羽筆を持つ手がひとつも進まずに、は真っ白なままの羊皮紙に指を這わせる。
ぽたり、と筆先から落ちた洋墨が小さな丸を作った。はっとして、は慌てて羽筆を筆立てへと戻した。記すべき内容ははっきりしているのに、どう書き出せばいいのかわからない。
ゴーティエ家から破裂の槍を盗み出したマイクランが、教団によって討伐されたことは、すでに家の耳にも届いているかもしれなかった。何せ、英雄の遺産が賊に盗まれるなど、前代未聞の大事件である。もっとも──たちにとっての大事件はマイクランの変容であったが、レア大司教から緘口令が敷かれることとなったため、それが姉に伝わることはない。
討伐にあたったの口から伝えるべきだし、もっと言えば課題を言い渡されたそのときに、手紙を出すべきだった。けれど、は躊躇うばかりで幾度も羽筆を持ちながら、何も綴ることができずに翠雨の節が過ぎてしまった。
毎節、実家には近況を記した手紙を送っている。強要されたわけでもないし、一度として返事がきたこともなかった。たとえ便りがなくとも、心配などされることはないと、は知っている。
小さくため息を吐いて、は入口へ視線を投げた。
角弓の節を迎えたとはいえ、まだ翠雨の節の名残を残すように、しとしとと雨が降っていた。
自室の机に向かってもきりがないので教室に足を運んでみたが、結果は変わらなかった。はもう一度、ため息を吐いた。
「……?」
ひょい、と入り口から顔を覗かせたのは、クロードだった。他学級の教室だというのに、気後れする様子もなく足を踏み入れ、ずんずんと近づいてくる。そうして、呆気にとられているの隣に、当たり前のように腰を下ろした。
翡翠の瞳が、羊皮紙を映し、それからの顔を映した。揺れる三つ編みの先から雫が落ちる。
「クロードさん、濡れて……」
は慌てて手巾を取り出した。「おっと、すまないな」と、それを手にしたクロードが目を丸くする。
「フラルダリウスの紋章?」
「え? あっ……! す、すみません。間違えました」
書くことのできない手紙と同じように、はフェリクスに手巾を渡すことができずにいたのだ。さっと手巾を懐にしまったを、クロードが興味深げに見つめる。
「ふーん?」
「あ、あの、これはフラルダリウス公にお借りしたもので……クロードさんが思っているようなことは、何も」
「ほほう? なるほどなるほど」
「……ほんとうに、フェリクスさんとは親しいわけではないのです」
クロードが大袈裟に頷いてみせるので、は眉を八の字にしながら、今度こそ自身の手巾を差し出した。「わかったよ」と言いながら、クロードがしたり顔で笑う。は閉口した。
顎先を伝う水滴を手巾で押さえてから、伽羅色の手が山吹色の外套を払う。わずかに色を濃くした級長の証を見て、はクロードの全身へと視線を這わせた。幸い、それほど濡れていないようだった。太陽は雲に隠れてしまっているが、寒さは感じない。これなら風邪をひくことはなさそうだ。
「そんなに見られると照れるな」
頬杖をつくクロードの顔に、照れなど一切見られなかった。探るような視線から逃れるために、は顔を俯かせた。
「ご冗談を……」
落とした視線が、ふと指先を捉える。とん、とクロードが羊皮紙を叩いた。
「家族への手紙なら、俺のことでも書いてくれ。次期盟主と仲良くしてます、ってな」
「そ、そんなこと書けません」
はかぶりを振った。あまりに畏れ多い。
クロードが「そりゃ残念」と、冗談とも本気ともつかぬ調子で呟く。はそろりとクロードを窺った。
「前節は……いや、前節も大変だったみたいだな。しかし、英雄の遺産を盗み出すとは大胆かつ不敵なことをするよなあ。教団が躍起になるのも当然か」
「破裂の槍、俺も目にしたかったね」と、のんびりとした口調でクロードが言って、ぐっと腕を伸ばして身体をほぐす。クロードの動きに合わせて揺れる三つ編みを、は口を噤んだまま見つめた。
青獅子の学級は、いまだ暗い空気に包まれている。
