聖廟は、前節の騒ぎのせいで厳重な警備が敷かれ、立ち入り禁止となっていたはずだった。しかし、聖廟の前には人っ子一人おらず、夜更けのガルグ=マク大修道院には、静かすぎて不気味な雰囲気が漂っていた。アッシュがあたりを見回しながら二の腕をさする。それを目にしたせいか、まで薄ら寒いような気がしてしまう。
ふいに、鐘の音が響きわたって、はびくりと肩を震わせた。
ひょい、との顔を覗き込んだ、翡翠の双眸が面白そうに細められる。ゆらゆらと小さな三つ編みが揺れていた。
「何だ、幽霊が怖いのか? リシテアみたいだな」
クロードがくつくつと笑う。
そのあまりの緊張感のなさに呆れた顔をして、「クロード、やめないか」と、ディミトリが苦言を呈した。クロードが悪びれるふうもなく、肩を竦めた。
「静かに」
しっ、とベレトが唇の前に人差し指を立てる。聖廟の奥から話し声が聞こえてくる。中の様子をこっそりと窺ったヒルダが「げげっ……すでにいろいろ危なそーなんですけど」と、思い切り顔を歪めた。
「突入する」
同じように様子を窺ったベレトが、はっきりと告げた。
にやついていたクロードも表情を引き締め、頷きを返す。緊張に強張ったの肩を、クロードの手がぽんと叩いた。
はベレトに続いて、聖廟の中に足を踏み入れる。視線を巡らせたディミトリが、目を見開く。
「これが”宝杯の儀”……? 何が起こっている?」
灰狼の学級の皆が、四方に散っている。拘束こそされていないようだが、皆揃って顔色が悪い。近くに怪しく光る渦がある。
聖廟の入り口から、真っすぐ先にはアルファルドがいた。
「聖廟の奥に向かって魔力が流れ込んでる。四人に血を流させ、それを力に変換して……」
ぶつぶつと呟くリンハルトが、嫌そうに顔をしかめる。
「血が流れ過ぎじゃない? なんてやる気の削がれる儀式なんだ……」
「血……」
ぞっとして、は青ざめた顔でリンハルトを見上げた。
いまこの瞬間も、ユーリスたちは血を奪われ続けている。早く助け出したいが、アルファルドの手下が行く手を阻んでいた。ベレトが戦況を確認している。
「私たちのそばにある魔力の渦に乗って、宝杯への流れを阻害してくださる!?」
コンスタンツェが息を切らしながら叫ぶ。ベレトが視線を動かした。
「そうすれば、“宝杯の儀”は止まりますわ! どうやら私たちでは四使徒の紋章が反発し合って、渦に近づけないんですの!」
ユーリスは、こうなることをわかっていながら、アルファルドに協力していたのだろうか。いや、こうなるとわかっていたからこそ──ベレトと待ち合わせをしていた、と考えるほうが自然だ。
「二手に分かれよう。なるべく速やかに進軍する」
「ああ、任せてくれ。先生」
「級長の名に恥じない働きをして見せるわ」
ディミトリとエーデルガルトが視線を交わす。「こんなときまで競い合うとはねぇ」と言いつつも、敵を見据えたクロードの瞳は好戦的に煌めいた。
大丈夫、とは内心で自分に言い聞かせる。
そうだ。バルタザールに言った通り、やれるべきことはやらなければ、と覚悟を決めて弓を握る。
「頼もしい。級長三人には、右手から攻めてもらう」
「待て待て先生……三人だけとは、ちょいと心許ないんじゃないか?」
クロードの言葉を受けて、ベレトが三人の顔を見回す。そうして、首をわずかに傾げた。
「二人はそうは思っていないようだが」
「当たり前よ」とエーデルガルトが言えば、「期待には応えよう」とディミトリが頷く。クロードが乾いた笑いを漏らした。
ベレトがクロードの背を軽く押しやる。
「二人が突出しすぎないよう、上手く頼む」
「はいはい」
「リンハルト、君も右手から。主にアーマーナイトを狙ってくれ」
「わかりました」
素直に頷いたリンハルトが、柱を挟んだ向こうにいるアーマーナイトに魔法を放つ。がしゃん、と地に伏す際に、鎧がけたたましく音を立てた。「前線はエーデルガルトさんたちに任せますんで」と、のんびり告げる。
何か言いたげな顔でエーデルガルトが振り返るが、小さくため息を吐いただけだった。
「それでいい。残りは、自分と左手から進もう」
「はい」「はーい」と、アッシュとヒルダの返事は対照的な響きを持っていた。ベレトがの頷きを確認して、天帝の剣を手にした。
蛇腹に形を変えた剣が、柱越しのアーマーナイトに伸びていく。大きな盾が剣を弾く。
「、ファイアーを」
