枢機卿たるアルファルドは教団の重鎮であり、騎士団も総力を挙げて捜索する心づもりであるという。はそれを聞いて安心したのだが、西方教会の絡みの件で、聖騎士が出払っていてセイロス騎士団も万全ではないらしい。
宝杯について、レアに知らせるべきと判断したアロイスの計らいで、ベレトと灰狼の学級の皆は謁見の間に向かった。アロイスが去った教室は、しんと静まり返ったようだった。
「嵐が去ったようね……」
エーデルガルトがため息交じりに呟く。そうして教室内を見回し、ここに留まる必要もないと判断してか、長い髪を手の甲で払いながら踵を返す。赤い外套と、色素の薄い髪との対比が美しくなびく。
その様子に目を奪われていると、各々が思い思いに動き始めた。
レアがどういった判断を下すのかはわからない。
始原の宝杯が教団の手に渡るのならば、アルファルドの一件もすべて騎士団に任せ、たちは手を引くべきだ。けれど、そうでなければ──
伏した視線が見慣れた制服を捉えて、はおもむろに顔をあげた。
「、ありがとうございました」
アッシュが微笑む。淡い萌黄色の瞳がやさしく見つめられて、は困惑する。
「お礼を言われることなんて……」
「僕のために、怒ってくれたんですよね」
こうもはっきり言われると、頷くほかない気がしてしまう。怒った、というにはただ癇癪を起こした子どものように、感情をぶつけてしまっただけのようにも思える。そのうえ、クロードに頭を下げさせてしまった。
冷静になってみれば、クロードに対するとんでもない不敬に肝が冷えた。
どう反応したらよいのかわからずが返事に窮していると、アッシュが小さく声を立てて笑った。
「嬉しかったです。はは、すみません。僕まで君を困らせてしまってますね」
アッシュの指先が前髪を弄って、照れた仕草をする。
確かには困ってはいるが、リンハルトやヒルダのときと違って、少しも不快ではない。はかぶりを振った。
「いいえ、謝らないでください」
「え?」
アッシュが不思議そうに首を傾げた。俯きそうになる顔をあげて、はアッシュを見つめた。
「アッシュさんは、学級の仲間を助けるのは当然とおっしゃいました。いつも、皆さんに助けていただいてばかりですが、わたしも同じ気持ちです」
「……」
ほんとうに、は助けられてばかりである。
ベレトにも、ディミトリにも、アッシュやフェリクスにだって、助けられたからこそ今なおここに立っていられるのだ。は己の不甲斐なさと不出来を噛みしめるように、下唇を噛んだ。
「仲間だって、思ってくれているんですね」
そう言って、アッシュが嬉しそうに目を細めた。理由がわからずに、は眼鏡の奥で瞳を丸くする。
「あ、えっと……何ていうか、はいつも、どこか一線引いているというか……青獅子の学級の皆にも遠慮してるみたいで、すこし寂しいなあと思っていたんです」
だから、とアッシュが続ける。
「にそう言ってもらえて、嬉しいです」
アッシュが笑うと幼さが滲むようだった。そばかすの散る頬に、薄らと赤みが差す。
後ろ指を指されるばかりで、好意を向けられるのは慣れていない。は気恥ずかしさから、さっと顔を伏せた。
士官学校で得るものなど、何もないと思っていた。友人のひとりだって、できやしないと決めつけていた。己の紋章からも、姉からも目を背けて、周囲さえも見ていなかった。
はちら、とアッシュを見やる。眩しい笑顔がそこにあって、は無意識に目を眇めた。
「。ちょっと調べ物、手伝ってくれる?」
とん、と肩を叩かれて振り向けば、リンハルトの眠たげな眼がを見つめていた。
──おめでとう。君の紋章が、彼を救ったんだよ。
リンハルトの言葉が、ふと脳裏を過ぎる。は自分の手に視線を落としながら「わたしでいいのなら」と、自信なく答える。
「、嫌なら嫌って言ってもいいんですよ?」
途端にアッシュが心配そうに眉尻を下げ、の顔を覗き込む。
「え? い、いえ、嫌では……」
「もこう言ってるし、それじゃ借りてくよ」
リンハルトがの手を掴み、歩き出す。なおも顔を曇らせるアッシュに向かって、は慌てて会釈をし、リンハルトについていく。
歩幅の違いから、は自然と駆け足になる。
急いでいるのか、思案しているのか、リンハルトの速度は緩まない。書庫に着くと、リンハルトがどさどさと机に本を重ねた。
「ハピと話してて思ったんだけど、特殊な紋章を持ってるんじゃないかな。もしかしたら、四使徒と関係があるかもしれない」
「ハピさんが……」
「でも、肝心の四使徒の名前がまだ思い出せなくてね。何かきっかけがあれば……」
