ガルグ=マクではすっかり遠のいていた上着に袖を通してなお、ファーガスではこの時期、雨が降るとまだ肌寒さを感じる。雨除けの外套につく水滴を払うの指先は、冷え切っていた。緊張のせいもあって、爪が白んでいる。
コナン塔は元々、北方の民の侵攻に対する監視と防衛の拠点であり、その機能を果たすことがなくなって久しい。
賊が根城にしているとはいえ、人が住むには適しているとは言い難く、隙間風も雨漏りもあるようだった。建物の中は、激しい雨を降らせる曇天のせいか、随分と薄暗い。「な、なんだか暗くて、不気味ですね……」と、アッシュが潜めた声はかすかな震えを持っていた。アネットが、不安そうにメルセデスの手を握る。
「ベレト殿、私が殿を務めます」
大修道院から遣わされたギルベルトの言葉に頷き、ベレトが天帝の剣を片手に小さな明かりを掲げる。うすぼんやりとした中で、ベレトの深い青緑色の髪から、雨粒が滴るのがわかった。
ベレトの視線が生徒たちを捉える。
「皆、気を抜かずに行こう」
は冷たい指先をぎゅうと握りしめ、胸に抱いた。
「賊の気配が濃くなってきました。そろそろ最上階なのでしょう」
ギルベルトの言葉を受けて、ベレトが足を止める。先の様子を窺うベレトの顔はいたって普段通りで、焦りや緊張とは無縁のように思えた。
「賊とはいえ、相手には英雄の遺産がある。くれぐれも気を抜くなよ」
級長たるディミトリがその場にいる全員を見渡してから、シルヴァンのところで視線を止める。
は隣に立つシルヴァンを見上げた。兄上からはなにがあっても君を守るよ、とその言葉通りに、シルヴァンはの傍を離れることなく、ここまで登ってきた。長い睫毛が、シルヴァンの垂れ目をわずかに隠す。
「……俺に遠慮なんていりませんよ」
シルヴァンが静かに告げるので、嵐のように荒れてきた雨音に、かき消されてしまいそうだった。
ディミトリはなにか言いたげだったが、頷くだけで口を開くことはなかった。チッ、とフェリクスが小さく舌打ちをする隣で、イングリットが沈痛げに目を伏せる。
振り返ったベレトが「行こう」と、手で合図をする。
はシルヴァンから視線を外し、緊張に唇を噛みしめた。指先を握り込んで、その震えを無理やり押さえ込む。
「……おい、行くぞ」
立ち竦むの手を、フェリクスがむんずと掴んで歩き出す。足早に歩くフェリクスに、は引きずられるようにして付いて行く。
「待て待て、フェリクス。が転んじまうだろ」
「黙れ」
フェリクスが振り向くことなく、シルヴァンを一蹴した。
「これは、お前の手に余る。騎士の真似事なら今すぐやめろ」
「これって、まさかのことか? おいおい、女の子に向かってそんな言い方……」
「黙れ、シルヴァン」
冷たく告げて、フェリクスが足を止めた。すぐに止まれずに、ふらついたの身体をシルヴァンの手が支えた。
「す、すみません……」
「大丈夫かい? ほら、みろフェリクス。お前のせいだぞ」
「フン、鈍くさい……」
フェリクスが忌まわしげに、吐き捨てるように呟く。は反射的に身を竦めた。
鋭い視線は、を飛び越えてシルヴァンを捉えた。
「この期に及んで女にかまけている暇があるのか。お前の軽薄さには反吐が出る」
「フェリクスさん、シルヴァンさんは──」
「わかった、わかった。のことはお前に任せる。頼んだぜ」
軽く肩を竦めたシルヴァンが、苦笑を漏らす。「さ、ここからが本番だ」と、一等明るい声を出して、シルヴァンがの背をぽんと叩いた。けれど、前を見据えたその瞳は真剣で、普段の軽佻浮薄さは影を潜めていた。
フェリクスがもう一度、舌を打った。
婚約者の妹として、顔を合わせたことは何度もあるが、言葉を交わしたことはほとんどない。
いつもは、あの憎悪に満ちたマイクランの瞳を前にすると、竦みあがってまともに目を合わせることさえできなかった。両親にはよくそれを咎められたが、姉のエリアーヌは苦笑を零すだけで何も言わなかった。
賊に身をやつしたとはいえ、名門貴族の嫡男であったことには変わりがない。
幼き頃よりゴーティエの教育を受けてきたマイクランの槍術は、ただの賊とは一線を画しているし、統率も取れている。
けれどもここは塔の最上階であり、追い詰めてしまえば逃げ場もない。
マイクランが禍々しい──破裂の槍を一振りする。「俺から槍を奪おうってのか」と、マイクランが憎々しげに吐き捨てた。眉間を走る顔面の傷跡が、廃嫡されてからの日々の過酷さを窺わせた。
