コンスタンツェの目算通り、アビスのさらに地下を進んだ先はガルグ=マクの底に繋がっていた。大聖堂に繋がる橋梁を見上げるほどのその谷底こそが封印の谷であり、始原の宝杯は確かに存在していた。
 宝杯を守る巨大な人形を、バルダザールふうに言えば畳み倒した末に、たちは始原の宝杯を手にした。

 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、巨大人形がたちの背後に迫っていた。先ほどよりもよほど巨大であり、さすがのバルタザールも「鉄板みてえに畳んでやる」とは言わなかった。仕掛けを解く鍵も見当たらない。

「おい、もう少しでアビスだ、踏ん張れ!」

 ユーリスが声を荒げる。
 「もう走れないよー」とヒルダが弱音を吐いているが、やコンスタンツェと比べたら全然息が上がっていない。クロードは当然それに気づいているようで、何も言わずとも呆れた顔をしている。

「ああクソ、こんなことになるとは!」

 ユーリスが綺麗な顔に似合わず、口汚い言葉で悪態をつく。
 もし、こんなことになるとわかっていたら、始原の宝杯を諦めていただろうか。
 アルファルドの制止を無視してまで、宝杯を探そうと言ったのはコンスタンツェだ。爵位を取り戻し、ヌーヴェル家を再興させ、かつての栄華を再び手に入れる──コンスタンツェが宝杯にこだわる理由は、そのために功をあげて教団に認められるためである。

 ハピが宝杯を返そうと提案するも、コンスタンツェが「私は諦めませんわよ! 死ぬまで死んだりしませんわ!」と、息を切らせながらも高笑いを忘れない。彼女の中に諦めるという選択肢など存在しないのかもしれない。

 脇腹が痛むが、足を止めるわけにはいかなかった。けれど、懸命に動かした足はもはや限界だったらしく、の足はもつれてしまう。

「きゃっ……!」

 硬い地面にしたたかに膝を打ちつける。すぐには立ち上がれなかった。

「なっ……!?」
「ええっ!? ちゃん!」

 クソ、とユーリスがもう一度吐き捨てた。ヒルダの悲鳴じみた声があたりに響く。
 地響きのような音が、振り返らずとも近づいてくるのがわかった。は痛みを堪えて身を起こす。顔をあげた先に振り向いたユーリスの焦った顔があって、は反射的に目を伏せた。ユーリスと目を合わせることが怖かった。

 藤色の瞳が、逡巡するようにから外れて背後に向けられた。一拍遅れて、前をゆくベレトが振り向いたのが見える。
 ユーリスがすぐに踵を返さなくてよかった。己を助けるために戻る、という決断が下されてしまう前に、とは慌てて声を張り上げた。

「行ってください! わたしのことは」

 気にしないで、と続くはずの言葉は途切れた。
 立ち上がるより早く、を抱き上げる手があった。驚きの声を上げる間もなく、まるで重さなど感じないかのように容易くを肩に担ぐと、そのまま走り出す。

「ディ、ディミトリ王子殿下、」
「すまない。窮屈だろうが、このままで頼む」
「申し訳ございません、王子殿下のお手を煩わせてしまって……!」
「気にするな」

 短く告げて、ディミトリが小さく笑う。
 近くまで迫っていた巨大人形と距離が開いていくのを目にしながら、はディミトリの肩で身を小さくさせる。よりにもよって、自国の王子殿下になんてことをさせているのだろう。しかし、ここで下ろしてもらったとしても、また転ばない保証はできない。
 人ひとり担いでいるというのに、ディミトリの走る速度が落ちることはなかった。呼吸の乱れもない。驚くことに、振動もあまり伝わってこない。

 ドゥドゥーにこうして担がれるのならそれほど不思議ではないが、ディミトリは長身であるものの体格は細身である。それだけ普段から鍛えている証拠かもしれない。

ちゃん、無事でよかったよー」

 ヒルダがほっと胸を撫で下ろしている。心配そうな表情を浮かべるのその顔は、やはりまだ余裕がありそうだった。

「迷いがなさすぎるだろうよ、王子様」

 ユーリスが小さく舌打ちをし、背後を振り返る。

「ハピの言うように、宝杯を手放さない限りついてくるんじゃねえか?」
「も、もしあれをアビスまで連れていったら、街が大変なことに……」

 アッシュが顔を曇らせ、縋るようにベレトを見やった。考えるそぶりさえ見せずに、ベレトが「迎え撃とう」と頷く。げっ、とあからさまに嫌そうに顔を歪めたのはヒルダとリンハルトだ。
 ちら、とユーリスがベレトを一瞥する。

