静まり返った大聖堂に、月の明かりが差し込んでいる。
 横たえられたベレトの母親の遺体は、ただ眠っているかのようにそこに存在していた。二十年以上経った亡骸とは、とても思えない。
 始原の宝杯を彼女に捧げ、膝をついて祈祷するアルファルドの背が見えた。

 レアの言葉に耳を貸さぬアルファルドに対し「やめてくれ」と、ベレトがはっきりと告げた。ようやく、アルファルドが振り向いた。その顔には、微笑みが浮かんでいる。

「案ずることはありません。君の母は、今日、ここで蘇ります」

 アルファルドがゆっくりと立ち上がる。そうして愛おしげに、遺体の頬に指を這わせる。ベレトがその光景をじっと見つめていた。まるで他人事のような、無感動な瞳である。

「さあ……時は満ちた。あの男ではなくて、君は不満かもしれないが……迎えにいくよ、シトリー」

 はっ、と誰かが息を呑んだ音が、あたりにやけに響いた。

「シトリー……、シト、リ……シトリィイ……」

 次第に、愛しい者の名前すらも形を失って、声音が原型をなくしていく。
 ひっ、との喉から引きつった悲鳴が漏れる。傍らで、アッシュが立ち尽くしている。「冗談きっつい」と小さく呟くヒルダの顔には、余裕がなかった。

 唸り声を上げるその姿は、異形と呼ぶにふさわしい。

「宝杯が……アルファルドと遺体を取り込んで……」
「あの異形……いったい、何だ? 赤い……獣、か?」

 エーデルガルトとディミトリが唖然と呟く。
 顔らしき部分が、まるで人骨のようなもので覆われている。

「ギジィオヴリィイイイイ!!」

 たとえ異形と成り果てようとも、シトリーへの執着は変わらないらしい。赤き獣の咆哮が、びりびりと空気を震わせる。
 レアが、痛みを堪えるように目を閉じた。

「ああ……やはり……すべてが、あの儀式と同じ……」

 ちら、とレアを一瞥したベレトが、躊躇うことなく天帝の剣を抜いた。片手を広げ、生徒たちを背に押しやる姿は、たった数節しか教鞭をとっていないとは思えぬほどに教師らしい。ふと、は野外活動で、生徒を置いて一目散に逃げ出した教師のことを思い出した。
 ベレトの黒い外套がなびいて、の視界に揺れる。

 ベレトの表情から、その心情を推し量ることはできなかった。
 朽ちることのない遺体が母親であり、父ではない男がその亡骸に執着し蘇らせるのだと言う──混乱し、取り乱してもおかしくはない状況であるにもかかわらず、ベレトは落ち着き払っていた。

「先生……」

 の小さな声を聴き洩らさずに、ベレトがわずかに振り返った。硝子玉みたいに無機質で、宝石のように美しい瞳が、を映す。
 生徒のひとりひとりをよく見て、寄り添おうとしてくれるベレトの心に、寄り添ってくれる存在はあるだろうか。

 は震える足を無理やり動かして、なびくベレトの外套の袖先を掴む。教師だからといって、こんなときにまでひとりで先導させたくなかった。

「……おいおいおいおい、流石に冗談だろう? あれがあの人の成れの果てだって?」

 「ベレト先生」と呼びかけたの声は、バルタザールによってかき消される。
 それ以上何を言えばよいのかもわからずにいれば、袖先を掴んでいた手が握られる。手袋越しではベレトの体温を感じられなかったが、包み込むその力強さが伝わってくる。

「大丈夫だ」

 そう言ったベレトの顔には、かすかな笑みが浮かんでいたような気がした。
 自分の心配はいらない、という意味なのか。それとも、生徒は守ってみせると言いたかったのか。その台詞のあとには何も続かなかったから、大丈夫が何に対するものなのか、にはわからなかった。
 わからなくても、はベレトの言葉を信じて、頷いた。