ベレトがもう一撃を繰り出しながら、指示を飛ばす。アーマーナイトが体勢を整える前に、はファイアーを放った。手にしていた斧と盾が地面に転がって、アーマーナイトがくずおれる。
「その調子だ」
ベレトがわずかに口角を上げた。ふう、とは小さく息を吐く。
「わあっ、すごーい!」
ヒルダが大袈裟なほどに褒める隣で「さすがです」と、アッシュが微笑む。なんて答えるべきかわからずに、は曖昧に笑みを零した。
「ああ、これが“始原の宝杯”の力……」
聖廟の奥から、アルファルドの声が聞こえてくる。ベレトが警戒するように瞳を細めた。
「信じられないほどの力が溢れている……! 宝杯に守られている私たち以外は、無事ではいられないでしょうね……」
その言葉を理解するよりも早く、身体から力が抜ける感覚がした。ふらついたの身体を、ヒルダの手が支える。
「敵も味方もお構いなし!? とんでもない儀式じゃない……止めなきゃ!」
先ほどまであまりやる気の感じられなかったヒルダが、きりりと表情を引き締めた。
ベレトが視線で生徒の無事を確認する。右手を進軍するエーデルガルトたちも、問題はないと手を上げて応えている。リンハルトだけがうんざりしたように首を横に振っていた。
「無理はしないように」
そう告げると、ベレトが先陣を切った。
「バル兄、もうちょっと大人しくできないわけー?」
赤い渦の上に乗りながら、ヒルダが呆れた顔をする。
傷を負いながらも、バルタザールは周囲をの敵をほとんどひとりで蹴散らしてしまっていた。「助けを待つだけなんざ、柄じゃねえんだよ」と、バルタザールはふてくされている。
「……脳筋に何を言っても無駄だぜ」
ぽつ、とユーリスがため息交じりに呟く。
その美しいかんばせは、化粧をもってしても顔色が悪い。
級長三人が揃った右手側の進軍は早く、すでにコンスタンツェとハピの渦は、リンハルトとクロードが制している。残る渦は、ひとつである。
儀式が失敗することを恐れ、アルファルドの攻勢は強まるばかりだ。
「ユーリス、軽口を叩いている場合じゃないでしょう」
アッシュが顔をしかめて、ユーリスを咎める。ちら、とアッシュを見やったユーリスが、肩を竦めた。
「ユーリスさん……」
「どうだ、。目は覚めたか?」
にや、と唇を歪めるユーリスに対し、は口を噤むほかない。
ふいに、ユーリスの腕がの肩に絡む。「悪い、ちょっと肩を貸してくれ」と、囁く声には覇気がない。けれど、支えるには力不足だったらしく、重みを受けたの身体はたたらを踏んだ。
それを見て、アッシュが声をかける。
「ユーリス、肩なら僕が貸します」
「いーや、結構。野郎の肩を借りたい奴がいるかよ」
「…………」
にべもない言いように、ベレトがやれやれとかぶりを振った。
ドン、と足元に手斧が突き刺さって、ユーリスが口元を引きつらせた。手斧を投げたヒルダが、渦の上で腰に手を当て仁王立ちしている。
「ユーリスくん。ちゃんから離れないと、次は当てちゃうかもー」
「……はいはい」
本気とも冗談ともつかぬヒルダに、ユーリスが素直に離れてくれる。「女ってのは怖いねえ」とぼやきながら、バルタザールが手斧を拾った。
ベレトの指示通り、は渦の上に乗った。これですべての魔力の渦を制し、宝杯への流れは阻止できたはずである。
「く……っ、儀式が……! これでは失敗して……!」
アルファルドが呻く。
ふふん、とクロードが手の内でくるりと矢を弄ぶ。
「面倒くさい儀式だったが、防げたようだな。あとはアルファルドさんを……倒す!」
「こうなったら……」
追い詰められたアルファルドが、血走った眼を周囲に向ける。
「もはや誰の血でも構わん! お前たちを討ち、その血で……!」
「そりゃねえだろう、アルファルドさんよ」
ユーリスが、アルファルドに向かって剣を突き付ける。
アルファルドの冷たい瞳がユーリスに向けられた。アビスを作り、灰狼の学級を作って、数多のひとを救ってきたやさしい面差しはない。
「所詮、愚かな狼だったということですか。たとえ鎖で縛ろうと、飼い主に牙を剥く……」
「誰にも、何にも、縛られてたまるか。鎖に繋がれたままの人生なんて御免だね!」
迷いなく振られた剣が、アルファルドを掠める。パッ、と散った血に「血を流すのは、君たちです!」と、アルファルドが激高した。
「おいおいおい。あんたには借りがある……が、対価が命ってのは、さすがに釣り合わなくねえか?」