「よし、もう少し走るぞ。敵を食い止めるのに都合の良い場所がある!」
「あの仕掛けか! 確かにクソ頑丈だったな。拳が砕けるかと」

 都合の良い場所、にバルタザールたちは合点がいったらしい。

「殴ったんですの!? 何で貴方はいつもそう……!」
「殴れば見極められると思ってんでしょ。ほんとバカじゃん」

 罵声を浴びせられ、バルタザールが気まずげに頭を掻く。
 走りながらユーリスが「仕掛けが壊れてたらてめえを人形に食わせてやるからな!」と、バルタザールに凄んだ。美人は怒っていようと美人だった。




 狭い路地を駆け抜け、少し開けた場所に出る。その先の道も入り組んでいる上、宝杯を守る幻影の敵兵の姿も見受けられる。このまま走り抜けるのは困難そうだ。
 ディミトリがようやくを下ろしてくれる。地に足をつける感覚が、随分と久しぶりのように感じた。

 ガシャン、と音を立てて行く手にあった扉が閉じる。何がなんでも宝杯を持ち出させまいと、様々な仕掛けがあるようだ。

「しまった、扉が……!」

 ディミトリが閉じた扉に手をかけるが、眉をひそめて首を捻った。

「……この頑丈さ、さすがに俺でもこじ開けられそうにないぞ」
「ディミトリの怪力を持ってしても開かないんじゃあ、どうしようもないな。しかし、これじゃ逃げるのも一苦労だ」

 やれやれ、とクロードが肩を竦める。回り道をして行くにも、その先には幻影兵が待ち構えている。近道ができないことに気づいて、コンスタンツェが悔しげに下唇を噛む。
 チッ、とユーリスが舌を打った。

「まずいな……確かこの先にも似た仕掛けがあったはずだ。閉じられる前に駆け抜けろ!」
「まだ走るんですね……」

 はあ、とため息をついたリンハルトが杖を手に近づいてくる。首を傾げるに対し、「膝から血が出てるよ」と言いながら杖を掲げる。
 必死だったせいか、あまり痛みを感じていなかった。

「あ、ありがとうございます」
「僕が言ったこと忘れてないよね?」
「はい……すみません、肝に銘じます」

 本当にただ確認のために問うたようだったが、は叱責されたのかと項垂れる。

「装置の近くにある扉なら、僕にも開けられそうです」
「まっすぐ突っ切ったほうが早いに越したことはねえが……」

 アッシュの言葉に、ユーリスが困り顔で前髪をかき上げた。

「あー、装置んとこ行く? 取り残されちゃう危険もあるけどさ」

 ハピがのんびりと言って、首を傾げた。危機感があまり感じられない物言いに「呑気だなオイ」と、バルタザールがぼやいている。

「ま、あんたに任せるよ。先生」

 ユーリスが気安い仕草でベレトの肩を叩く。「悩んでる暇はねえようだがな」と、苦い顔で背後を振り返った。巨大人形が不気味な動きを見せている。
 ベレトが頷き、天帝の剣を握った。


 巨大な人形から逃げ果せたかと思えば、今度は賊が立ちはだかる。「またー!?」と、ヒルダが不満げに声を上げる。

「散々走って汗だくなのに、まだ戦うとかー!」
「宝…………宝杯のことか?」

 妙だな、とクロードが怪訝そうに呟く。
 コンスタンツェも同じように「彼らはどこまで知っていますの?」と不審そうに、眉をひそめている。

 たちが封印の谷底に向かったことも、始原の宝杯を手にしたことも、ここにいる者しか知り得ないことである。アルファルドに釘を刺された手前、アビスの誰にも何も言わずに来たのだ。
 何故“宝“を持っていることを知っているのか。何故、待ち伏せすることができたのか。賊は「お頭の言った通りだ」と口にしたが、“お頭“とはいったい誰のことなのか。
 
「クロード、考えるのは後だ! まずはここを切り抜けよう」

 ディミトリが槍を振るいながら叫ぶように言った。
 ははっとして矢筒から矢を手にする。ディミトリの言う通りだ。気になることはあるが、それはアビスに戻ってから考えればいい。万が一にも、宝杯が賊の手に渡るようなことがあってはならない。

「あんたら、逃さないよ。宝を寄越すか、死ぬかだ!」

 明確な殺意を向けられると足が竦むし、心臓が冷えるような感覚がする。相変わらず、矢を番える瞬間は恐ろしさを感じて、弓を引くまでに少しの間が空いてしまう。
 が実戦の場に立ったのは、ほんの数節前だ。仕方のないことなのかも知れなかった。ただ、対峙する相手はそんな事情を考慮してくれるわけもなく、好機とばかりに隙を突かれるだけだ。

「っ……」

 足を踏み込まれる。
 ──まず、獲物の動きを見て、予測する。実際の的は動くぞ。
 シャミアの言葉が脳裏を過ぎる。まだ斧が届く距離までは詰められていないが、このままもたついていればすぐに懐に入られるだろう。

