だなあ」
「……配慮?」
「ていうか、そんなにマジマジ顔見るとか失礼じゃん」
「……そう?」

 ユーリスとハピに詰められてなお、リンハルトは不思議そうに瞳を瞬くだけだ。

は口数が少ないから、観察は必要だよ」
「観察って……言い方、気をつけたほうがいーよ。気分よくないしょ」

 ハピが尖らせた唇を、襟巻の中へと埋める。ふーん、とわかったようなわかっていないような、気の抜けた返事をしたリンハルトが首を傾げる。動きに合わせて、結われていない顔周りの髪がさらりと揺れた。

「君の家族が君をどう言っていたのかは知らないけど」

 リンハルトの指先が、頬に落ちたの髪の毛を掬い上げる。

「月とすっぽんとは思わないかな。顔をあげなよ。前にも言ったけど、君は自分で思うより劣ってなんかいない」
「……や、めてください」

 は思わず、リンハルトの手を払っていた。
 家族の言葉や態度は、まるで呪いのように、から自信を奪ってしまっている。
 その様子を見ていたユーリスが口を開く。

「なあ、おまえはほんとうに”生まれたときから、凡愚で日陰者”だったか?」

 それはかつて、がユーリスに放った言葉だった。以前のだったなら、一も二もなく頷いていたはずだ。
 でも、だけど、だって。
 震えた唇は、うまく動いてくれなかった。落ちた沈黙の中、フェリクスが鋭く舌打ちした。

「忌々しい。俺は、昔からお前の家族が好かん。どいつもこいつも、性根が腐っているというほかない」
「…………」
「あいつらと共に腐っていくというなら、好きにしろ」

 フン、とフェリクスが顔を背けた。
 は、水分を含んで重くなった瞼を押し上げる。握りしめた指先は冷たいけれど、それでも行きの馬車の中よりはだいぶマシだ。

「”あなたの顔を見たくない”と、姉に言われて、わたしは士官学校に行くことになりました」

 これまで誰にも打ち明けられなかったのは、その出来事をが受け止め切れていなかったからだ。
 ハピが「うわ、信じらんないんだけど」と顔を歪める。外されたフェリクスの視線が、瞠目と共に戻ってくる。唖然とした様子で言葉を失ったフェリクスが、くしゃりと前髪をかき上げた。
 真紅の瞳が苛烈な色を宿す。

「ハッ、つくづく……」
「フェリクスさんの言う通り、わたしは目を背けていました。認めます。マイクラン様のお言葉は、正しかった」

 の存在は姉を苦しめていた。紋章を持つということは、そういうことなのだ。

「信じたくないけれど、事実なのだと姉に会って実感しました。そんなことに長年気づきもしなかったわたしは、やはり至りませんね」

 ふ、と自嘲の笑みが漏れる。
 
 エリアーヌの妹であることが、にとっては誇りだった。
 インデッハの大紋章は、には無用の長物だと思っていた。紋章を持っていると誰かに知られることが恐ろしかったし、よく知らない紋章自体が恐ろしくてたまらなかった。
 そうやって惑うを導いてくれたのは、間違いなくベレトだった。

 背を撫でてくれたベレトの手の感触を思い出しながら、は顔をあげる。
 
「リンハルトさん。わたし、ハンネマン先生のお言葉を信じてみようと思います。紋章は人を選ぶ──わたしは、紋章に選ばれたのだと」

 リンハルトの指が伸びて、いつの間にか頬を伝い落ちる涙を拭った。「うん。それは素晴らしいことだよ」と、リンハルトが笑んだ。
 フェリクスが無言のまま、手巾を投げつけるようにしてに手渡す。

「ごめんなさい。皆さんが、やさしいから……」
「嬉し涙だってんなら、大歓迎だ」

 ユーリスが大口を開けて笑うので、はつられて小さく笑みを零した。





 馬車を降りる際に手を貸してくれたのは、ベレトだった。
 濡れた手巾を手にするを見て、わずかに目を瞠ってすぐ、眉をひそめる。

「自領に帰るべきではなかった?」

 気遣う響きを持って、ベレトが尋ねる。重ねた手がぎゅっと握られて、は驚きのあまり躓いてしまう。つんのめったの身体を、ベレトが素早く支える。
 抱き留められて、は慌てて顔をあげた。
 フォドラでは珍しい色をしたその瞳が、戸惑うように揺れた、気がした。

「す、すみません」
「いや、大丈夫か?」
「はい」

 体勢を整えてなお、ベレトの手は離れていかない。の視線を受けて、ベレトが表情を変えないまま「お節介だったかもしれない、と考えていた」と、静かに告げた。
 
 いつかは向き合わなければならないことだった。荒療治が必要だといったユーリスは、正しかったのかもしれない。
 そう考えて、はおもむろにかぶりを振った。

「いいえ」

 は、ベレトの手を握り返す。

「いつまでも、逃げ続けるわけにはいきませんから」
「そうか」
「それよりも、こんなことで休日を潰してしまって申し訳ないです」
「……皆、気にしていないだろう」

 頷いたベレトが、かすかに口角を上げた。ように見えたが、ふいにシルヴァンが割って入ったので、確かではない。

「なーに二人でいちゃついてるんです? 先生、もう手を握る必要はないでしょうよ」

 シルヴァンに指摘されて、は慌てて手を離す。
 やれやれ、というふうに肩をすくめるベレトの顔は、いつもと変わり映えがない。見間違えだったのかも、と思い直したの傍らに、ディミトリの呟きが落ちた。

「先生も、あんな顔をするんだな」

 は「あんな?」と、首を傾げながらディミトリを見上げた。

「ああ、いつになくやさしい顔をしていた」

 嬉しそうに言うディミトリもまた、やさしく笑っていた。
 はそれを口にすることはなく、ディミトリと同じく見慣れたガルグ=マクの光景を眺める。屋敷に帰ったときよりもずっと、帰ってきたという気持ちになる。
 ──ここは、やさしさに溢れている。

「あれ? 先生たち、どこか行ってたんですか?」
「まあ大所帯ねぇ~」

 出かけていたのか、アネットとメルセデスが仲良く並んで近づいてくる。

「お、丁度いいところに。先生、皆で夕飯といきましょうや!」

 シルヴァンがベレトの肩を抱きながら、明るい声を上げた。ゴーティエ領での盗賊退治など、まるで尾を引いていないようなふるまいである。
 けれど、その胸の内など誰にもわかりやしない。

、俺たちも行こう」
 
 ディミトリがぽん、との肩を叩いて歩き出す。
 ひとりではない。
 ベレトの言葉を思い浮かべながら、は皆の輪の中へと足を踏み出した。

憐憫が追いついてくる前に