本来なら、実の兄を討ったシルヴァンこそが塞ぎ込みそうなものだが、彼はガルグ=マクに帰ってからというものまるでいつもの調子を取り戻したように明るくふるまっている。は、なかなか気持ちが切り替えられないし、いつまでもマイクランの姿と声が忘れられずにいる。
ふいに、クロードの手がに手巾を握らせて、その上からぎゅっと包み込んだ。びくりと肩が跳ねて、身体が強張る。
「なあ、」
クロードが身を乗り出して、の顔を覗き込む。
「金鹿の学級は、青獅子の学級に比べりゃ平和なもんさ。竪琴の節の課題からして、あんたのところは毛色が違う。先生のせいとは言わないがね」
「…………」
「学級を移るっていう手もある、ってことさ。俺はもちろん、なら大歓迎だけどね」
荷が重いと思ったことは何度もある。けれど、ベレトの元を離れたいと思ったことは、一度もなかった。生徒ひとりひとりに、真摯に向き合ってくれることを知っているからだ。
クロードの顔を見つめ返したとき、慌ただしい足音と共に「フレン!」と教室内にセテスが駆け込んできた。クロードよりも濃い緑色の瞳が教室内を見回して、明らかな落胆を見せる。驚きに固まるをよそに、クロードがすっとセテスに近づいた。
「そんなに慌ててどうしたんです? セテスさん」
セテスが濡れた額を手の甲で拭うが、それが汗なのか雨なのか判断がつかない。ぐ、といつもより深い皺を眉間に刻み、セテスがクロードに向き直る。
「フレンを見なかったか?」
何かを押し殺すような声音に、クロードが首を捻る。
「いや、俺は見てないですね。はどうだ?」
「いいえ、わたしもお見かけしていません」
そうか、と短く答えて、セテスが教室を飛び出していく。その背を見送ったクロードが、ゆったりとした足取りでの元へ戻ってくる。
「セテスさんのあの慌てよう……何かあるな」
ふむ、と顎先に手を当てるその顔は、どうみても面白がっている。
はわずかに眉をひそめた。
セテスが妹のフレンを溺愛していることや、その過保護ぶりは有名な話である。そのフレンの姿が見えないとなれば、あれほど慌てるのも無理はない。
だってきっと、姉が黙っていなくなってしまったら、冷静ではいられない。姉や両親は、がいなくなっても、気にも留めないどころか清々するかもしれない──
「返事はすぐにとは言わない。考えておいてくれ」
沈んだ思考が、クロードの声に掬い上げられる。は、すぐにはクロードの言葉を理解できず、思わず呆けてしまう。
「え……」
「金鹿の学級はいつでもを歓迎するよ」
「クロードさん、」
腰を浮かしかけたを、クロードの手が制する。
「悪いが、一度断られたくらいじゃ諦めないぜ?」
翡翠色の瞳の中には、弱り切った顔をしたがいた。
ふ、とクロードが笑みを零す。
「色のいい返事を貰えるように、努力するさ」
はうんともすんとも言えずに、軽く片手を上げて踵を返すクロードの姿を見ていた。
しばらく、ひとりきりの教室でぼんやりしたのち、当たり障りのないことを書いた手紙をくしゃりと握りつぶした。いつまで、逃げ続けるつもりなのだろう。懐にしまい込んだ手巾が、日に日に重くなっていくような錯覚を覚える。
はため息を吐いて、教室を後にした。
今節の課題が、フレン捜索への協力と聞いて、の心臓が悲鳴を上げたような心地がした。フレンを捜すセテスを見たのは、もう五日も前のことである。行き先を告げずに出かけた程度に思っていたが、いまだに行方がわからないとなれば、不測の事態が起きたと考えるのが自然だ。
そのうえ、最近は物騒な噂──夜な夜な街を徘徊して、人を襲う者がいるらしく”死神騎士”と怖れられている──があるのだ。あまり、他者と関りのないの耳にも入るくらいに、その噂はガルグ=マク中に広がっている。
「フレンさん……」
はフレンと言葉を交わしたことはない。
けれど、ガルグ=マクの至るところでフレンの姿を見ることはできた。彼女はセテスのみならず教師や生徒にも愛され、いつもひとに囲まれて笑っていた。
フレンの捜索には騎士団も動員され、ガルグ=マク大修道院は騒然としている。聞こえてくるのは、やはり件の噂話や、アビスを疑う声である。は落ち着かない気持ちで、大聖堂に足を踏み入れた。
