アビスの薄暗さのせいで、太陽がいやに眩しく感じる。外に出た途端にコンスタンツェの高飛車が鳴りをひそめ、その変わりようにはまだ戸惑いを隠せない。なにせ、コンスタンツェの高笑いは耳に残る。
 すでに傾き始めた太陽が、西の空を絵具を溶かし込んだように赤く染めていた。

 旧市街は、旧と名がつくだけあって、家主を失った建物が寂しげに並ぶばかりで人気はない。中でも礼拝堂は街はずれに存在していて、近づくほどに建物が少なくなって、木々が増えていく。いかにも、賊が根城に好みそうな、人が寄りつかない雰囲気だった。
 崩れた外壁が、バルタザールの足の下でパキリと音を立てる。
 はバルタザールの籠手に視線を落とし、無意識に腹部に手を当てた。燃えるような痛みが、蘇ってくるような気がした。ぎゅう、と力んだ指先が服に皴を作る。は無理やり視線を動かして、嫌な記憶を振り切る。

「緊張してるのか?」

 影が落ちてくる。バルタザールに顔を覗き込まれて、は小さく息を呑む。
 ディミトリも上背があるが、バルタザールはそれを上回る。筋骨隆々とした体躯は、ドゥドゥ―と並んでも引けを取らないのではないだろうか。

「おおっと、悪い。ビビらせるつもりはなかったんだが」

 その威圧感に思わず言葉を失ってると、バルタザールが申し訳なさそうな顔をして、さっと距離を取った。先ほど、ヒルダに「結構年が離れている」と言われていたが、確かに年上らしい気遣いがあるし堂々たる貫禄もある。

「緊張はしていますが、大丈夫です。先生がついてくれていますから」

 頭を撫でた不器用なベレトの手の感触を思い出しながら、は答える。
 本音を言えば、やはり戦うことは怖いし、紋章のことも受け止め切れてはいない。それでも、自分だけ逃げるわけにはいかなかったし、誰かが傷つくのを見ているだけなんて絶対に嫌だった。

「やれるだけのことは、やりたいと思います」
「いいねぇ、その心意気。そういや、ヒルダに邪魔されて言いそびれてたが……」

 じっと見つめられて、は目を伏せた。
 腹のあたりを掴んでいた手を、バルタザールの両手に包まれる。籠手の冷たい感触が伝わってくる。

「傷物にした責任を──

 は瞳を瞬く。

「バルト」
「バル兄」
「バルタザール」

 ハピが今にもため息を吐きそうな顔で名を呼ぶ。その声に、ヒルダとベレトの声が被さった。
 ヒルダがバルタザールの手を叩き落とすと、ベレトがさっととバルタザールの間に身を滑り込ませた。

「茶番はよせよ、バルタザール。ほぅら、あちらさんが待ちくたびれてるようだぜ」

 鋭く細められた藤色の瞳の先に、アルファルドを拘束する賊の姿があった。「君たち……なぜ……!」と、アルファルドが苦悶に満ちた顔で呟く。
 アルファルドが作った灰狼の学級に、四使徒の末裔が集ったことは、偶然か必然かはわからない。

「助けに来たに決まってんでしょう。あんたを見捨てるなんてできるかよ!」

 バルタザールがベレトを押しのけ、叫ぶ。何がどうあれ、彼らがアルファルドに救われたのは、事実である。
 賊の首領らしき男が下卑た笑みを浮かべながら、前に進み出る。ついでとばかりにアルファルドを足蹴にした男の手のひらが、こちらに向かって差し出される。

「で、例のブツは持ってきたんだろうなァ?」

 額に青筋を浮かべたバルタザールを視線だけで窘めると、ベレトが宝杯を取り出した。男の瞳がぎらりと輝く。

「フン……偽物じゃねえだろうな? 確かめさせてもらおう。こっちに寄越せ!」

 男の怒鳴り声に、はびくりと身を竦めた。
 ふわ、と真白の外套が視線を遮る。ユーリスの左手が、を背に追いやった。

「いいや、人質と交換だ。俺たちはでき得る限りの誠意を見せただろ」
「チッ……まだ立場がわかってねえようだな」

 男が苛立ちを露わにする。突き刺さるような殺気に、は思わず目の間の背中に縋りつく。ユーリスが意外そうな目をに向けたが、震える手は掴んだ外套から離せそうになかった。

「俺たちは、ここでお前らをぶっ殺して、そいつを奪い取ったっていいんだぜ」

 「下劣ね。吐き気がするわ」と小さく吐き捨てるように呟いたのは、エーデルガルトである。その傍らで、険しい顔をしたディミトリが頷き、クロードが肩を竦めていた。
 ヒルダに自分よりもやる気がないと言わしめたハピが、わかりやすく怒っている。

