茶器に触れる手つきがどことなくぎこちないので、は火傷をしてしまうのではないかと、はらはらとした気持ちでベレトを見守った。「、先生とお茶をするのは初めてかい?」と、右隣に座るシルヴァンが可笑しそうに双眸を細めて言った。
はそろりと視線を移し、シルヴァンの横顔を盗み見る。
いつもと同じように笑っているように見えるのは、がシルヴァンをよく知らないせいだろうか。
「……すみません、わたしなんかが同席してしまって」
「はは、なに言ってるんだ。野郎二人だけのお茶会ほど、寂しいものはないだろ?」
ベレトが視線だけでシルヴァンを見て「寂しいと思っていたのか」と、ぽつりと呟く。シルヴァンが小さく肩を竦めた。
「それより先生、どうして俺たちを? いや、俺はもちろん大歓迎ですけどね! ほら……どっちかっていうと、は俺みたいの苦手でしょう? 殿下やイングリットみたいに真面目だし」
「そ、そんなことは」
は慌てて首を横に振った。
ベレトが慎重な手つきで茶器を置いてから、顔をあげた。その瞳がわずかに瞠られる。
「二人は、旧知では?」
え、との唇から声が滑り落ちた。
ベレトがそう思うのは、自然なことだった。姉の婚約者の家族を知らぬわけがない。
とシルヴァンは、図らずも顔を見合わせた。けれど、存外を見つめる榛色の瞳に驚きはない。は思わず、確かめるようにその瞳を見つめ返した。
ベレトが首を傾け、を見やった。
「君の姉は、マイクランの婚約者だったんだろう?」
シルヴァンの顔から一瞬だけ表情が抜け落ちる。
は、とシルヴァンが笑みとも吐息ともつかぬ声を漏らした。はさっと顔を伏せる。はシルヴァンとマイクランを似ていないと思ったが、彼もまた同じような印象を抱いたかもしれない。
「……俺としたことが、一度会った女の子を忘れるとは」
あちゃあ、とシルヴァンが大仰なそぶりで額を押さえた。続けて、やはり大袈裟に「しかもこんなに美しい子を! ああ、ほんとうに俺ってやつは!」と嘆いて見せる。
場を和ませようとしてくれているのだと気づいて、はわずかに顔を持ち上げた。
「すまない、。愚かな俺を許してくれ」
「ほ、ほんとうに、一度会っただけですから」
はそう言って、ゆるくかぶりを振った。
忘れていて当然なのだ。
それに、とは思う。マイクランは、以上にシルヴァンのことを疎んじているようだった。仲の拗れた兄弟間で、兄の婚約者、ひいてはその家族のことに興味を抱くわけもない。
「そうだったのか」
ベレトが呟いて、頷く。
「すみません、きちんとした事情をお話すべきでした」
「いや、自分のほうこそ確認もせずにすまなかった」
「貴族の婚約ってのは、色々と複雑なんですよ。ま、何はともあれ……おかげでと話すきっかけができたんで、先生には感謝してます」
シルヴァンに微笑みかけられるが、はうまく答えることができなかった。
それをまったく意に介す様子もなく「いい香りだなあ」と、のんびり言ったシルヴァンが茶杯を持ち上げた。もそれに倣って「いただきます」と、紅茶に手を伸ばした。
正面に座るベレトが、一挙一動を見逃さないとでもいうように、つぶさに見つめてくる。は緊張を覚えて、落ち着かない気持ちになりながら、紅茶を一口含んだ。すこし渋みを感じるが、それを顔に出さぬように気をつけて、は茶杯を受け皿へ戻した。
「おいしいです」
そう言えば、ベレトがかすかに口角を上げた。そうして、自身も紅茶に口をつける。
は伏し目がちにベレトを見て、すぐに手元に視線を落とした。揺れる琥珀色が陽射しを受けて、輝いている。視線をずらすと、卓の中央には籠いっぱいのブルゼンが置かれていた。ファーガス出身者には馴染み深く、にとっても同様である。
「先生、このブルゼンはどうしたんです?」
「ロドリグ殿が土産に、と」
へえ、とシルヴァンが相槌を打った。
は懐にある、フラルダリウスの紋章が刻まれた手巾の存在を意識した。
マイクランはゴーティエ家から英雄の遺産”破裂の槍”を盗み出し、その遺産の奪還をレア大司教に依頼しにガルグ=マクへ来たのが、フラルダリウス公ロドリグである。本来来るべきゴーティエ辺境伯は多忙を極めるうえ、マイクランが根城とするコナン塔はフラルダリウス領内に位置しているためだ。
フェリクスの顔が思い出されると同時に、甘いものが苦手な彼はブルゼンを好まなかったことまでも、の脳裏を過ぎった。
