アビスに戻った途端に「もークタクタ!」と、ヒルダが腕を伸ばして身体をほぐしながら言った。よく通る声があたりに響く。俯かせていた顔をあげると、ヒルダがにっこりとに笑いかけてくる。
「疲れたときには甘いものだよねー」
「呑気だなあ、おい」
ユーリスが柳眉をひそめ、ため息交じりに告げる。は自身に向けられたかのように身を竦ませたが、ヒルダが気に留めるそぶりはない。
もそのくらい、周囲の視線も声も、気にせずにいられたらよかった。
「先生は先生でお気楽だし、地上の奴らはどうなってんだ? 俺は二、三度死ぬかと思ったけど……」
良い経験だった、と真面目腐った顔でのたまうベレトに対し、ユーリスが呆れた顔をする。
愉快げに笑いながらベレトの肩を叩くバルタザールを横目に、コンスタンツェが扇を開いて優雅に揺らした。
「アルファルド様はお戻りかしら? すぐに宝杯を見せて、教団に……」
期待を隠しきれないという様子だったが、それを遮る声があった。バタバタと慌ただしく、アビスの住人が駆け寄ってくる。
「お、お前ら、無事だったのか! どこ行ってたんだこんな時に……!」
の胸がざわめく。不安げにベレトを見やれば「ちょっと地下に」と、なんでもないふうに答えていた。
「地下だあ? ここが地下だろうがよ……」
と、ベレトの雰囲気に呑まれた住人が、はっと顔色を変える。
「いやいい、とにかく大変なんだよ! 落ち着いて聞け。外から入ってきた奴らに、アルファルドの旦那がさらわれた」
「なっ……アルファルド様が?」
「大修道院から戻ってきたところに、待ち構えてた賊どもが……」
バルタザールが悔しげに拳を握る。怒りのまま壁に叩きつけられそうだったが、ヒルダが「バル兄、落ち着きなってー」とその手を素早く抑えた。
「なんだってあの人を連れ去る必要が……!」
「この準備の良さ、先ほど私たちを襲った賊徒と無関係とは思えませんわね……」
コンスタンツェが扇で口元を隠しながら、冷静に呟く。
賊は、確実に宝杯を狙っていたし、宝杯がこちらの手にあると確信していた。コンスタンツェの言葉は、皆の頭にも浮かんでいたことだろう。クロードとディミトリが顔を見合わせている。
ユーリスの藤色の瞳が、すっと鋭く細められる。
「……その話、教団の連中には伝えたか?」
首を横に振ったアビスの住人の尻を叩いたユーリスが、ひとつ息を吐いた。
とん、と肩を叩く手に振り向けば、アッシュが心配そうにの顔を覗き込んだ。無意識に握りしめていた指先が白んでいて、アッシュが硬く強張った手を開いてくれる。
「心配ですね、アルファルドさん」
「は、はい……」
さらわれたアルファルドのことは、もちろん心配である。
けれど、正直に言ってしまえば、心配よりも不安が勝ってしまっていた。はその感情を悟られぬように、瞳を伏せる。
「おい、リンハルトはどこ行った? ハピもいねえじゃねえか」
ふと、ユーリスがあたりを見回して、ぼやくように言った。
頃合いを見計らっていたかの如く、ちょうどその時現れた二人は、賊徒が残したらしい書簡を手にしていた。
「枢機卿アルファルドの身柄は預かった。今のところ身の安全は保障しよう。助けたければ、宝杯を持ってこい。明日の夕刻、旧市街の礼拝堂跡で待つ。ただし、騎士団を連れてきた時には 枢機卿の命はないと思え」
ハピの気だるげな声が文面を読み上げた。
ベレトがぐっと眉根を寄せる。の近くにいるアッシュも、同じような顔をしていた。
「ご丁寧に、手紙を残してくれるとはね。これが恋文だったらどれだけよかったことか」
肩を竦めたクロードが、ハピの持っている手紙を覗き込む。「筆跡を見てもなあ」と、目を眇めた。
ぱしん、と小気味よい音を立てて、コンスタンツェが扇を閉じた。
「そもそも敵は、なぜ私たちが宝杯を探していると知っていますの? 私たちの行動が筒抜けということは…… まさか、アビスのどなたかが……!」
「鼠がいたのかもしれねえし、あの人が教団に報告して漏れたのかもしれねえ」
コンスタンツェの言葉を、ユーリスが遮った。
「身内を疑うのは簡単だが、疑われたほうの心情を慮れ。今は問題を解決するのが先だ」
はそろりと視線をあげる。ユーリスの美しいかんばせは、激情に歪んでいた。
身内を疑うなと、何故ユーリスが口にするのだろう。身内だからと見たくない部分から目を背けてると痛い目に合う、とに忠告したのはユーリスに他ならない。
