「出せ」
フェリクスが短く告げる。
身を竦ませるばかりのに代わって、ベレトが「何を?」と至極当然の疑問を呈し、首を傾げた。フェリクスの視線がわずかに動いて、ベレトを見やった。そうして、苛立たし気に舌を打つ。
「……親父殿に借りた手巾だ」
慌てて差し出した手巾を、フェリクスの手がひったくる。不機嫌な顔をそのままに、フェリクスが踵を返したところで「フェリクス!」と、声が響いた。
「ええい、七面倒な……」
フェリクスの手の中で、手巾がくしゃりと歪む。
「はあ……やっと追いついた。何だよ、がどこにいるのか知ってたのか?」
フェリクスと違って、軽く息を切らせたクロードが肩を竦める。さらに険しさを増した視線がクロードを射抜くが、どこ吹く風である。
クロードがフェリクスの手元を覗き込んで、口角を上げた。
「ちょっととの関係を聞いただけだろ? そんなに怒らなくていいと思うけどねえ」
「……黙れ」
「悪いが、俺は口から生まれたような男なんでね」
クロードの挑発するような物言いに、フェリクスがもう一度舌打ちした。
は固唾を飲んで二人のやりとりを見つめる。
こうなってしまったのは、どう考えてものせいである。もっと早くに手巾を返していれば、あのときクロードにフラルダリウスの紋章を見られていなければ、そもそもロドリグから手巾を受け取らなければ──
「そうか」
ぽつりと落とされた呟きに、のみならず、フェリクスとクロードの視線もベレトに向いた。
「とフラルダリウスは、隣接した領地だった」
合点がいったとばかりに、ベレトがひとつ頷いてみせる。
は思わず呆気にとられる。クロードが小さく吹き出し、口元を押さえて顔を伏せた。その肩が細かく震えている。それを横目に、フェリクスが盛大なため息を吐いた。
怒りがそがれたのは目に明らかで、は人知れず胸を撫で下ろした。
はそわそわと落ち着かない気持ちで、食堂の席についた。
異彩を放つベレトが注目を集めるのは然り、級長であるクロードだってよく目立つ。好奇に満ちた視線が四方から向けられるのを感じて、は俯くほかない。フェリクスが煩わしいと言わんばかりに、舌打ちする。
「おちおち飯も食えん」
「まあそう言うなって。珍しいものを見ちまうのは、人の性さ」
ぱちん、とクロードが愉快そうに片目を瞑る。フェリクスがこうした軽薄な態度を好まないと知っているは、膝の上でぎゅっと拳を作った。余計なことを言ってフェリクスの神経を逆撫でしてほしくないが、にはクロードの軽口を咎める真似はできなかった。
ちらりと向かいのクロードを窺えば、その顔には人好きのする笑みが浮かんでいた。
「フン、好奇心は猫をも殺すと言うがな」
取りつく島もないフェリクスに、クロードが肩を竦める。
「不穏な空気だ」と、ひどく唐突にベレトが呟くので、はぎょっとして隣を見やった。いつもと代わり映えのない表情だが、二人を見つめる瞳はどこか責めるように見える。
「食事を楽しむ気がないのなら……」
「いやいや、まさか! 俺は是非とも、青獅子の学級の皆さんとお近づきになりたいと思っているさ」
フェリクスがクロードに胡乱な目を向けるが、何も言わなかった。
腕を組んで黙り込むフェリクスと、おどけたふうに笑うクロードの姿は対照的だった。口を噤んだベレトが頷く。これ以上小言を言うつもりはないようだ。
湯気の立ち上る食事を前に、すぐに食具に手を伸ばしたベレトとクロードに対し、とフェリクスは祈りの形を取った。平民であるベレトが食前の祈りに馴染みがないのはわかるが、クロードはリーガン公爵家の嫡男のはずである。
の驚いた顔と、フェリクスの呆れた顔を向けられて「おっと」と、クロードが軽く肩を竦めた。
「士官学校の食堂なんだ、畏まらなくてもいいだろ?」
