地下闘技場での戦いを見るに、アビスを襲う賊たちは、ガルグ=マク大修道院の地下で何かを探し求めているようだった。居住区を悟られることなく、賊たちを撃退したもののアビスへの侵入はこれからも止むことはないだろう。
 ここまで首を突っ込んだ以上、引き下がる選択肢などベレトに存在するわけがない。アビスの管理者であるアルファルドにユーリスたちを導いてほしいと頼まれ、ベレトが快諾したのは当然のことである。

 許されるのならば、はこれ以上関わりたくはなかった。恐らく、アビスを守るためには戦うしかないのだ。それを考えると気が重い。いくら手が足りないといえど、やはり自分は足手まといになりかねない。
 けれど、あのヒルダやリンハルトさえも乗り気なのだから、だけがもう付き合えないとは言えやしない。

 もはやアビスや灰狼の学級の存在をなかったことにはできない。
 見ないふりをするには、彼らの事情を知りすぎてしまった。には、隠れて生きなければならない者たちの気持ちが、少しだけれどわかる。彼らから居場所を奪ってはならない。奪われてはならない。
 たとえそれが、日の当たらない場所だったとしても、彼らにとってはアビスがすべてなのだ。だからは、また地下へと足を運ぶほかない。


?」

 頭上から声が降ってきて、は顔をあげた。クロードがわずかに腰を屈めて、覗き込んでいる。

「何してるんだ?」
「……猫を、見ていました」

 立ち上がろうとしたを制して、クロードも傍らに蹲み込んだ。の視線の先を追って、一匹の猫を見つめる。小鳥を前に、身を低くして近づいていく猫は、狩りの最中である。
 ガルグ=マク大修道院には、野良の猫や犬が多い。時おり、ベレトが餌付けしている姿も見かける。

 軽く地を蹴って猫が飛びかかるが、小鳥が飛び立つほうが早かった。獲物を逃した猫が不機嫌そうに鳴く。

「おっと、惜しい。距離を見誤ったな」

 クロードが猫を招くが、猫はくるりと踵を返して逃げてしまった。「嫌われたようだ」と、クロードが肩を竦めて立ち上がる。

「あの猫じゃ、狩りの手本にはならないな。今度一緒にどうだ?」
「え?」

 クロードの手が、の手を掴んで立ち上がらせる。手がいつまでも離れない。クロードと初めて言葉を交わした時と違って、その手を払ってくれるヒルダはいない。
 は困惑しながら、翡翠色の瞳を見つめた。

「まずは獲物がどう動くか観察すること。シャミアさんが言ってただろ?」
「聞いていらっしゃったんですか」
「勘違いするなよ? たまたま聞こえただけだって、偶然も偶然さ」

 くつくつと可笑しそうに笑いながら、クロードがようやく手を離してくれる。には、クロードの言葉がどこまで本気でどこからが冗談なのか、よくわからない。すべて、揶揄っただけと言われても不思議ではないように思えた。
 もし、本当にクロード手ずから狩りを教えてくれるなら、ありがたいことこの上ない。どう答えるべきかが考えあぐねていると「おい」と、背後から肩を掴まれた。

 振り向いた先に真紅の瞳があって、は息を呑む。

「フェリクスさん」
「……お前のだろう。先生が持ち主を探していたぞ」

 手間をかけるな、と押しつけるように手渡されたのは、栞だ。
 押し花は色が抜けてしまっているし、栞自体が痛んでしまっているが、結ばれたりぼんだけが真新しい。が子どもの頃に作ったものだから、年季が入っていて当然である。

「あ……わたしの栞です、ありがとうございます」
「フン。やはりそうか、見覚えがあるわけだ。お前は同じものを俺と兄に贈ったな。いらんと言うに」
「も、申し訳ございません。フラルダリウスのお屋敷にお邪魔した際にいただいたお花で作ったものですから、ぜひお二人にもお渡ししたかったのです。分別のない子どもで、本当にすみません」

 いま考えてみれば、男児が、それもあのフラルダリウス家の息子が花に興味があるわけもない。物心つく頃には、剣を振っていたはずだ。
 フェリクスが苛立たしげに舌を打った。そうして、興味深げにこちらを眺めるクロードを睨みつけ「他学級の級長がお前に何の用だ」と、わずかばかりに声を潜める。はちら、とクロードを見やった。

「……面倒ごとか」
「いえ、そのようなことは」
「猪にも何か迷惑を被っているなら、俺から奴に言ってやる」
「め、迷惑だなんて滅相もありません。ご心配には及びません、お気遣いありがとうございます」