バルタザールが、厳つい籠手を胸の前で合わせる。ふん、とアルファルドが鼻で嗤った。
「申し訳なくは思っていますよ。ですが、どのような犠牲も厭わないと誓ったのです!」
まったく悪びれる様子もなく、バルタザールに向かってライナロックを放つ。
それを寸でのところで躱したバルタザールが「そうかい、だったら殴り合うしかねえな」と、身を低くして飛び込んでいく。儀式が失敗したとはいえ、宝杯の力を得ているのか、一,二発殴られたところでアルファルドには大して効いていないように見えた。
チッ、とバルタザールが舌を打って飛び退く。
「何だありゃ? ああ見えて、鋼の肉体ってか?」
「お退きなさい」
かつん、とコンスタンツェの靴が、高らかに音を立てる。怒りを湛えた瞳がアルファルドを捉え、閉じた扇の先が真っすぐに向けられる。
「アルファルド様、覚悟なさい! この代償は高くつきましてよ!」
ふ、とかすかにアルファルドが笑みを零す。コンスタンツェが眉を跳ね上げた。
「彼女が蘇りさえすれば、どれほどの代償を払おうとも構いませんとも」
その言葉を聞いて、コンスタンツェが高笑いをあたりに響かせる。近くにいたユーリスとバルタザールが、顔をしかめて耳を塞いでいる。
「もはや交わす言葉はありませんわ!」
コンスタンツェの放つ魔法は、たしかにアルファルドに届いていた。しかし、痛くも痒くもないといった様子で、アルファルドのライナロックがコンスタンツェを襲った。炎に焼かれたコンスタンツェが悲鳴を上げる。
ベレトがコンスタンツェの身体を抱いて、アルファルドから距離を取った。
バルタザールが杖を掲げる。「たまたま調子が悪いだけですわ」と、憎まれ口を叩く元気はあるらしい。
「君は、あまり怒っていないようですね」
アルファルドが、ハピに目を向ける。「うーん」と、ハピが前髪をいじりながら答える。
「まー、慣れてるっていうか。他人を利用するのが人ってもんじゃん?」
「…………」
「……でも、痛いのはヤだからね。こういう儀式はもううんざりだし」
どれだけ悲惨な過去があるのだろうか、と思わずにはいられない。ハピの何もかもを諦めたような口ぶりは、たしかに怒りを抱いてはいないようだった。
彼女に向かって魔法を放とうとしていたアルファルドの前に、ベレトが立ちはだかった。
常と変わらぬ静かな瞳が、アルファルドをひたと捉える。ベレトの感情の起伏は少ないが、その顔には怒りが滲んでいた。灰狼の学級の皆の信頼を裏切ったうえ、命まで奪おうとした行いを、許しがたく思っているのかもしれなかった。
ぴくり、とアルファルドが表情を変える。
「彼女の忘れ形見である君を傷つけるなど、本意ではありません。ですが……君が、あくまでも退かぬというのなら、少し眠っていてもらうしかありませんね」
アルファルドの手が、ベレトに向いた。その指先に、魔力が集っていくのがわかる。
大きく弾けた炎の玉を、ベレトが躱す。天帝の剣がアルファルドを捉えた。「くっ……」と、アルファルドの顔に焦りが走る。
膝をついたアルファルドの喉元に、切っ先が突きつけられる。
あれだけいた多くの手下も、ディミトリとエーデルガルトが競うようにして、下してしまっていた。
「まだだ……、まだ儀は……!」
「いや、宝杯の儀は失敗に終わった」
なおも言い募るアルファルドに対し、ベレトが静かに告げた。ベレトを見上げたアルファルドの目は、落ち窪んでいるかのように見えた。正気の顔ではない。
「ベレト……君までもが、私に剣を向けるというのですか。ここにあるのは君の母の亡骸。取り戻したいとは思わないのですか……!」
渦が消え去ったのを確認して、はベレトのほうへ近づく。
同じように、ベレトに駆け寄ったクロードが「先生の母親だって……? 苦し紛れの揺さぶりか?」と、アルファルドを厳しく見据えた。
「母は自分を生んだときに死んだ」
す、とベレトが剣を引いて、淡々と答える。アルファルドが「いいえ」と首を振りながら、ゆっくりと立ち上がった。
「紛れもなく、君の母親の遺骸です。騎士団長ジェラルトの妻であり、二十一年前に亡くなった修道女……」
「……二十年以上も前に死んだ者の身体が、少しも朽ちていないなど信じがたいが」
ディミトリが冷静に告げる。しかし、アルファルドが動揺するそぶりはない。
「ええ、彼女の姿は生前と変わらない。まるで、魂だけが失われたかのように……」