「ファーガスの皆は好きだろう」
「好きですよ、もちろん! ああでも、アネットやメルセデスのほうが喜ぶんじゃないんですか。二人は甘いものが好きでしょう」
アネット。メルセデス。
は頭の中で、出てきた名前の人物を思い浮かべる。王都の魔道学院の頃からの親友だという二人は、すこし歳が離れているがとても仲がいい。
「も、甘いものは好きだったろ?」
ふいに、シルヴァンが振り向いて、得意げにぱちりと片目を瞑った。
が覚えている限り、シルヴァンと個人的な会話をしたことはなかった。よく他人の好みを把握しているものだ、と驚きと感心を覚えながら、は頷く。
「はい。ブルゼンも好きです」
「そうか。二人とも、遠慮せずに食べてほしい」
「それじゃあお言葉に甘えて」
おどけたふうに言って、シルヴァンがブルゼンに手を伸ばす。ひとつ減ったブルゼンの山を眺めていると「も」と、ベレトが籠を差し出した。表情こそ変わらないが、期待するような眼差しを向けられては、首を横には振れなかった。
は礼を言って、ブルゼンを手に取る。
ガルグ=マク大修道院の食堂でもブルゼンを食べることはできる。ただ、その味はファーガスで食べたものとはどこか違うようにも感じられた。焼きたてではないが、口にしたブルゼンは懐かしくて、そのやさしい甘みに自然との頬が緩んだ。
「お、美味そうに食べるねえ」
頬杖をついたシルヴァンが、小さく笑う。
その視線が恥ずかしくて、は右隣から顔を背けた。
「ベレト先生。わたしとシルヴァンさんを招いたということは、先日の件ですか?」
は一度ブルゼンを平皿に置いて、ベレトを見つめた。まだ、シルヴァンの視線を感じる。
ベレトがそれを横目に、頷きを返した。
「自分は教師で、生徒たちを守り、導く立場だ。しかし、嫌なことから逃げるばかりでは、学びにも成長にも繋がらないのではと……」
は無意識に、ぎゅっと手を握りしめた。
ベレトの言うことはもっともである。ガルグ=マク士官学校は、貴族の道楽で通うような場所ではないのだ。
一度唇を結んだベレトが、ほんのわずかに表情を和らげた。
「困難に面したときは、切り開くしかないと自分は思っている。君たちがそうなったときには、惜しみなく力を貸したい」
硬く握ったの拳を、ベレトの手が包んだ。すぐには言葉が出てこなくて、は重ねられたベレトの手をじっと見つめた。
この手は、迷わない。
の手を引いて、背を押して、頭を撫でてくれる。
けれども、切り開くという言葉は、あまりにも自分には似つかわしくないように思えた。
姉に嫌われるのが怖い。マイクランと顔を合わせるのが怖い。が、ほんとうに怖れているのは──
「それでも、無理だと思うだろうか」
唇が錆びついたように、動いてくれなかった。
「ま、兄上がほんとうに疎んでいるのは俺だから、心配いらないさ」
口ぶりはいつもの軽薄さを装っていたが、その声音は硬かった。窺うように見やった先で、いつの間にかシルヴァンが背を正していた。
ふ、と眉尻を下げてシルヴァンが笑む。
「ごめんな、。この間先生と話しているところ、聞いちまったんだ」
「え……」
「兄上がを疎んだのは、きっと俺と君を重ねていたからだ。ほんとう、どうしようもない兄で悪い」
シルヴァンが頭を下げた。常では見えるはずのないシルヴァンのつむじがそこにあって、は唖然としたのちに慌てふためいた。
「か、顔をあげてください!」
「……のそんな大きな声、初めて聞いた」
揶揄うような台詞を、どうしてそんな泣き笑いみたいな顔で言うのだ。
「大丈夫、兄上からはなにがあっても君を守るよ」
そんな口説き文句みたいな台詞を、どうしてそんな苦しげに吐き出すのだ。
はなにも言えないまま、シルヴァンを見つめる。
マイクランと顔を合わせるのは、シルヴァンのほうがよほど怖いに違いない。それでもシルヴァンは、逃げないどころか、尻拭いをしようとしている。
「……わかりました。わたしも、逃げません」
ベレトの手がゆっくりとの拳を開かせる。頷くベレトの顔は、どこか満足げだった。
「さ、真面目な話はもうよしましょう。せっかくのお茶が冷めちまう」
打って変わって、シルヴァンの声が明るく響いた。
ほどなくして、ベレトが他の生徒に呼ばれたことにより、茶会はお開きとなった。忙しいベレトに代わり、とシルヴァンが卓上の片づけを担うのは自然な流れだった。