 ベレトが皆を振り返って「行こう」と一言だけ告げる。そこに、迷いなどなければ、皆の気持ちも決まっていた。
 レアがベレトを見つめて、ひとつ頷いた。

「……決して、無理をしてはなりませんよ」

 レアの眼差しは、まるで我が子に向けるがごとく、慈愛に満ちていた。

「あなた方に命じます。赤き獣……枢機卿アルファルドを、止めなさい」

 表情を引き締めたレアが、高らかに告げた。


 赤き獣が長椅子を踏みつけて、ぐしゃりと潰れる。見慣れた大聖堂に瓦礫が積まれ、様相を変えてしまっていた。「このままでは崩落してしまいますわ!」と、コンスタンツェが歯噛みする。

「敵は単身、皆で囲んじまえばいい。一気に距離を詰めるぞ!」

 バルタザールが血盛んに叫ぶ様子を、ベレトが横目で見やる。
 クロードとディミトリに揃って諫められたバルタザールを「ただの喧嘩とわけが違うでしょー」と、ヒルダが呆れ顔で小突いた。

「わかったわかった。慎重に行きゃあいいんだろ?」

 渋々といったふうに、バルタザールが頷く。
 魔獣はふつうの獣の何倍も大きく、ひととは比べ物にならない生命力を持つ。体格に見合うだけの力があって、その一撃は広範囲に及ぶ。バルタザールの言う通りに包囲したとして、逆にこちらが一網打尽となる恐れもあるのだ。

 が魔獣を目にするのは、初めてだった。弓を握る手のひらがじわりと汗ばんで、震えている。
 大きく広げられた赤き獣の翼が、彩色硝子からの月明かりを受けて、美しく色づく。

「アッシュ、クロード。弓で牽制を頼む」

 ベレトが先陣を切る。天帝の剣が、輝きを放った。
 狙いを定めたアッシュの矢は、確かに赤き獣に届いたのに、その分厚い皮膚が弾き飛ばした。「矢が通らない」と、アッシュが悔しそうに顔を歪める。

「硬いな。だが、その羽根ならどうだ?」

 クロードが唇の端をわずかに上げる。真っすぐに飛んで行った矢が、羽根を貫通することはなかった。

「……やべっ」

 狙撃した場所はだいぶ距離があったにもかかわらず、赤き獣が息を吹きかけるようにして真っ赤な液体を飛ばした。それはまるで血のようだった。
 クロードが咄嗟に横に飛び退いて、攻撃を躱した。

「嘘でしょ!? 射程距離あり過ぎ……」

 悲鳴交じりに叫んだヒルダが、顔をしかめる。
 天帝の剣が蛇腹に伸び、鞭のように振るわれる。切り裂かれた皮膚からひとと変わらぬ赤い血が飛び散り、赤き獣が唸り声を上げた。

「ウガァアアアアアッ!」

 鼓膜が破れそうなほどの大声に、赤き獣と一番距離の近いベレトが耳を押さえる。びりびりと、天井の彩色硝子が震えていた。
 声が収まると同時に、赤き獣の隣にアルファルドの姿が現れた。

「これは……幻影みたいだね。しかも、アルファルドそっくりの……」

 リンハルトにしては珍しく、その声音には気の毒そうな、気遣うような色が滲んでいた。
 「戦いにくいじゃん」と唇を尖らせたのはハピだ。

「でも……ただの幻か」
「ハピちゃん、無理は禁物だからねー。あなたができないなら、あたしがやるよ!」

 ヒルダが斧を片手に、ハピに笑いかけた。「頼もしいなあ」とヒルダの肩を叩いたユーリスが、アルファルドの幻影を鋭く見据えた。

「心配すんなよ、先生。今さら躊躇ったりしねえよ」
「むしろ……ぶん殴って、うっぷんを晴らしてやろうじゃねぇか」

 バルタザールもまた、好戦的な顔で拳を振り上げた。ヒルダが眉ひそめる。

「あなたたちの心配はしてないんだけどー」
「まったく、繊細さの欠片もございませんこと! あなた方と一緒だなんて癪ですけれど、覚悟ならば決まっていますわ。おーほっほっほっほ!」

