ふと、湿った空気が頬を撫でて、は空を仰いだ。太陽が薄い雲に覆われている。
思えば随分と日が長くなったものだ。風に揺れる草木が青々と茂っていて、季節の移ろいを感じさせる。青海の節より、薄手の襯衣を身に付けてはいるが、ファーガス出身者にはガルグ=マクの夏は堪えるものがある。
じんわりと浮かんだ汗を手巾で押さえて、は小さくため息を吐いた。
「ぼんやりしてると雨に降られるぜ?」
ふいに顔を覗き込まれて、ははっと息を呑んで後ずさる。
もう一度見上げた空は、いつの間にか曇天へと変わり、すっかり太陽が隠れてしまっていた。は瞳を瞬いてから、視線を移す。美しいかんばせが、笑みを湛えてこちらを見ていた。
「……ユーリスさん」
「翠雨の節ってのは、じめじめしていやなもんだな。地下にいりゃあ関係ねえんだが……」
ユーリスがまじまじとを見つめて、その柳眉をひそめた。
「しけた面してんなあ。美少年に声をかけられたんだ、もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ?」
は足元へと視線を落とした。どう頑張っても、ユーリスの望むような反応ができそうにない。
この空と同様に、の心内もいまにも雨が降り出しそうだった。ユーリスが笑みにも似た、細いため息を吐き出した。
「ま……気持ちはわからないでもねえさ。青獅子の学級の空気が重いのは、仕方がないしな」
思わず、はきゅっと唇を噛みしめた。手にした手巾がくしゃりと歪む。
「マイクランって名は、俺もちょくちょく聞く。ファーガスの北のほうでは結構な有名人だからな」
心臓を掴まれたような心地がして、は胸を押さえた。
ユーリスが腕を組んで、藤色の瞳に空を映した。「ほら、雨に降られる前に行くぞ」と、ユーリスが肩を軽く叩いて歩き出す。の足は、すぐには動いてくれなかった。
似ている、とさえ思わなかったのは、名前はおろか顔など記憶になかったからである。それでもなお、数節も同じ学級で学んでいたにも関わらず気づかぬのは、が周囲に興味を抱かずに過ごしてきたからに他ならない。
ゴーティエといえば、ファーガス神聖王国で知らぬ者はいないだろう。
今節の課題を思うと、は気が重くて仕方がなかった。ロナート卿の反乱の折、鎮圧に向かったアッシュも似たような気持だったのだろうか──けれど、もよほど気が重いのは、別の人物だとわかっていた。
王国領での賊討伐が、青獅子の学級に課された課題である。頭目マイクランは、ゴーティエ家を廃嫡された長男であり、の姉の婚約者であった。
マイクランの名を耳にしたのは実に三年ぶりのことだったが、彼の弟が同じ学級にいることのほうが、にとってはよほど驚くべきことだった。もっとも、婚約はマイクランの廃嫡と同時に解消され、とシルヴァンに関りなど皆無である。
形式的に行われたたった一度きりの晩餐会が、いったい何年前のことだったかさえ、の記憶にはない。当然、シルヴァンだってのことを覚えているはずがなかった。
もとより、取るに足らないの存在など、記憶するわけもない。家の娘といえば姉のエリアーヌであり、はいつもその影に隠れて生きてきた。ガルグ=マク大修道院でもそうあるべきだと、は理解している。は、何者にもなれやしない。
「すいませんね、先生。うちの馬鹿兄貴が迷惑かけて」
課題を言い渡された際、シルヴァンがごく軽い調子でそう言って、わずかに眉尻を下げた。はは、と力が抜けたような笑い声が、何故だか耳にこびりついているような気がした。
改めて、シルヴァンの顔を見ても、マイクランと似ているとは思わなかった。
王国内では、紋章を持たないことを理由に廃嫡されることは、決して珍しいことではなかった。
ゴーティエ家といえば、代々王家を守る役割を担っており、より紋章を重んじることは何ら不思議なことではない。
マイクランと姉の関係が、名ばかりの婚約者だったのか、それとも親しい間柄だったのかはわからない。ただ、マイクランとの婚約が解消されて以来、姉は塞ぎがちになってしまった。父も母も、それには大変胸を痛め、あれやこれやと手を尽くしていた。そして、姉と婚約を結びたいという貴族子息からの贈りものも後を絶たず、あの頃の屋敷内はもので溢れていた。