 は慌てて首を横に振るが、フェリクスの瞳は鋭く細められたままクロードを睨んでいる。「胡散臭い顔だ」と、吐き捨てるように言って、クロードの脇を通り過ぎていく。
 わざと肩をぶつけそうな勢いがあった。不機嫌さを隠そうともしない背を見送って、クロードがおもむろに近づいてくる。

「フェリクスと親しいとは意外だな」
「親しいだなんて。ただ領地が隣接しているだけです。最後にお顔を見たのも、もう何年も前のことで、士官学校に入学されたことを知ったのだってガルグ=マクに来てからなのです」
「へえ? それにしちゃあ、随分あんたを気にかけていたみたいだが」

 クロードの瞳は輝いているようだった。けれど、残念ながら面白い話などひとつもない。

「本当に、クロードさんが思っているような関係では……わたしがあまりに不出来なので、見ていられないのかもしれません」

 はフェリクスから受け取った栞を、もう二度と落とさぬようにと懐に大事にしまった。それから、クロードを振り返る。

「アビスに参りましょうか」
「ああ、そうだな。さあ、お手をどうぞ? お嬢さん」

 おどけた仕草で、クロードが手を差し出す。は思わず、じっとその手のひらを見つめてしまった。すぐに手を取れるほど、はクロードを知らないし、信用していない。
 何よりも、同年代の友人がいないので、こういう時にどう反応すべきかわからないのだ。

「ほら、行こうぜ」

 小さく笑ったクロードが、の手を掴んだ。






 アビスの教室に足を踏み入れると、すでに揃っていた皆の視線がこちらに向いた。は咄嗟に、クロードの影に隠れるように身を小さくした。

ちゃん、クロードくんと一緒だったのー?」
「は、はい」
「悪い悪い。ちょっと遅くなったみたいだな」

 悪いとは思っていない口ぶりだ。視線をあしらうように、クロードが片手を軽く挙げた。もう一方の手はの手を掴んだままだ。
 ヒルダがそれに気づいて「お触り禁止ー」と、口を尖らせる。クロードが肩を竦めながら、手を離した。

「申し訳ありません、わたしがクロードさんを引き止めてしまって」

 ディミトリやエーデルガルトが眉をひそめるのがわかって、は慌てて口を開いた。責められるべきはクロードではない。

ちゃんとクロードくんが、ねぇ」

 ヒルダがを引き寄せて、少し不満げな声を漏らす。アッシュまでもが「大丈夫ですか?」と気遣わしげに声をかけてくるので、はますますクロードの人物像を掴みかねる。
 ヒルダがクロードを誠実ではないと評したが、一方で彼女の怠け癖を多めに見る寛容さを持っているのは事実だ。フェリクスの猪という蔑称もあながち間違いではない、猪突猛進な面を持つディミトリにはない柔軟さがある。何より、周りをよく見ていて、話し合いの場でも戦いの場でも皆の調和を取っているようだった。の視力についてもすぐに気がついていたのは、観察力に優れるのだろう。
 クロードがベレトの肩を軽く叩いて、話の輪に入っていく。クロードがに向けて片目を瞑ってみせたので、は軽く会釈を返した。


 もしも、賊の狙いが本当に“始原の宝杯”だったとして、アビスのもっと奥が“封印の谷”に繋がっているのだろうか。そして、その谷でその宝杯で行われる“宝杯の儀”は死者を蘇らせるというのだから、アルファルドが荒唐無稽と前置きをした推論は、確かに信じがたい話だった。

「四使徒……うーん、思い出せそうな気もするんだけどなぁ。、何か思いつかない? ほら、食べ物とか地名とか」

 リンハルトに問われ、は書物から顔を上げて首を横に振った。

 始原の宝杯は、聖セイロスが作らせた一種の神器。聖セイロスは四人の使徒とともに、宝杯の儀を行なったが失敗に終わり、四使徒の手によって宝杯は封印された。四聖人と同時代を生きたとされる四使徒の名は、記録にもほとんど残っていない。
 どれだけの信憑性があるものかは定かではないし、眉唾ものと一蹴するのは容易い。
 けれど、このアビスの存在といい、灰狼の学級といい、教団が賊に狙われるような何かを隠していたとしても不思議ではない。

「きっかけがあれば思い出せそうな気もするんだけど」
「お力になれず、申し訳ありません」

 ひょい、とリンハルトがが手にする本を覗き込む。距離の近さに驚くに構わず「あ、それは僕が読んだよ」と、リンハルトの平坦な声が告げた。

「そ、そうだったのですね」
「うん。だから、こっちを読んでもらってもいいかな」

 リンハルトが、本棚の高い位置から本を取った。中性的な顔立ちのリンハルトだが、意外にも背が高い。本を手渡すと、が手にしていた本を棚に戻してくれる。
 惰眠を貪るばかりの印象だったが、知識への探究心は貪欲で、ここ最近のリンハルトは寝る間を惜しんで宝杯の儀にまつわる伝承を調べている。ふあ、とリンハルトが欠伸をしてぐっと身体を伸ばした。