「そ、そんなことわかっておりますわ! 貴方、珍しくまともなことを言いますのね」
目を丸くしたコンスタンツェがしかし、胸を張って答えた。
転んだ際に破れてしまった脚衣を脱ぐと、晒された素足がひどく心許ないような気がした。は傷のない膝に指先を這わせる。ユーリスは二、三度死ぬかと思ったと言ったが、が死を覚悟した回数はそれでは利かないかもしれなかった。
瞼を下ろすと恐怖が蘇ってきて、膝に触れた手が震えた。
己の情けなさにため息が漏れた。ディミトリの頼もしい背中を思い出すと、平身低頭したくなる。はぎゅっと抱えた膝に、顔を埋めた。
「、一緒に弓の手入れを……」
顔をあげると、アッシュが慌てて背を向けるところだった。
「す、すみません! まだ着替えの途中だとは思わなくて!」
は、はっとして脚を正す。下着こそ見えていなかっただろうが、太ももは目に入ったはずだ。女部屋を借りているからと、あまりに不用意だった。
アッシュの耳が赤いことに気づいて、の顔も熱を帯びる。ヒルダに借りた靴下を素早く身に着け、靴を履いた。
「お見苦しいものを見せてしまい、申し訳ありません。もうこちらを向いていただいて大丈夫です、アッシュさん」
「そ、そんな、見苦しいなんて思ってないですから」
アッシュが手の甲で口元を覆いながら、振り向いた。その顔が赤い。
「えっと……弓の手入れをしませんか?」
目を合わせないまま、アッシュが言った。もまた、アッシュの顔をまともに見れず、俯きながら「是非、お願いします」と小さく答えた。
灰狼の学級の教室の片隅を借りて、とアッシュは並び座る。慣れた手つきのアッシュと違い、の手際は悪い。もたもたしているうちにアッシュの手入れは終わっていた。
「すこし弦が緩そうですね、貸してください」
「すみません……」
「気にしないでください。僕も初めは上手くいきませんでしたから」
アッシュが調整してくれた弓を構えてみる。「様になってきましたね」と、アッシュが言ってくれたが、にはそうは思えなかった。
の手には、まだ弓がひどく重いように感じる。
「おっ、仲良く弓の手入れか? どうせなら俺も誘ってくれよ、冷たいねぇ」
クロードが大袈裟に嘆くふりをして、近くの席に腰を下ろした。
は困惑しながら、弓を机上に戻す。
翡翠色の瞳が、興味深げにの顔を覗き込んでくる。ヒルダと親しげであるせいか、クロードの距離が妙に近い。友人のいなかったには、この距離感が正しいのかわかりかねる。
「それ、ヒルダのか?」
伽羅色の指が、の脚を指す。膝の上まで覆う靴下は立った状態では裾に隠れていたが、座ると肌色が見えてしまっていた。普段は脚衣に包まれた部位のせいか、妙に気恥ずかしい。
クロードの視線を遮るように太ももに両手を置いて、は頷いた。
「クロード、ジロジロ見ては失礼ですよ」
アッシュにじろりと睨まれたクロードが肩を竦めた。
「……青獅子の学級は、にちょっと過保護じゃないか?」
は思わず、アッシュと顔を見合わせる。
過保護と思ったことはない。それはアッシュも同様だったようで、不思議そうに瞳を瞬かせた。
「学級の仲間を助けるのは、当然じゃないですか」
「仲間ねぇ……」
クロードが意味ありげに呟く。組んだ腕を枕にして机に伏したクロードの瞳が、くるりと楽しげにを見る。その口元は隠れてしまっていたが、笑みが刻まれているのだろう。
「じゃあお二人さんは、身内は疑うなって考えか?」
はっ、とアッシュが息を呑むのがわかった。
クロードが指すのは、アビスのことであるのは明白だった。しかし、の脳裏には姉のことが思い起こされ、同時にアッシュの養父たるロナート卿のことが過ぎった。
反射的に立ち上がったは、不思議そうに見上げてくるクロードを見つめる。
「クロードさん、」
自然とその声音が硬くなる。アッシュがくれたやさしさを少しでも返すことが、にできるだろうか。
「その問いの答えは、簡単に出せるものじゃないと思います。頭では理解できても、感情が追いつかないことだって、あります」
は目を伏せ、唇を噛みしめた。
ユーリスの言ったことは正しいのかもしれないと思うたびに、それをの感情が否定する。
「、落ち着いてください」
「……でも、あまりに無神経です」