フレンが行きそうな温室や食堂などが思いつく場所は、もう調べ尽くされているだろう。ならば、にできるのは女神に祈ることくらいである。
何度足を運んでも、大聖堂の荘厳さには圧倒される。
長椅子に腰を下ろしながら、はガルグ=マク大修道院にきた当初のことを思い出す。あのときに祈ったのは” 何事もなくこの学校生活が終わって、家に帰れますように”だった。入学してからの数節を思い返すが、何事もなく過ぎたとは言い難い。
野外活動の際に賊に襲われたこと、その残党の討伐に、王国内の反乱軍の鎮圧、アビスでの出来事やマイクランの騒動──目を瞑って祈るうちに、これまでの学校生活が思い起こされた。
金鹿の学級は、青獅子の学級に比べりゃ平和なもんさ。
ふいに、クロードの声が脳裏に蘇った。
「……! べ、ベレト先生?」
閉ざしていた瞼を押し上げると、いつの間にか目の前にベレトが立っていた。
「随分、熱心に祈っていた。フレンのことを?」
「あ、は、はい……」
思わず頷いたが、それは半分ほんとうで、半分は嘘だった。は気まずさを覚えて、目を伏せる。組んでいた手をそのまま、膝の上へとそっと下ろした。
「わたしが祈ったところで……あまり、意味はないかもしれません」
「何故?」と首を傾げて、ベレトが右隣に腰を下ろした。
は目を伏せたまま、小さく答える。
「わたしは、メルセデスさんのような敬虔な信徒ではありませんから」
「……?」
「こんなときばかりに祈られたって、女神様も迷惑しているかもしれません」
ベレトがますます不可解そうに首を傾げる。「そういうものだろうか」と、平坦な声が隣から聞こえる。
が日課として祈りを捧げるのは、それが貴族としての務めであるからに過ぎない。幼い頃、女神に祈ったのは”姉に紋章を移してください”だったが、当然ながら叶うわけもなかった。
「不安?」
俯いた顔を、ベレトに覗き込まれる。
不安は不安である。フレンのことはもちろん心配だし、噂になっている死神騎士のことだって恐ろしい。けれど、の胸を占めるのは姉のエリアーヌのことだった。
「……はい」
小さく頷いて、はますます顔を俯かせた。この胸の内を悟られたくない。
「フレンが見つかれば、その不安は拭える?」
静かに紡がれたその言葉に、ははっと息を呑んで顔をあげた。
ベレトの瞳が、色彩硝子から差し込む光を受けて、虹色に輝いていた。ひたと見つめられて、は視線を逸らせなくなる。咄嗟に開いた唇からは、ひとつも言葉が出なかった。
先に視線を逸らしたのはベレトだった。は無意識に、息を吐いた。
「自分は頼りないだろうか」
「そ、そんなことは」
焦るの頬に、ベレトの指が触れた。意図がわからずに目を白黒させていると、その指先がぐっと頬を押した。ますます意味がわからない。
「の笑った顔を久しく見ていない」
ベレトが真面目腐った顔で告げるので、は眼鏡の奥で目を丸くした。
思わず、はまじまじとベレトの顔を見つめてしまう。
「それを言うなら、わたしはベレト先生の笑った顔をみた覚えがありませんが……」
表情を変えないまま、ベレトが首を傾げる。
はふと、祝勝会のことを思い出した。学級対抗の模擬戦の殊勲者であるくベレトは、食堂で生徒たちに囲まれていたけれど、眉ひとつ動かさぬまま黙々と食事を平らげていた。嬉しくなさそうだ、とディミトリがそれを見て苦笑を漏らしていた。
その頃を思えば、ベレトの表情も少しはわかるようになったような気もするが、笑顔という笑顔は目にした記憶がない。
ベレトの指が、の頬から己の頬へと移る。「なるほど」と、ベレトが小さく呟いて頷いた。
「笑えと言われても困る、か」
「い、いえ、その……」
嫌味のつもりではなかったが、そう捉われても仕方がない。弁解の言葉は思い浮かぶことなく、は口を噤んで俯く。
沈黙が落ちる。
カツカツと、荒々しさをもって近づく足音に気がついたのは、ベレトだった。
「フェリクス」
驚きもなく紡がれたその名に、は弾かれるように顔をあげる。切れ長の紅い瞳が、苛烈な色を宿してを睨めつけた。