それもそうか、と思うも、染みついた習慣はそう簡単に消えないものだ。クロードのそぶりを見るに、まるで食べる前に祈りなんて捧げてこなかったようである。もっとも、貴族らしからぬクロードといえど、そんなわけがないだろう。セイロス教は、ファーガスの国教であり、レスター諸侯同盟においても信仰は貴族の義務であるはずだ。
フン、と悪態をついたフェリクスが短く祈りの言葉を呟く。も手を組み合わせてそれに続く。
ベレトが食具を手にしたまま、それを見つめていた。
「ローレンツじゃあるまいし、行儀作法がなんたらとうるさく言わないでくれよ?」
「……言わん。そも、次期盟主ならみっともない食べ方はしまい」
「あー……耳が痛いね。ま、それはともかく……いただこうぜ、先生」
クロードが、固まったままのベレトに声をかけた。頷いたベレトが、食事に手をつける。一口が大きい。
「それにしても、この面子で食事とはね。俺は願ったり叶ったりだが……ほらフェリクス、また眉間に皴が寄ってるぞ」
「く、クロードさん……」
は首を横に振る。
すぐにでも不穏な空気が舞い戻ってきてしまいそうだ。とはいえ、いまの空気も決して明るいものではない。クロードが口を開かなければ、沈黙が延々続きそうだった。
「隣接した領地なら、家族ぐるみの付き合いがあってもおかしくないんじゃないか?」
一口食べては、クロードが話を振る。はちら、とフェリクスの様子を窺うが、一瞥すらもくれない。もはや、クロードと口を利く気はないのかもしれなかった。
はおずおずと口を開く。
「お屋敷にお邪魔したこともありましたが、もう昔のことですから……」
いまとなっては、いつから疎遠になってしまったのかもわからないほどである。
頬を膨らませてもぐもぐと口を動かしていたベレトが、ふと食具を置いた。ごくん、と嚥下する音が隣から聞こえる。
「自領に寄らなくてよかったのか」
「え……」
「課題とはいえフラルダリウス領まで行ったのだから、足を伸ばせばよかったのでは」
「いいえ」
考える間もなく、はかぶりを振っていた。
あなたの顔を見たくない。
姉の声が、姉のほっそりとした指先が、思い起こされる。そのたった一言によってガルグ=マク大修道院に追い払われたが、みすみす家に顔を出すことを許されるわけがない。想像しただけで背筋が凍るような思いがした。
「へえ、もしかして家族と折り合いが悪いのか? 俺も似たようなもんさ、家族を恋しがるような年でもないしな」
の頑なな態度を見て、クロードが口を挟んだ。場を和ませようとしてくれたのだとわかっても、は噛みしめた唇を開くことができなかった。
「……折り合いが悪い。そんな言葉で片づけられるものか」
地を這うような響きを持って、フェリクスが忌々しげに告げる。
「お前のところの姉贔屓には反吐が出る」
「フェリクスさんには関係ありません」
は反射的に口を開いていた。
家族のあり方が歪んでしまっているのは、指摘されずともわかっている。わかったうえで、は受け入れているのだ。
「……その通りだ。だが、目の前で死なれては気分が悪い」
「フェリクス」
フェリクスの隣に座るクロードが、宥めるようにその肩を叩く。煩わしいと言わんばかりに、フェリクスがその手を払った。
「いい加減にしろ。他学級の級長が、首を突っ込むな」
「……なら、学級が同じならいいのか?」
「は?」
「、金鹿の学級にはこんなこと言う奴いないぜ? なんせ皆、平和主義なんでね」
「貴様、何を……」
がたん、と席を立ったフェリクスを、もベレトも目を瞠って見上げる。クロードだけが、落ち着き払った様子で、愉快げに目を細めた。
「先生のところより、よっぽど安全な戦場さ。たぶんね」
「クロード、担任を前によく引き抜きができるな」
「悪いね、先生。を絶賛口説き中なんだ、機会は逃したくない」
「ふざけたことを」
ぽかんとするを置いて、会話が進んでいく。セテスによって有耶無耶になった話──本気で、を自学級に勧誘しているとわかって、ますます呆気にとられてしまう。クロードに勧誘されるような心当たりが一切ない。