「先生、殿下。俺に行かせてください」
シルヴァンが、マイクランを静かに見据えた。
ディミトリと視線を交わしたベレトが「わかった」と、頷く。
「とアッシュは、シルヴァンの援護を頼む。アネット、メルセデス、近くに控えて」
はアッシュと顔を見合わせて、互いに頷き合った。ぎゅっと弓を握るに「大丈夫ですよ」と、アッシュが小さな声で励ましてくれる。は緊張した面持ちのまま、シルヴァンの背後に控えた。
「何しに来やがった……紋章持ちの“お嬢さん”がよう……!」
マイクランがシルヴァンに向ける目は、まるで弟に対するものとは思えない。槍を手にしたシルヴァンが、諦めたような顔つきでかぶりを振った。
「……“破裂の槍”、取り返しに来たんだよ。尻を拭かされる俺の気持ちにもなってくれ」
「フン、さっさと死ね! 貴様さえ……貴様さえいなけりゃあ……!」
マイクランの顔が憎悪に染まる。「死ね!」と、突きつけられた破裂の槍を躱し、シルヴァンが槍を繰り出した。マイクランが体勢を崩したその隙をついて、とアッシュは矢を放った。
槍で矢を叩き落としたマイクランが、じろりとを見やった。びく、と反射的に身体が震えて、強張る。
図らずも浮かび上がった紋章によって、はもう一度矢をつがえたが、放たれたそれはマイクランを掠めもしなかった。マイクランの榛色の瞳は、記憶と違わずに、憎しみに満ちていた。
「相変わらず、愚図でのろまな出来損ないめ……ちょうどいい、貴様から殺してやろう」
地を這うような声は、まるで呪詛のようだった。の身体が恐怖で凍りつく。
「立ち止まるな、阿呆!」
すぐにフェリクスの声が飛んできて、の足がぎこちなく動いた。「!」と、アッシュの手がの腕を掴んで引き寄せる。
「ふざけんな! は関係ないだろ」
マイクランとの間に、シルヴァンが身を割り込ませる。マイクランの顔が、シルヴァンの背に隠れて見えなくなる。マイクランが忌々しげに、大きく舌打ちした。
「貴様らに俺”たち”の惨めさはわからんだろうよ! 貴様の存在こそが、大好きな姉を不幸にさせると何故気づかない? 大人しく死んだほうが、よほど姉を喜ばせるぞ!」
「、耳を貸すな! そろそろ黙ってもらおうか、兄上」
辛うじて動いた足が、地面に縫いつけられてしまったようだった。
自分の存在が、姉を不幸に──
ぐいっ、との腕を引いて、アッシュが顔を覗き込んでくる。淡い萌黄色の瞳が、心配そうにを見つめる。大丈夫だと答えようとした唇は、戦慄くばかりで言葉にならなかった。
「ひどい顔だぜ」
「ユーリス、それを言うなら顔色でしょう」
アッシュが咎めるように言ったが、ユーリスの言葉は正しい。は「すみません」と、喘ぐように小さく告げた。
俯いた視界に、泥で汚れたつま先が入って、それは無遠慮に近づいてくる。
ぐい、との襟元を掴んだのはフェリクスだ。
「大人しく、後ろに下がれ」
「でも、フェリクス。これは先生の指示で」
「弱いばかりか、恐怖で竦みあがるくらいなら、戦場に立つな」
「…………」
アッシュをひと睨みで黙らせて、フェリクスが怒りをぶつける。はぐうの音も出なかった。
襟元を開放する際に、フェリクスが苛立たしげにを押しやった。荒々しく踵を返すフェリクスを、は視線で追いかける。
「、大丈夫ですか?」
「……はい」
「フェリクスは心配しているんですよ。言い方はきついけど……」
「……そう、ですね」
は目を伏せて、頷く。
フェリクスは辛辣で口も悪いが、その心根はやさしく仲間思いだ。
「そろそろ片がつきそうだな」
ユーリスが親指を立てて、マイクランを指し示す。はその先へ視線を向けた。
シルヴァンの持つ槍が、マイクランの喉元に添えられていた。膝をつき、悔しげに顔を歪めるマイクランの手には、いまだ破裂の槍が握られている。
紋章がなければ使うことができないという英雄の遺産は、マイクランが持つべきものではない。盗み出してでも手にしたい、というその気持ちは、には到底理解できそうになかった。マイクランの言う通り、彼らの──紋章を持たざる者たちの思いは、わからないのだ。
「ガキの分際でやるじゃあないか……」
マイクランが呟いたその瞬間、破裂の槍にはめ込まれた紋章石が、赤く不気味に光った。
無事に課題を終えたというのに、帰路につく馬車の中で口を開く者はいなかった。ようやくガルグ=マク大修道院に着いて「ただいま、だね」と、アネットが疲れたように笑った。