それでも姉が、萎れることなどなかった。以前よりもほっそりとして、外に出ることが少なったことで色白に拍車がかかり、その儚さはますます人の目を惹きつけるようになった。
変わらず引く手あまたであった姉が、マイクランの後釜を選ぶことはなかった。
「ベレト先生、あの、すこし宜しいですか?」
静かに動いた視線が、を捉える。
ベレトが「少しだけなら」と、眉ひとつ動かさぬまま頷いた。忙しいベレトにはに割く時間もないのかもしれない。なるべく短時間で済ませようと焦るあまり、言葉がうまく出てこなかった。
「冗談だ。時間ならいくらでもある」
「えっ、あ……そ、そう、ですか」
安堵と不服が混じって、は複雑な気持ちになる。
はあまり話すことが得意ではない。どう伝えるべきかと言葉を選んでいると、ベレトが長椅子に座るよう促してくれる。「が話しかけてくるなんて珍しい」と、隣に腰を下ろしたベレトが呟くように言った。
「…………」
は授業こそ真面目に出席しているが、ベレトに食事やお茶に誘われても断るばかりだ。申し訳ない気持ちはあるが、ベレトと親しくなりたい生徒はごまんといる。それに、ベレトにとってもと過ごすよりもずっと有意義な時間になるはずだ。
相変わらずは不器用で、秀でるところは何ひとつない。けれども、士官学校においては、抜きんでて出来が悪いわけでも、問題のある生徒というわけでもなかった。
ベレトは──教師になって日が浅いが、のように目立たない生徒のこともよく見て、気にかけてくれる。表情に乏しく口数も少ないが、その眼差しや言葉の端々から生徒を思い遣っていることが伝わってくるのだ。
はベレトを好ましく思っているし、信頼している。
いまだって、ベレトは急かすこともなく、の言葉を待ってくれていた。は一度深呼吸をしてから、ベレトをそっと見上げた。
「今節の課題なんですが、わたしを後方支援に回してもらえませんか?」
ベレトがゆっくりと瞬きをして、首を傾げる。驚いたふうではなかった。
「理由を教えてほしい」
はそろえた膝の上で、ぎゅっと手を握りしめる。
以前、紋章のことを話したときと同じように、ひどい緊張を覚える。指先が冷たく、その感覚を失くしていくようだった。
「マイクラン様は」
様、と賊の頭目につけるにはふさわしくない敬称に、ベレトが怪訝そうに眉をわずかばかりひそめた。は目を伏せる。
「姉の、婚約者でした。そして、マイクラン様は……わたしを疎んじていました」
「を?」
「わたしが紋章を持っているから、なのだと思います。マイクラン様と同じく、妹のわたしには紋章があって、姉には紋章がなかった」
でも、とは目を伏せたまま続ける。
「以前もお話したように、姉に足りないのは、紋章だけです」
「……」
「この紋章は、姉が持つべきでした。両親だってそう思っているし、わたしだって、そう思います」
「ハンネマン先生は、そんなふうには言っていなかった」
ベレトの言葉がまっすぐに届いて、は視線を上げた。
硝子玉のようなベレトの瞳に、戸惑いに満ちたの顔が映っている。
エリアーヌとは、月とすっぽんと呼ぶにふさわしい。何もかもが雲泥の差だが、それを悲しいだとか悔しいだとかは、思ったことがなかった。
ベレトの手が、冷え固まったの拳をそっと開く。
「紋章は、君を選んだんだ」
君は勇敢で努力家だ、と確かにハンネマンは言ってくれた。開かれた手のひらの指先がじんわりと熱を持ち、血が巡るのがわかる。
「……そう、でしょうか」
は呟くように言って、手元を見つめた。
「わがままを言っていることは承知しています。それでも、姉を悲しませることだけはしたくないんです。姉の婚約者だった方に、刃を向けたくありません」
これは、半分は建前だ。
大好きな姉に、これ以上嫌われたくない。またやさしく笑いかけてほしい。
かつての婚約者に妹が刃を向けたと知ったら、エリアーヌはどう思うだろうか。そう考えるだけで、ぞっとしてならない。
ベレトが、思案するように顎先に手を添えた。