フェリクスがため息を吐いて、皺を刻んだ眉間を指先で押さえる。
「真剣そのものだよ。どうだ、?」
翡翠色の瞳がをひたと捉える。
気がつけば、席を共にしているベレトたちのみならず、周囲の生徒たちもを見ていた。耳をそばだてているのを感じて、は居たたまれない気持ちになる。
「すみません、クロードさん。お気持ちはうれしいのですが……」
「残念だな。まあ、気長に行くとするよ」
その口ぶりは、あまり残念がっているようには見えなかった。フェリクスが舌打ちをして、荒々しく腰を下ろす。びくりと震えたの肩に気づいて、ベレトがわずかに眉をひそめた。
「さて、冷めないうちに食っちまおうぜ」
クロードが明るく言ったが、その席の誰ひとりとして、にこりともしなかった。
もうちょっと話したい、とクロードに乞われたベレトを食堂に残し、とフェリクスは寮へと向かった。先を歩くフェリクスだが、その距離が開いていくことはなかった。遠ざかることのない背中を見つめていれば、フェリクスがちらりとこちらを振り返る。
歩くのが遅かったのかもしれない。「すみません」と、口にして駆けだそうとしたの腕を、フェリクスの手が掴んだ。
「フェリクスさん、」
「俺の態度は褒められたものではないとわかっているが……いまのお前を見ていると、どうにも腹立たしい」
「…………」
「ハッ……マイクランにあそこまで言われてなお、姉が好きだ大切だと? 笑わせてくれる」
嘲る口調のくせ、傷ついたような顔をする。
「ほんとうに、反吐が出る……」
ぎゅう、と握られた腕が痛い。
フェリクスは、ただを心配してくれている。そんなことくらい、誰に言われずともわかっていた。辛辣な言葉で突き放そうとも、そこにあるのはへの思いやりだ。
「俺には、お前の家族が理解できん。そんな奴らを許容するお前のこともな」
「……仕方のないことです」
「仕方がない? 本気でそう思っているのなら、救いようがない」
フェリクスに睨まれ、は身を竦める。腕を掴む手が離れて、の肩を押しやった。ふらついた身体が壁にぶつかる。
だん、と音を立ててフェリクスの拳が、のすぐ近くに叩きつけられた。
「何もかもを諦めたようなその顔を、いますぐやめろ! お前は目を背け続けているだけだ。お前をそうさせているのは、ほかでもないお前の姉だ」
咄嗟に言い返そうとした唇が戦慄く。
は、とフェリクスが息を呑んで瞠目する。は慌てて顔を俯かせたが、頬を伝った涙は見られてしまった。
「……フェリクス? 何を──」
フェリクスが素早く飛び退く。ドゥドゥーを伴ったディミトリが「?」と、瞳を瞬いた。
「どうした?」
「……お前には関係ない」
「だが……」
ディミトリが気遣わしげに、を窺う。
は俯いたまま、静かに首を横に振った。口を開けば嗚咽が漏れてしまいそうで、唇をきつく噛みしめる。
チッ、と舌打ちしたフェリクスが、の手を掴んで歩き出す。「猪が口出しするな」と、フェリクスが吐き捨てる。踏み出したドゥドゥーを、ディミトリの片手が制した。
は引きずられるようにして、フェリクスに続くことしかできなかった。
「ごめんなさい」
の言葉に、フェリクスはなんの反応もしなかった。
「わかっているんです。フェリクスさんのおっしゃることは正しい」
「…………」
「でも、わたし、怖いんです。マイクラン様の言葉がすべて事実だと、確かめることが、怖い」
フェリクスが足を止めて、振り向く。「この期に及んでお前は、甘ったれたことを」と、苛立たしげな声が降ってきて、は顔をあげた。
存外、その顔に怒りはなかった。
フェリクスの指先が荒っぽく、頬の涙を拭う。すこしだけ痛い。
「ほんとうに、世話の焼ける奴だ」
どこかやさしく響いたその声に、は案外ロドリグの言う通り、フェリクスは喜んで世話を焼いてくれているのかもしれないと思った。