「あなたたち、ちょっとよろしくて?」

 コンスタンツェがふんぞり返って、とリンハルトに扇子の先を向けている。リンハルトがあからさまに嫌そうな顔をしながら、ため息を吐いた。



「……いいえ、それは私が許しません。 君たちを危険な目に遭わせたくないんです」

 アルファルドが首を横に振る。
 しかし、納得がいかないとばかりにコンスタンツェが食ってかかり、周りもそれを止めはしない。はリンハルトと共に、教室の隅でアルファルドと皆のやりとりをハラハラと見守る。リンハルトは話を聞いているのかいないのか、時おり欠伸を漏らしていた。

 勝手な行動をしないように、と念を押したアルファルドが教室を後にする。コンスタンツェが悔しげに唇を噛み締める。

「心配はありがたいのですけれど、やはり根本を解決しなくては何も……」

 その隣に立つユーリスが軽く肩を竦め、コンスタンツェの肩を叩いた。

「ま、あの人にも何か考えがあるんだろうよ」
「それは……」

 コンスタンツェが言い淀み、目を伏せた。
 もしも、賊の侵入が居住区まで及んだら──そう考えると、手をこまねくばかりの現状に焦りを覚える気持ちが、にもわかる。
 は口を挟まずに、ただ俯きがちに立ち尽くす。

「……何かあったのか?」

 教室に生徒が揃い踏みであることを訝しんでか、ベレトの眉はわずかにひそめられていた。コンスタンツェの瞳がベレトを捉えて、輝く。

「ちょうどいいところに! 畑に翠雨とはこのことですわね!」

 ベレトがわけがわからない、というふうに首を傾げた。
 たちの視線もまた、一斉にコンスタンツェへと向けられる。笑みを浮かべたコンスタンツェが、誇らしげに胸を張って、声高に告げる。

「さあ、地下に潜りますわよ、貴方たち! 宝杯が私たちを待っていますわ!」
「地下?」
「そう! 大修道院の更に奥深く! 宝杯が眠るという“封印の谷”へ!」

 無感動なベレトの瞳がゆっくりと瞬かれる。
 ハピが、胡乱な目をコンスタンツェに向けた。

「……コニーさ。アルフさんの話、聞いてた?」

 ほとんど口出ししていなかったエーデルガルトが、腰に手を当てながらコンスタンツェに詰め寄る。

「まさか、すべての責任を先生に負わせるつもりじゃないわよね?」
「そ、そういうわけではありませんけれど……」

 たじろぐコンスタンツェを見兼ねて、ベレトがエーデルガルトを制した。さすがのコンスタンツェも、次期皇帝にまで高慢な態度は取れないようだ。「いやあ、怖いですねー」と、リンハルトが小さく呟いている。
 まるで他人事である。はちら、とリンハルトを見る。

「あの方だって本当は、この問題を解決したいと思っているはず。私たちで“始原の宝杯”を探し出し、教団に寄贈してしまいますのよ!」
「なるほど……敵の狙いがその宝杯なら、もうアビスを襲う理由はなくなるはずですね」

 アッシュが納得したように頷き、ディミトリと顔を見合わせる。正義感の強い彼らは、アビスのために何かをしてあげたいのだろう。
 だって、できることなら力になりたい。けれど、そうするにはあまりに無力だ。

 うーん、と唸ったのはクロードだった。

「……よくわからんが、その宝杯ってのは伝承によると封印されてるんだろ?」

 クロードが片眉を跳ね上げながら、コンスタンツェを振り返る。「仮に見つかったとしても、封印が解けなきゃ持ち帰れないんじゃないか?」と、疑問を呈した。
 教室内がしん、と水を打ったように静まり返る。

 コンスタンツェが狼狽えるものの、結局は封印の谷に向かうことが決まった。

「おーっほっほっほっほ! 決まりですわね! 出発の刻ですわ!」

 コンスタンツェがふんぞり返って、高らかに宣言する。ベレトが乗り気であるのかは、表情からはよくわからない。
 ぎゅ、と緊張に拳を握ったの顔を、リンハルトが覗き込んだ。

「ねえ、今度は怪我したらすぐに言ってくれない?」

 責めるような口ぶりでも、怒ったような顔でもなかったが、は頷く他ない。もう痛みなどないというのに、の手は無意識に脇腹を押さえていた。

嘆きの坂道はまるい