「……なんか、思ってたより話が通じない相手だったね」

 尖った唇から、尖った声が紡がれる。こんなところだろうと思っていた、とユーリスが涼しい顔で告げて、腰元の剣に手を伸ばす。
 アルファルドがさっと顔色を変えた。

「いけません、ユーリス。剣を抜いては……!」

 ぴくり、とユーリスが反応するが、その手が剣の柄から離れることはなかった。
 アルファルドが首を横に振る。

「私のことはいい。宝杯を持って逃げてください……! それは教団の至宝です。彼らに渡してはなりません!」

 余計なことを喋るなとばかりに、アルファルドの首に刃がつきつけられる。アッシュが悔しげに唇を噛みしめるのが見えた。は緊張に身を強張らせる。
 こめかみを引くつかせたバルタザールが、にやりと口角を上げる。

「……おれたちも、考えなしで戦いに来たわけじゃないんでね。ハピ!」
「何だっ!?」

 仲間からも、敵からも、視線を向けられたハピが「えっ!? ハピ!?」と驚きの声を上げた。男が、訝しげに眉をひそめる。バルタザールがきまり悪そうに、ガシガシと頭を掻く。

「おい、あれだ。やってくれ、ハピ」
「……ああ、あれね」

 ようやく合点がいったらしいハピが、大きくため息を吐いた。「彼女のため息は……!」と、アルファルドが目を見開く。
 ふいに、耳をつんざくような鳴き声が、あたりに響いた。

「魔物を呼ぶ”ため息”とは、本当に……いつ見てもとんでもねえ力だよ」

 事もなげに言いながら、ユーリスが振り向いた。いまだに外套にしがみつくの手を解くと、冷たい指先を温めるようにユーリスの手が包んだ。

「どーも。めちゃくちゃ不便だし、正直こんな力いらないんだけどね」

 ハピが心底どうでもよさそうに答えて、現れた巨鳥の魔物に瞳を輝かせるリンハルトをうんざりした顔で見やる。
 蜘蛛の子が散るように逃げ惑う賊たちを見て、ユーリスが「根性のねえ賊どもだなあ!」と、大口を開けて笑った。

「バルタザール、魔物の始末は頼むぞ!」

 ユーリスが今度こそ、剣を抜いた。アルファルドの身柄を、ベレトが素早く保護する。
 呆然と立ち尽くしていた男が、顔を真っ赤にさせて怒りをあらわにする。地団太を踏みそうな勢いで「ふ、ふざけやがって!」と怒鳴り散らした。

 一方で息巻いてバルタザールが、向かっていった魔物の爪に掴まれて一緒に飛んで行ってしまう。皆が目を丸くする中、ベレトの視線が気の毒そうにバルタザールの巨躯を追いかけた。

「……まあいい、人質は取り返した。仕切り直しといこうじゃねえか」

 ユーリスが口角を上げる。それは、思わず見惚れるほど美しい笑みだった。

 そんなふうに、ユーリスの笑みが瞼の裏に焼き付いているのは「しばらく寝てろ」と、囁くその瞬間も美しく笑っていたからかもしれない。
 賊を蹴散らし、宝杯を守り切ったと安堵した瞬間に、うなじに衝撃を受けての瞼は重く落ちたのだった。






 目を開けて、飛び込んできたのはベレトの顔だった。
 ぼんやりとその顔を見つめてから、ははっと息を呑む。意識を失う間際、ベレトはユーリスに斬り伏せられていたはずだ。

「せ、んせい」

 ずきりと首の付け根が痛んだ。
 痛みによって、意識がはっきりしてくる。身じろぎすると、ベレトの手で制される。ベレトが膝をついて、自分を抱きかかえているようだった。は困惑しながら周囲に視線をやって、さらに混乱する。

 大司教レアが立っていた。目を白黒させるに気づいて、ベレトが「説明は後で」と小さく告げた。

「大司教殿、彼らの行方に心当たりは?」

 エーデルガルトが仕切りなおすように、口を開いた。

「……宝杯の儀は、主の力で加護されているガルグ=マクの中で行う必要があります。また、その術式の複雑さもあって、静謐な場所で執り行わなければならないはず」
「静謐な場所、ですか。とはいえ、修道院にはそれに類する場所が無数にあるような……」