 コンスタンツェの高笑いが大聖堂に響いて、は思わず傍らのディミトリと顔を見合わせた。ふ、とディミトリが苦笑を漏らす。

「わかった。皆、敵の攻撃に備え──

 ベレトの言葉が途切れる。
 アルファルドの幻影の姿が揺らぎ、靄のようなものが赤き獣に吸収される。「うわっ!?」と、アッシュが気味悪げに悲鳴を上げる。いましがたつけた赤き獣の傷が塞がっていくのを見て、ベレトが表情を険しくした。

「赤き獣の傷が治っていく……なるほど、厄介な関係性ね」

 エーデルガルトの呟きが、赤き獣の咆哮によってかき消される。アルファルドの幻影がまたひとつ、ふたつと増える。増えすぎじゃん、とハピがため息を吐きそうな顔をして、嫌そうに言った。



 幻影といえども実体があるようで、斬りつけた感覚にユーリスが何とも言えない顔をする。魔法を放とうとしたアルファルドの幻影に向けて、は弓を引く。
 倒れたアルファルドが、靄となって消えていった。

「躊躇いはしないが、気分のいいもんじゃねえなあ……」

 剣を鞘に戻しながら、ユーリスがため息を吐く。
 「やだー、汗かいちゃったー」と、アルファルドを斧で制したヒルダの姿を認めたとき、ぞわっと背筋に寒気が走った。ぐい、と手首を掴まれたかと思えば、はユーリスの背に庇われていた。真白の外套が視界に揺れる。

「何だ……?」

 赤き獣が鋭い爪を振り下ろし、空を切り裂いた。その場で一回転すると、長い尾が瓦礫を吹き飛ばす。赤黒い光が、赤き獣の身体から放たれる。
 瞬きをする間に、ユーリスの姿が眼前から消えていた。
 身体が軋むように痛む。慌ててあたりを見回せば、離れた場所でユーリスが驚いた顔をしているのが見えた。

「ちょっ、あれ!? みんなの場所、変わった?」
「転移の魔法の亜種のようですわね。防ぐことは至難の業ですわ……!」

 ハピがきょろきょろと視線を動かす。魔道に長けたコンスタンツェが言うのだから、疑いようはない。

!」

 ベレトが声を張り上げた。
 姿を消した赤き獣が、のすぐ傍に現れる。
 ぽっかりと穴の開いた眼窩がを見下ろし、大きく羽根を広げた。恐怖で足が竦んで、動くことができない。きゅっと絞まった喉からは悲鳴すらも漏れなかった。死が頭を過ぎったのはこれが初めてではない。

 聞こえるはずもないのに、フェリクスの鋭い声が飛んだ気がして、の身体を動かした。
 右足を引いて、一歩後ずさる。がくんと膝が折れそうになるところを、何とか堪える。

「そのまま下がって、ヒルダと合流してくれ」

 の肩を掴んで押しやったのは、ディミトリだった。手にした銀の槍が振りかぶられる。
 勢いよく放たれた槍が、赤き獣に突き刺さった。

「ディミトリ様、」

 本来、盾となり剣となるべきは、だ。王国の人間として、あまりに情けない。
 自国の王子たるディミトリを前に立たせてはいけないとわかってるのに、何度この背中を頼もしく見上げねばならないのだろう。の不安げな声に、ディミトリが投げたものとは別の槍を手にしながら一瞥をくれた。

「言っただろう。お前の元に、刃は届かない」

 ディミトリが強いことは、だって十二分に知っている。
 でも、だからって──

 もし、エリアーヌだったなら、と思わずにはいられない。
 紋章を持たなくたって、何でも卒なくこなす姉ならば、こんなふうに恐怖で震えるばかりではないのだろう。「はそのままでいいのよ」というその言葉を、はずっと信じてきた。姉の後ろに隠れて、目立たず、ひっそりとしていればいいのだと思っていた。

 ディミトリが赤き獣に槍を突き立て、刺さっていた銀の槍も引き抜く。赤き獣が大きく叫びながら、爪を振るう。ディミトリの左肩を浅く抉って、青い外套が引き裂かれた。
 ははっと息を呑む。

「くっ……」
「殿下!」

 アッシュの慌てた声が響く。
 ボキン、とふいに聞こえた音は、ディミトリ手の内からだった。「しまった」とディミトリが顔をしかめ、へし折れた槍を投げ捨てる。訓練場で、が何度か目にした光景だった。