は重ねられた一番上の本を手にする。
地下の書庫にはもう何度も足を運んだが、蔵書の数があまりにも膨大で、目を通せたのは一部に過ぎない。
「ユーリスさんたちも、紋章を持っているのでしょうか?」
疑問を口にすれば、リンハルトが「うーん」と首をひねる。
「ヒルダはバルタザールに紋章があるとは聞いたことがないって言ってたし、エーデルガルトさんもヌーヴェル家は聖マクイルの血統だと話していたんだよ」
「ガルグ=マクに入学する際に、紋章を調べますよね。ハンネマン先生は、何かご存じだったりするのでしょうか」
「ハンネマン先生……」
ふいに、リンハルトがぱたんと勢いよく本を閉じた。「四使徒の名前、思い出した」と、に持っていた本を押し付ける。
「僕の仮説が正しければ……」
「あの、」
「ああ、ごめん。悪いけどその本、片づけておいてくれるかな。先生たちはまだ戻ってないし、まずはエーデルガルトさんに話を……」
小さく呟きながら、リンハルトがの顔を見ることもなく、さっさと書庫を後にする。
手の内の本がずしりと重い。とりあえず、言われた通りに本を片づけようと立ち上がると「手伝います」と、後ろから声が掛かった。
「本を元に戻すだけですから、アッシュさんの手を煩わせるほどのことでは」
「でも、二人のほうが早く終わる。でしょう?」
にこりと笑いかけられて、は閉口する。「心配で見にきてよかったです」と言われてしまえば、もうぐうの音も出なかった。
が背伸びしても、ぎりぎり届かない位置だった。アッシュに頼むか、脚立を探すか迷いながら、首をひねって周囲に巡らせた視界がふっと翳る。驚きでふらついたの肩を、リンハルトの手が支えた。
リンハルトのもう片方の手が、の手ごと本を棚へ戻した。
「これで終わり?」
「あ、はい……」
の頷きを確認して、リンハルトが手を離した。アッシュが慌てた様子で近づいてくる。
「、こっちは片付きましたよ」
「わたしも終わりました。手伝ってくださり、ありがとうございます」
「いえ、このくらい」
アッシュがはにかむ。
リンハルトが大きく口を開けて、欠伸をした。大きな瞳に涙が滲む。
思わず、はアッシュと顔を見合わせた。悪いけど、と言っていた割に、すべての本を片づけさせたリンハルトに悪びれた様子はない。
「、アッシュ。ここにいたのか」
ベレトが視線だけを動かして、「リンハルトも」と付け足した。
「じゃあ……レア様は宝杯も、アルファルドさんのことも、僕らに託してくださったんですか?」
驚きに目を瞠ったアッシュが「宝杯は、教団にとってすごく大切なものなんですよね」と、不安げに呟く。
はざわめく胸を両手で押さえる。あの夜、不審な抜け穴に足を踏み入れたときには、まさかこんな大事になるなんて思いもしていなかった。不安がむくむくと膨らんでいくようで、はぎゅっと目を瞑る。
生徒の出る幕ではない、とはもうずっと感じている。
「大丈夫だ。自分が責任を持って、最後まで面倒を見る」
ベレトの手が、どこか不器用にの頭を撫でた。
この新任教師は、数節をさかのぼれば傭兵だった。剣を握るばかりだったはずの手は、を守り導いてくれる。
「はい……」
は不安を飲み込んで、小さく頷いた。
隣でリンハルトが、緊張感の欠片もなく欠伸を漏らす。半日かけて封印の谷へ向かい、その帰りは巨大人形と盗賊と戦ったのだから、疲労感もあって当然である。もつられそうになって、はっと口元を手で押さえる。
「まだ出立には時間がある。仮眠をとるといい」
それを見逃さなかったベレトが、微かに笑みを零して、もう一度の頭を撫でた。やはりその手つきは、初めてする仕草のように、ぎこちなさがあった。
眠っていた時間は短かったが、寝台で横になれたおかげが、だいぶ身体がすっきりしていた。外していた眼鏡に伸ばした手が、ふいに絡めとられる。「おはよう」と振ってくる声とともに、するりとの前髪を攫う指先があった。
何が起きているのか、には理解が追いつかない。
「しかし、これだけ鈍いと、いつ寝首を掻かれてもおかしくねえなあ」
「ユー、リスさん?」
自他ともに認める美少年が、微笑む。それは女神か何かのように綺麗だった。
「俺様が前に言ったこと、覚えてるか?」
「……」
「身内だからと見たくない部分から目を背けてると、いつか痛い目に合うかもしれねえぞ」
いったいどれを指すのか見当もつかずにいれば、ユーリスが一言一句違えずに”前に言ったこと”を、繰り返した。苦い記憶が弾けるように蘇って、は眉をひそめた。
起こそうとした身体を、あっという間もなくユーリスに組み敷かれる。