 ディミトリが、顎に手を添えて思案する。ベレトもまた、考えるようなそぶりを見せて「食堂とか……」と、真面目腐った顔で告げた。ベレトなりに、場を和まそうとした冗談だったのかもしれない。
 級長らが顔を見合わせる。ディミトリが言いにくそうに口を開いた。

「食堂? 静謐というには無理がある気も……」

 首を捻ったディミトリは「先生、腹でも減ったのか?」と、真剣に心配している始末である。
 ベレトが心なし、肩を落としたように見えた。

「とにかく、一度修道院に戻りましょう」

 調査すべき事柄も少なくありません、と続けたレアには、おおよその見当がついているのだろう。
 ベレトが口を開いたとき、血相を変えたアロイスが飛び込んできた。ガルグ=マクの街に盗賊団が現れ、ほしいままに略奪をしているという。レアが表情を険しくさせると「急ぎ民の安全を確保なさい。ただし精鋭を数人、私の元に残すように」と、指示を飛ばしてアロイスを伴いガルグ=マクへと戻っていった。

 その背が見えなくなる頃、クロードが「それで」とベレトの肩を叩いた。

「どうするんだ、先生? 何か言いかけてた気がするが」
「実はユーリスが……夜半過ぎに、聖廟に来てほしいと言っていた」
「聖廟で待ち合わせ? 二人でそんな内緒話をしていたとはね」

 クロードが感心したふうに言って、どこか楽しげに唇の端を上げる。対して、ディミトリとエーデルガルトは神妙な顔をしていて、はヒルダの「エーデルカルトちゃんもディミトリくんも、肩凝りそうだし」という台詞を思い出した。
 黙って話を聞いていたにも、何となく状況が掴めてきた。

 「身内だからと見たくない部分から目を背けてると、いつか痛い目に合うかもしれねえぞ」と言った一方で「身内を疑うのは簡単だが、疑われたほうの心情を慮れ」と言う。その理由は至極単純なものだったのだ。
 ──アビスの内通者は、ユーリスだった。
 はゆっくりと目を閉じる。納得できたようで、腑に落ちない部分もある。

 斬られたはずのベレトは無傷だ。ユーリスが、ベレトを夜半過ぎに聖廟へ呼び出す理由も定かではない。

「ま、計算高いあいつのこった。どうせ何か考えがあるんだろ」

 クロードの言葉に「呑気なんだから―」と、ヒルダが呆れた顔をした。
 兎にも角にも、いまは約束の夜半過ぎを待つしかないようだ。「一旦、アビスに戻ろう」と、ベレトが告げる。ヒルダが気遣わしげな視線を寄こしながら、アビスへ向かうクロードたちのあとへ続いた。

「立てるか?」
「は、はい」

 ベレトに問われ、は慌てて頷く。いつまでも腕の中というのも、居心地が悪い。
 は、ベレトの手に支えられながら地に足をつける。
 ゆっくり立ち上がったにも関わらず、軽い眩暈を覚えて、は思わずベレトに寄りかかった。昏倒させられたからなのか、長らく横抱きにされていたせいなのか、判断がつかない。

「首が痛むだろう」

 そう言って顔を覗き込んできたベレトの眉毛が、ほんのわずかに下がっていた。そのままリンハルトを呼びそうだったので、は慌てて「このくらい平気です」と言った。

「……そうか、わかった。アビスに戻る道すがら、説明しよう」

 もう眩暈は治まっていたのに、ベレトの手が離れていくことはなかった。


 レア曰く、始原の宝杯は女神を再臨させるための道具であり、儀式によって取り戻せるのは肉体のみであるという。その事実を知ってか知らずか、アルファルドは宝杯の儀を執り行おうとしているのだ。
 アッシュが人格者だと目を輝かせていたアルファルドの正体に、はぞっとする。やさしげな顔も、心配しているとかけた言葉も、偽りだったのだろうか。宝杯を手に入れるために、ベレトさえも利用したのだろうか。
 少なくとも、ユーリスらに手を差し伸べたの理由は、善意だけではないことは確かだ。

「顔色が悪い」

 ぽつりとベレトが呟く。
 心配は、に向けられるべきではない。

 いまは、灰狼の学級の皆に心を砕くべきだ。
 安否が気になるのはもちろん、信頼していたアルファルドと仲間だと思っていたユーリスの裏切りに、胸を痛めていることを思うとまで心苦しい。

「いいえ、すこし驚いただけです。心配には及びません」

 ベレトの無感動な瞳の中に、青ざめた顔で下手くそに微笑むが映っていた。

ふがいない爪あと