 は震える指先で矢を放つ。当たりはしなかったが、足元に飛んでいった矢が賊の足を止めた。

「ちっ! そのまま震えてりゃいいものを」
「上出来だ」

 鮮やかな青い外套がはためくようにして、の視界を遮った。

「安心しろ。お前の元に刃は届かない」

 ディミトリの槍が、たった一撃で賊を地面に沈める。見事な槍捌きもさることながら、ディミトリには迷いがない。己の傷さえも省みないようにさえ覚える。
 先ほど、転んだを助けた際も、ユーリスの言うように一切の躊躇がなかった。

 ディミトリの姿が眩しく思えて、は目を眇める。

、アッシュ。ディミトリが取り逃がした敵を頼む」

 ベレトの言葉に、はぎゅっと弓を握り直しながら頷いた。







 全員の姿を確認して、ユーリスが仕掛けを作動させる。
 頑丈な扉が閉まったことにより、賊の手がこちらに届くことはない。ようやく脅威から逃れられた安堵に、肩の力が抜けると同時に身体からも力が抜けて、は思わずよろめいた。

「大丈夫か?」

 傍にいたディミトリが、肩を支えて顔を覗き込む。

「あ……は、はい」
「無理はするなよ。辛いなら、背負ってやるが……」
「え?」

 は瞳を瞬く。一瞬、言われた意味がわからなかった。
 ディミトリに背負われる姿を想像するだけでも、ドゥドゥーの険しい顔が頭を過ぎった。肩に担がせたと知れれば、あまりの不敬を叱責されるかもしれない。何より、ディミトリを危険に晒してしまって──自責の念で胸が苦しい。

「け、結構です。先ほどはお助けくださり、ありがとうございました。ディミトリ王子殿下にお気を遣わせてしまって、本当に申し訳ございません。重ね重ねお詫び申し上げます」

 は深々と腰を折る。
 やはり、自分は力になどなれやしない。こうして迷惑をかけて、足手まといにしかなり得ない。
 関わるべきではなかった。ディミトリに、ベレトに、何と言われようとも首を横に振るべきだった。この後に及んで、まだ己の紋章を持て余している。

「顔をあげてくれ。なあ、俺たちは同じ学級の生徒だろう」
「……はい」
「なら、助け合うのは当然だし、気を遣うのだって当たり前だ」

 ふ、と笑ったディミトリが右手を差し出した。

「俺を友人と認めてくれるなら、その畏まった態度をやめて、ディミトリと呼んでほしい」

 初めて言葉を交わしたときのことを、覚えてくれていたのか。は眼鏡の奥で目を丸くする。
 ──友人がいないと言うのなら、俺を初めの一人にしてくれるなら嬉しい。
 ディミトリは本当にそう思ってくれていたのだ。ただの社交辞令だと思っていた自分を恥じ入る。はおずおずと、ディミトリの手を握った。

「ディミトリ」

 噛み締めるようにその名を呼べば、ディミトリが笑みを深める。いつかと同じように柔らかい、やさしい笑みだった。
 ディミトリの手が離れる。

「ま、待ってください、やっぱりいきなり呼び捨てにはできません」
「そうか? 何も気にする必要はないと思うが……」
「すみません、あの……せめて、ディミトリ様と呼ばせてください」
「あまり代わり映えしないな。さん付けならどうだ? クロードもそう呼んでいるだろう」

 はちら、とクロードを見やる。視線に気づいて、クロードがひらひらと手を振ってくる。は慌てて会釈を返す。
 次期国王と次期盟主、確かに名前こそ違えど立場はほとんど変わらない。

「自国の王子だぜ、そう気安く呼べるかよ。なあ、アッシュ?」

 ユーリスが皮肉げに口角を上げる。問われたアッシュが「そうかもしれません」と苦笑をこぼした。

「さて、アビスに戻るぞ」

 ぽん、とユーリスの手がの背を叩いた。
 戸惑うに助け舟を出してくれたのかもしれない。「そういうものか」と、ディミトリがやや残念そうに呟いているが、納得してくれたようだ。

「これで無事に“始原の宝杯”をアビスに 持ち帰れますわね!」

 あたりに響くコンスタンツェの高笑いを聞きながら、は揺れるユーリスの外套を見つめた。
 嫌われているのだとばかり思っていた。けれど、が転んだときに振り返ったユーリスの顔は、本気で心配していたし焦っていた。エリアーヌを貶されたことばかりに目がいっていたが、思えばあれはを心配していたのかもしれない。

 何にせよ、会ったばかりのユーリスのことを、が理解できるはずもない。は軽くかぶりを振って思案をやめ、「行こー、ちゃん」と笑うヒルダの後に続いた。

不安を縫って食べて