それどころか、アルファルドは何かに取りつかれたかのように、うっとりと語る。
その姿には薄ら寒さを覚え、は直視できずに俯いた。アッシュもどこか青い顔をしている。
「いずれにせよ、おかしなことばかりです。違いますか、ベレト」
問われたベレトが、首を傾げる。まるで理解が及ばない、という顔だった。
アルファルドが構わずに続ける。
「私は、十年前のあの日、地下で彼女の遺体を見つけたそのときから……彼女の死の謎を解き明かすこと、彼女を蘇らせることのみを考えてきたのです……!」
「そこまでです、アルファルド」
レアの声が力強く響いて、アルファルドがさっと顔色を変える。
なぜ彼女の遺体がこうして残っているのか、という疑問には答えず諭すようなレアの物言いは、アルファルドの神経を逆撫でしただけのようだった。
小さく吹き出したアルファルドが、高笑う。そうして一転、レアを鋭く睨みつけた。
「どうして貴様の言葉を鵜呑みにできる。どうして貴様を信じられる。こうして彼女の遺体が目の前にある事実に、 語る言葉がないなどとほざく貴様を!」
レアが悲しげに睫毛を伏せた。
「レア、貴様に用などない。私のすべきは……儀式を完遂すること」
そういうが否や、アルファルドが姿を消した。
わずかに届くことのなかった手を引いて、ベレトがレアを振り返る。ベレトにだって聞きたいことは山ほどあるはずだが、それを口にする気配はない。
「決着をつけよう」
そう言って、手にしたままだった天帝の剣を鞘に納める。
皆が頷くなか、ディミトリが「ユーリスたちはどうする。その様子……かなりの深手に見えるが」と、ユーリスたちを気遣わしげに見やった。
儀式が失敗に終わったからといって、失われた血が戻るわけではない。だが、誰ひとりとして、残るという選択肢を選ぶ者はいなかった。バルタザールが満足げに「よし、心はひとつってやつだな!」と拳と拳を合わせる。
「……っと、その前に、ユーリス! 面貸せ!」
「……バルタザール」
バルタザールの右手が、ユーリスの頬を殴打する。あっ、とヒルダが声を上げた。
「なぜ、おれたちに、言わなかった?」
なじられたユーリスが「すまない」と俯きがちに告げた。
「俺は、お前らを利用した。こうしなきゃ……絶対に誰かが死んでいた。それが俺の身内だったか、灰狼の学級やアビスの連中だったかはわからねえが……」
アビスの内通者は、たしかにユーリスだった。けれど、それは止むに負えない理由があったのだ。
灰狼の学級の皆を裏切りながら、アルファルドの目を盗んで画策し、ユーリスはたったひとりでアビスと灰狼の学級とを守っていた。
「だからって、こんなこと! もっと、ご自身を大切にしてください……!」
は思わず、声を荒げていた。ユーリスが藤色の瞳を丸くする。
慣れない大声を出したせいで咳き込んでしまい、アッシュが慌てて背をさすってくれる。
身内の裏切りを、身をもって経験させたとでも言うつもりだろうか。これでは、痛い目に合ったのはではない。
それを皮切りとするように灰狼の学級が、次々に口を開く。
コンスタンツェが勢いよく、扇をユーリスに突きつけた。
「私たちがそれほど信用できなくて!? 貴方というひとは、本っ当に水臭いですわ!」
「別に利用されるのはいーんだけどさ、先に相談しといてよね、まったく」
「お前が人質を取られて大変だって事情はよーくわかった。仕方ねえ。だが……」
バルタザールがそこで言葉を切って、ユーリスの肩を抱いた。
「仲間だろう、おれたちは。背中を預け合って戦う戦友だ」
「……よくもまあ、そんな臭い台詞を言えたもんだ」
ユーリスのそれは、照れ隠しの憎まれ口だということは明白だった。白い頬に差した赤みは、殴られたものによるものではない。ユーリスがバルタザールの腕を振り払い、唇の端を皮肉げに上げる。
「本当に馬鹿だったよ、俺は。ありがとう、お前ら」
藤色の瞳がバルタザールたちから逸れて、を捉えた。
ユーリスの手が、の頭をぽんぽんと撫でる。「悪かったな、」と、その言葉には誠意が詰まっていた。だからは、ユーリスを許すほかなくってしまう。
「さて、馬鹿への説教はいったん終わりだ。もうひとりの馬鹿を殴り飛ばしに行くぞ! もちろんお前も手を貸してくれるよな、先生」
バルタザールに問われ、ベレトが「当然だ」と間髪入れずに答える。ユーリスが大口を開けて笑った。
「……じゃあ行こうぜ、灰狼の学級!」