茶器に伸ばした手が、シルヴァンの指先に触れた。
「あ、すみません……わたしはこっちを片づけます」
は慌てて伸ばした手を引っ込めて、俯きがちに告げた。
「そういや、姉君は元気かい?」
思わず、手が止まる。
マイクランの廃嫡は、エリアーヌに大きな影響を与えた。けれど、それをシルヴァンに告げる意味はないし、彼には何の責任もない。
「はい……おかげさまで」
「そうかい、そいつはよかった」
安堵するように笑うシルヴァンの顔を、は見ることができなかった。
ゴーティエ家は、ファーガス貴族の中でも名門である。
次期当主は弟であるシルヴァンであったとしても、嫡男との結婚には大きな意味があった。
マイクランとエリアーヌの婚約が白紙になったのちに、シルヴァンと──という流れにならなかったのは、ひとえに姉に紋章がなかったからだ。美しく気立てもよく、なにをやっても優秀な姉であったが、ファーガス神聖王国においては紋章の有無が重要視される。
は目を伏せて、細く息を吐き出す。
ほんとうに怖れているのは、マイクランのように姉に疎まれることだ。
「しかし、の姉君は相当な美人だったなあ。いや! もちろんも美人だが……正直、兄上には勿体ないと思ってたんだぜ」
「…………」
「美人で、おまけに滅茶苦茶やさしくて──紋章を持って生まれた妹を恨むこともない。俺はさ、が羨ましかったよ。紋章を持たない長子と、紋章を持つ次子……同じなのに、こうも違うのかって思ったもんさ」
は顔をあげる。榛色の垂れ目は、穏やかにを見つめていた。
「だからさ」と、シルヴァンが続ける。片づけの途中で半端に止まっていたの手を、シルヴァンがぎゅっと握った。びくりと震えたに気づいていながらも、その手は離れない。
「君には、俺みたいにはなって欲しくない。紋章なんかに人生振り回されるなよ」
思いがけず強い口調で言われて、は頷くことしかできなかった。
の手を包む力が緩んで、シルヴァンが微笑む。
「ところで、今度は二人っきりでお茶でもどうだい?」
今度は首を縦に振ることができずに「気が向いたら」と、は曖昧な言葉で濁した。離れていくかと思った手が、予想に反しての手をそうっと持ち上げる。
「それじゃあ、気が向くまで誘うとしますか」
ちゅ、と甲に軽く唇が触れて、は小さな悲鳴を上げて手を振り解いた。
「そ、そういうことは、他の方にしてください」
「何故だい? だって、可愛い女の子だよ。真面目で慎みやかで、甘いものが好きな、ね」
「シルヴァンさん、」
「嫌なことから逃げるばかりじゃ、学びも成長もないって先生も言ってただろ?」
シルヴァンが背を屈めて、顔を覗き込んでくる。「遊びも立派な勉強さ」と、シルヴァンが片目を瞑ってみせる。
「……そんな言い方は、ずるいです」
不満げに小さく零せば、シルヴァンが声を上げて笑った。
そうこうしていると戻ってきたベレトが「まだ片づけていたのか?」と、卓上を見て不思議そうに首を傾げたのだった。
の手を引いて、扉を開けてくれる様は、さながら舞踏会の一幕のようだった。暮れた日に照らされて、橙色の髪が一層赤みを帯びる。
似ていないと思っていたが、髪も瞳もマイクランと同じ色をしていることに、はいまさらに気がついた。
はシルヴァンに向かって頭を下げる。
「今日はすみません。わたしと一緒だなんて、つまらなかったでしょう。嫌な思いも」
言い終える前に、シルヴァンの人差し指がの唇を軽く抑えた。
「楽しかったよ、と話せてよかった。だから、謝ったりしないでくれ」
「……はい」
「つまらない話をさせちまったのは、俺のせいだしな。今度は、楽しくお茶や食事をしよう」
たとえそれが社交辞令であっても、嬉しく思う。は謝罪の代わりに礼を口にして、もう一度腰を折った。
「律儀だなぁ。真面目もほどほどにしないと、疲れるぜ? 殿下みたいのはもう事足りてるんだ、頼むからそうはなってくれるなよ」
ぽん、とシルヴァンの手がの肩を気安く叩いた。
ひらりと手を振って去っていく背を見つめながら、ゴーティエの次期当主はディミトリ王子殿下の幼なじみであったことを思い出す。本来ならば、とは言葉を交わすこともないような、縁遠い立場にあるのだ。
そんなひとが、義兄になる未来があったのかと思うと、は不思議でならなかった。