見下ろす藤色の瞳に、裸眼を晒したの顔が映っていた。敷布に縫い付けられた手首は、どう頑張っても振り解けそうになかった。悲鳴のひとつでもあげればよいのだろうが、の混乱した頭ではそれすらも浮かばない。
「……でも、あなたは疑われた方の心情を慮れとおっしゃいました」
ぴくりとユーリスの柳眉が跳ね上がる。微笑みをかたどる唇が、動く。
「それがどういう意味か」
まるで、睦言を囁くような、甘ったるい声だった。
「頭のいい士官学校のお嬢さんには、わかるだろ?」
ユーリスが、ふと表情を消した。右手が左目に伸びて、反射的に閉じた瞼を指先がそうっと撫でる。愛おしむような繊細な手つきに、不穏さは一切なかった。
の頬にユーリスの髪が落ちて、肌をくすぐる。「一度、実際に痛い目に合ってみな。そうすりゃ嫌でも目が覚める」と、耳元に落ちた言葉は、柔い声音とちぐはぐな内容だった。は何か言おうと口を開いてしかし「だから」と、続くユーリスの声に、唇を結ぶ。
「潰れんじゃねえぞ」
囁き声が一転して、凄むような迫力を持つ。は恐る恐る目を開けて、ユーリスを窺った。
苦しげに歪んだ顔が、を見下ろしていた。
「……ユーリスさん、」
「さて、そろそろ礼拝堂跡に向かう準備を済ませな」
ふい、と顔を背けたユーリスが、寝台を降りる。は緩慢な仕草で身体を起こした。いまだに、状況を整理することができない。
ユーリスがため息を吐いた。
「まだ寝ぼけてんじゃねえだろうな」
言いながら、ユーリスが眼鏡をかけてくれる。吐き捨てるような物言いと違って、指の動きは慎重だった。
そこにある感情が、にはわからない。
探るように見つめていると、ユーリスの手がぽんぽんとの頭を軽く叩いた。ベレトと違って、慣れた手つきだった。一見近寄りがたい美貌の持ち主のユーリスだが、案外気さくでアビスの小さい子たちにも慕われている。
家族に頭を撫でられた記憶などないは、戸惑いながら触れられた箇所を手で押さえた。
「んーっ、ふああ……もっとゆっくり休みたーい……」
その声は、の寝ていた寝台の上から聞こえた。
「ちゃんもそう思……」
「ヒルダ、おはよう。よく眠れたか?」
上から覗き込んだヒルダが目を見開く。
ユーリスが笑顔を張りつけながら、さっと身を翻した。梯子を使わずに、寝台の二段目からヒルダが飛び降りることを予測していたようだ。
「ユーリスくん、ちゃんに何してたのかなー?」
小首を傾げる仕草に合わせて、背に流れたままの桃色の髪が肩を滑る。ヒルダの顔は笑顔なのに、その瞳はまったく笑っていなかった。は寝台の隅で小さくなる。
「ちょっと話してただけさ。なあ、」
「全っ然、信じられないんですけど。ていうか、女の子が寝てる部屋に堂々と入ってこないでよねー」
「そりゃ悪かった。ま、ヒルダの寝顔に興味はないから安心しな」
「どういう意味よ! ちゃんの寝顔は拝んだってこと? 何がちょっと話してただけよ、真っ赤な嘘じゃない。最低ー」
じろりとヒルダに睨まれても、ユーリスが動じることはない。はおろおろと二人を見やる。
「おーいヒルダ、廊下まで声が聞こえてるぞ」
「……クロードくん。部屋に入ってもいいか、ちゃんと確認してくれるかなー。すこしはローレンツくんを見習ったらー?」
ひょい、と扉から顔を覗かせたクロードに、ヒルダが大きなため息を吐いた。
一触即発だった雰囲気が消失して、はほっと胸を撫で下ろす。「わ、悪い」と狼狽えるクロードの脇を、ユーリスがさっと通り抜けていく。廊下に消えていく間際、藤色の瞳はを捉えて、ユーリスのかんばせには笑みが乗った。
「なーんか、どっと疲れちゃったよー。ちゃん、ほんとに何もされてない?」
クロードを部屋から追い出して、ヒルダが髪を結いながらを振り返る。
「大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
の言葉に、なおもヒルダが心配そうに眉尻を下げる。いつもの髪形になったヒルダが、腰帯の尾錠を止めて、制服の乱れを整える。もヒルダに倣い、身なりを整えた。
「ちゃんがそう言うなら信じるけどー」
不満げに唇を尖らせながら、ヒルダの指がの髪をやさしくとき梳かす。寝癖がついていたのかもしれない。
こんなふうに、やさしく髪に触れられたことだって、の記憶にはなかった。
「よし! 行こっかー」
ヒルダがにこりと笑って、の手を引いた。姉が笑いかけてくれたのは、手を繋いでくれたのは、いったいいつが最後だったのだろうかと考えても、には思い出せそうもなかった。