「ええっ、どんな馬鹿力なの!?」

 駆け寄ってきたヒルダが驚きながらも、ディミトリに狙いを定めるアルファルドに向かって手斧を投げる。よろめいたアルファルドに、クロードが矢でとどめを刺した。

「いやいや、ヒルダも負けてないだろ?」

 くるりと矢を回して、クロードがヒルダをにやりと見やる。手元に戻ってきた手斧を弄びながら、ヒルダがじろりとクロードを睨んだ。
 立ち尽くすの顔を、ヒルダが頬を膨らませながら覗き込む。

「失礼しちゃうよねー」
「茶化してる場合か! ったく、地上の奴らはつくづく呑気だよ」
「……ハピ、赤き獣の注意を引き寄せてくれ」
「あー……うん、わかった」

 地上の奴ら、とユーリスに一緒くたにされたせいか、ベレトが何か言いたげな顔で指示を出す。ハピが距離を詰めると、赤き獣はそちらを向いた。物怖じすることなく、ハピが赤き獣を見上げる。

「もうアルフさんはいないんだね。仕方ないけどさ」

 ハピが悲しげに眉尻下げ、「外の世界は、失うことばっかり」と小さく呟く。
 リンハルトがディミトリに杖を掲げ、ふわりと消えたその光がどこか物寂しげに見えたのは、ハピの感傷に引きずられたせいかもしれない。

 もう、赤き獣に言葉は届かない。

「……こんな化け物の姿になっちまったら、恨み言の一つも届かねえじゃねえか。本当に馬鹿だよ、あんたは。俺が言えたことじゃねえけどな……」

 赤き獣に引導を渡したユーリスが、美しいかんばせを曇らせた。
 動かなくなった赤き獣は、塵ひとつ残さずに、消えた。傷ついた大聖堂に訪れた静寂は、まるで重苦しい沈黙のようだった。

 いつの間にか、彩色硝子から差し込む光が、月明かりから朝日へと変わっていた。






「あーあ、とんだ週末だったねー」

 はあ、とため息を吐くヒルダの顔には、疲れが滲んでいる。桃の氷菓を前にしても、あまりうれしそうではない。
 も似たような顔をしているのだろうな、と思いながら「そうですね」と頷く。アビスで過ごしたのはたった数日のことだったが、色々とあり過ぎて、もっと長い時間だった気がしてしまう。食堂の喧騒が懐かしく感じる。
 そのせいか、こうしてヒルダと言葉を交わすことに、違和感を覚えることもない。

 カタン、と隣の椅子が引かれて、は顔をあげる。にこ、と無害そうな微笑みがを見下ろして、ユーリスが椅子に腰を下ろした。

「灰狼の学級から、青獅子の学級にみんな揃って移動だもんねー」

 ヒルダが頬杖をついて、ユーリスを睨むように見つめる。
 アビスのことも、灰狼の学級のことも、レアはすべてベレトに一任することを決めたという。

ちゃんに変なことしたら許さないから」
「変なことなんざするつもりはねえよ。王子様に殴られでもしたら、俺様のこの顔に傷がついちまうだろ」
「ああ、ディミトリくんねー。あたし、もっと王子様王子様したひとだと思ってたよ」

 散々な言われようである。確かにディミトリは、金髪碧眼の美しい外見は物語に出てきそうなくらいだが、その中身は案外豪胆だ。青獅子の学級の生徒ならば知っている。
 は口を挟まずに、ブルゼンを小さくちぎる。

「ま……そういうわけだから、今後もよろしくな。

 ぐい、と馴れ馴れしく肩を抱かれ、は戸惑いの目をユーリスに向けた。「あっ、ちょっとユーリスくん!」と、ヒルダが席を立つ。

「よろしくするつもりは……」
「冷たいな、同じ学級の仲間だろ? なあ、アッシュ」
「えっ!?」

 たまたま近くを歩いていたアッシュに、ユーリスが笑いかける。急に水を向けられて、アッシュがおろおろしている。の肩を抱いたまま、ユーリスが愉快そうに双眸を細めた。

朝の匂いと日々のくずれ