金鹿の学級であるクロードは、マグドレド奇襲戦に赴いてはいない。
アッシュがどんな気持ちで、養父と対峙したのか、見知った領民たちと刃を交えたのかなど知る由もない。
こんなふうに責めるには言葉が足りなかったかもしれない。けれど、口から出てしまった言葉を、いまさら消せはしなかった。
ふいに、クロードが降参とばかりに両手を挙げた。
クロードが頭を下げたので、はさらに呆気にとられる。アッシュも目に見えて動揺している。
「悪かった。確かに、わかったような口を聞いちまったな」
「ク、クロード、なにもそこまでする必要は」
顔をあげたクロードには、笑みがなかった。
真剣な瞳に射抜かれて、はさっと顔を伏せた。
「僕は」
そう切り出したアッシュの声は、かすかに震えていた。俯いてその表情は見えない。
「ユーリスの気持ちがわかります。僕だって、ロナート様の反乱を信じたくありませんでした。だけど、ロナート様は領民も巻き込んで、無謀な反乱を起こした……その事実は曲げられないんです」
アッシュがぐっと拳を握り、睨むようにクロードを見た。
「もちろん、仲間を信じたいと思います。でも、目を背けるのは違う」
「…………」
「仲間だから、身内だからという理由で、目を曇らせてしまうのは間違っていると思うんです。ユーリスが彼らを疑えないのなら、アビスの住人ではない僕たちがその役割を担うべきじゃないでしょうか」
「へえ……案外冷静に考えるんだな。正直、おまえみたいないい奴は、情に訴える性質だと思ってたよ」
肩の力を抜いたアッシュが「正直に口に出しすぎじゃないですか」と、苦笑を漏らす。
は何も言えなかった。
アッシュの言葉は、に向けられたものではないとわかっていてもなお、心臓を掴まれたような心地がした。
──目を背け続けている。
あなたの顔を見たくない、と告げたエリアーヌの顔を思い出せないのが、何よりの証拠だった。
「あっ、いたいたちゃんー」
ひょこ、と桃色の髪を揺らして、教室の入り口からヒルダが顔を覗かせる。「あれ、クロードくんも一緒?」と、怪訝そうにヒルダが眉をひそめながら近づいてくる。
「何だよヒルダ、俺がと仲良くしたら悪いのか?」
やれやれ、というようにかぶりを振って、クロードが立ち上がった。
ヒルダの後ろに続いて、教室に入ってくるベレトに気づいたのだろう。「別にー?」と、間延びした声で答えるヒルダには肩を竦めるのみに留め、クロードがベレトの傍らに立って気さくに肩を叩く。
「見回りは終わったのか?」
「……ああ」
頷くベレトの視線が、のほうへと向いた。何か悪いことをしていたわけでもないのに、は身を強張らせながら会釈をする。
「ちゃん、クロードくんに失礼なことされてない?」
「おいおい……ヒルダ、聞こえてるぞ」
「えー? だって、ちゃんが心配なんだもんー」
ヒルダが、クロードが座っていた席に腰を下ろした。
アッシュが机上の弓や道具を片づけるのに倣って、も自分の分を片づける。
気がつけば、教室内に皆が揃っていた。
自分ばかりが座っているわけにはいかない、ととアッシュは席を立ったが、ヒルダはそのままだ。頬杖をついて小首を傾げる仕草は愛らしい。
「ところで、あの人って枢機卿だったの? ほんとにいるのねー、枢機卿って」
感心したような、どうでもいいような、どちらともつかぬ口ぶりだ。
「枢機卿団でしたっけ。灰狼の学級の皆は、 アルファルドさんがその一員だって……」
そう言って、ユーリスたちの顔を見渡すリンハルトもまた、あまり関心がなさそうだ。知らなかった、と答えるバルタザールに対し、ユーリスが少しばかりばつが悪そうにしながら頷く。
「……あの人とは、 いろいろと話す機会も多かったからな」
軽く肩を竦めたユーリスが、続ける。
「まあ、あの人の素性なんかよりも今はもっと、先に話し合うことがあるだろ? かどわかされたアルファルドさんを助け出すには、どうしたらいいか」
手紙には、助けたければ宝杯を持ってこいと記されていた。
けれども、コンスタンツェは断固として反対する様子である。ハピだけがのんびりと「渡しちゃえばいーじゃん」と言うが、あの宝杯は死ぬ思いをして手にしたのだ。そうやすやすと手放せるものでもない。
「どうする、先生」
皆の視線がベレトへ集まったとき、アビスに騎士団を引き連れて、アロイスが騒がしく現れたのだった。