「ほんとうにね~。みんな、無事でよかったわ~」
メルセデスがほっと胸を撫で下ろす。その柔和な微笑みに、重苦しい空気がほんのわずかに和らいだような気がした。
は馬車を降りて、空を仰いだ。
コナン塔で、嵐のような雨に降られていたことが嘘のように、ガルグ=マクの空に雲はなかった。
「皆、よくやってくれた。ゆっくり休んでくれ」
ベレトが生徒の顔をひとりひとり見回して、解散を告げる。浮かない顔をしながら、生徒たちがとぼとぼと歩き出した。
の足取りも、例にもれずひどく重い。
破裂の槍の紋章石が赤い光を放ったのち、マイクランの身体は黒い靄のようなものに呑み込まれて、禍々しい獣へとその姿を変えた。
も、傍にいたアッシュとユーリスも、息を呑んだのは言うまでもない。
その姿は、まるで宝杯に呑み込まれたアルファルドのようだった。コナン塔での光景が呼び起こされて、ぞわり、と背筋に悪寒が走る。いつまでも瞼の裏に焼きついて、消えてくれない。
──同時に、マイクランの言葉がいつまでも耳にこびりついている。
「」
名を呼ばれて、は俯かせていた顔をあげた。
そこにあった榛色の瞳から、は思わず視線を逸らした。「あからさま過ぎて傷つくなあ」と、およそそれに伴う声音とは思えぬ軽さで呟いて、シルヴァンがの手を取った。
「部屋まで送らせてほしい」
向かう先は皆同じなのだから、送るも何もない。
立ち止まるとシルヴァンを、横目に見たフェリクスが通り過ぎていく。
は戸惑い逡巡した末に、小さく頷いた。やんわりと手を離すと、わずかばかりに残念そうな顔をしながら、シルヴァンがほっと息を吐いて歩き出す。歩幅を合わせてくれるシルヴァンが、隣に並んだ。
「ごめんな。守るなんて言っておきながら、兄上に言いたい放題言わせちまって」
「いいえ、シルヴァンさんが気に病むことはありません。マイクラン様は……ほんとうのことしか、言っていません」
「こんなことを言うのは、ひどいとは思う。でも、正直俺はすこしほっとしてる」
ふと、シルヴァンが足を止めた。すでに生徒たちは先を歩いていて、とシルヴァンの周囲にひとはいない。
倣って立ち止まったは、身長差からシルヴァンを仰ぎ見るようにして顔をあげた。
やさしげに垂れたまなじりと同じように、眉尻がわずかに下がっている。
「結局、君も姉君に妬まれていた……同じ境遇でこうも違うのかと思っていたが、蓋を開ければそれほど違いやしない。そんなことに、勝手に安心して、勝手に仲間意識みたいなものを持って、自分でも小せえなぁと思うよ」
ごめん、ともう一度謝罪を口にして、今度は頭まで下げる。顔をあげさせるべきとわかっていたが、は黙ってそのつむじを見つめた。次第に、橙色の髪が、滲んでぼやけていった。
「姉は……失敗するわたしに、いつも”はそのままでいいのよ”って、微笑んでくれたんです」
ほんとうに、自分は愚図でのろまで、どうしようもない愚か者だ。
──はそのままでいいのよ。”だって、紋章を持っているんだもの”。
姉がほんとうに言いたかったことも、そう口にする姉の気持ちにも、いままですこしも気づくことができなかったのだ。否、心のどこかでは気づいていたのかもしれないが、見ないふりをしてきた。
「紋章を持っているから、何もできなくたっていい。そういう意味だったんですね」
顔を見たくないと言われて当然だったのだ。姉に疎まれたくないなんて、もう手遅れが過ぎる。
ぎゅ、と瞼を閉じると、涙が頬を伝い落ちた。
「まあでも、兄上が勝手に言っていたことだから、ほんとうに君の姉君がそう思っているのかはわからないだろ?」
シルヴァンがの頬に手巾をそっと押し当てる。その仕草はひどく自然で、手慣れていた。は思わず、目を丸くしてシルヴァンを見た。
の視線に気づいたシルヴァンが「色男の嗜みさ」と、口角を上げるので、ふっと息を吐くように笑みが漏れた。
「ありがとうございます」
手巾を貸してくれて、わざとおどけてくれて、慰めの言葉をくれて、マイクランから守ってくれて──すべてを言葉にして伝えるには、は口下手すぎる。だから、それらすべてへの感謝を、たった一言に詰め込んだ。
シルヴァンが手を引いて、ゆっくりと足を踏み出した。手を振り解こうという気持ちにはならなかった。
シルヴァンの言う通り、姉の口から妬み嫉みを聞いたわけではない。けれど、それを確かめる勇気は、まだ出そうになかった。