「無理なら構いません。ベレト先生の指示に従います」
実の弟であるシルヴァンが討伐隊に組み込まれている以上、ばかりが嫌だと駄々をこねるわけにもいくまい。花冠の節で、アッシュが葛藤を抱えながらも、養父と刃を交えたことだって記憶に新しい。
ここは士官学校なのだ。
がガルグ=マク士官学校に入学したのは、家から追い出すにはうってつけだったからに過ぎない。厄介払いさせられただけのには、毎節の課題も重すぎると感じる。
入学早々、賊に襲われてわけもわからないまま武器を手にしたその恐怖が、いまだに消えてくれない。
たったの一年間、されど一年間──この学校生活は楽しいだけでもなければ、決して楽なものでもないのだと、武器を手にしたそのときにはようやく気づいたのだった。
「躊躇いがあるのなら、前線には立たせられない。自分は皆の命を預かる立場にある」
ベレトがおもむろに口を開いた。
は伏し目がちにベレトを見やる。その平坦ともいえる表情からは、考えは読み取れない。
「だが、はそれでいいのか?」
「え?」
「……まだ時間はある。少し、考えさせてほしい」
す、とベレトが立ち上がった。
座ったままのはベレトを見上げ、陽光を受けて目を眇めた。「それから」と、続けるベレトの顔が、逆光でよく見えない。
「は自分を過小評価しすぎるきらいがある。もっと自信を持ったほうがいい」
「は、はい……」
ベレトが頷いて、踵を返す。遠ざかる背はまっすぐ伸びていて、気持ちがいいくらいによい姿勢だった。には、そんなふうに胸を張って歩くことなど、到底できそうにない。
過小評価ではなく、適正評価だと思っている。
──にあるのは、紋章だけだ。
「……どうして、わたしなの」
幾度となく問うたけれど、その答えをくれるものは誰ひとりとしていないのだ。
突然降り出した雨に、は慌てて近くの建物へと飛び込んだ。襯衣についた雨粒を払っていると「嬢?」と、背後から声が掛かった。は、と息を呑んで振り返った先、は見覚えのある姿を認めた。慌てて腰を折れば、湿った髪の先から雫がぽたりと落ちた。
「ご無沙汰しております、フラルダリウス公」
「はは、そう畏まらず。お可哀想に、雨に降られたか」
ごく自然な仕草で差し出された手巾には、フラルダリウスの紋章が刺繍されていた。受け取る指先が、緊張で震える。
「今年は嬢も士官学校に通われているのだったな。倅が世話になっているのでは?」
「い、いえ、お世話になっているのはわたしのほうです」
面をあげたは、ゆるくかぶりを振った。フェリクスによく似た切れ長の瞳がやわらかく細められて、そのまなじりに皴を刻む。
ロドリグ=アシル=フラルダリウス──ファーガスの盾と呼ばれる王国の重鎮であり、フェリクスの父にあたる。領地が隣接しているとはいえ、付き合いが深いわけではない。こうして顔を合わせるのは何年振りか、にはわからなかった。
「ふ……そうか。ならば、喜んで世話を焼いているのでしょう」
「え?」
は眼鏡の奥で、瞳を瞬かせた。
いつもしかめっ面をして、舌打ちやため息ばかりのフェリクスに限って、そんなことがあり得るのだろうか。にわかには信じがたいが、当然ながらよりもよほど、ロドリグのほうがフェリクスを理解している。
「口ではなんと言おうと、あれは嬢に会えて嬉しいはずだ」
「……恐縮です」
「変わりないな、嬢は。昔のように、フェリクスをよろしく頼む」
ロドリグが穏やかに笑う。
昔のように。は何故か、先日フェリクスに渡された古びた栞を思い出した。あの頃のは確かに分別もつかなかったけれど、いまのような卑屈さや劣等感も持ち合わせてはいなかった。
は口を開いてしかし、言葉が見つからなかった。頬に落ちた水滴を手巾で押さえる。
「ああ、通り雨だったようだ」
ロドリグの言葉通り、空には晴れ間が覗いていた。す、とロドリグの手がの肩を抱いて、「さあ、行きなさい」と外へと導いてくれる。
「手巾はフェリクスに」
「あ……はい、ありがとうございます」
が礼を言えば、ロドリグが柔和に笑んだ。その眼差しは、実の親よりもずっと、温かみのあるものだった。