アビスと呼ばれる場所は、いつ造られたかもわからない大修道院の地下に広がる通路であり、地上で暮らすことのできない訳あり者が集うという。教団はその存在を、ガルグ=マクの繁栄のために黙認してきた。
 けれど、教団内にはアビスを快く思わない者も存在しているようだ。地上とは干渉し合わない暗黙の取り決めが、ここ最近は破られている。頻繁に賊が襲ってくる状況の中、たちもその同類と思われたのは仕方のないことかもしれなかった。事情を聞けば、戦いを享楽だとしたような言動に憤っていたディミトリも、同情的になったようだ。

「先生……このまま放っておくなんて」

 弱い者が虐げられていると知って、アッシュが悲痛そうに顔を歪める。
 アッシュの脳裏には、自領の民の顔が浮かんでいるのかもしれない。ガスパール領で刃を交えたあの民は、戦う力を持たぬ者たちであり、本来なら守るべき者たちだった。

「…………」

 ベレトが皆の顔を見回す。元来、人助けを好む性質らしい彼は、逡巡するようでその心は既に決まっているのかもしれない。ベレトはよく落とし物の持ち主を探しているし、人の頼みを聞いて奔走している印象が強い。

「とりあえずは“客人”として、歓迎するぜ?」

 バルタザールが、馴れ馴れしくベレトの肩を抱いた。





 地下は、思っていた以上に広い。
 戦いから逃げてきた弱者、とバルタザールが言っていたが、老人も小さな子どももここで生活しているようだ。アビスという狭い世界は、地上のしがらみから開放されているのだろうか。


「ディミトリ王子殿下」

 は服の裾を摘んで、軽く会釈をする。ディミトリがほんのわずかに眉尻を下げた。

「巻き込んですまない、大ごとになってしまったな」
「いいえ。わたしは、わたしなどに力を貸して欲しいとおっしゃってくださったことが、嬉しかったのです」
「……そうか」

 が頷けば、ディミトリがほっとしたように笑んだ。そうして、ディミトリの視線が周りへと向けられる。もつられるように、ディミトリから視線を外した。

「なあ、ここは良い街だと思わないか?」

 はちら、とディミトリの横顔を見上げた。穏やかな笑みを浮かべ、その眼差しは柔らかい。

「地上で謂れなき迫害を受けている人々が、この街では、生き生きと暮らしているんだな……」

 ディミトリが何を思っているのかは、には知る由もない。
 身分に囚われることなく、生徒の一人としてありたいと言ったディミトリは、皆が平等な世を望んでいるのかもしれない。大義のために踏みにじられる命があってはいけない、とロナート卿ら反乱軍を制圧した後に、悔しげに拳を握ったディミトリの姿が脳裏に蘇る。

 はディミトリの問いに、すぐには答えられなかった。
 日の光の下では暮らすことのできない者たちにとって、確かにここは住みやすい場所ではあると思う。けれども、それが幸福だとはとてもじゃないがには思えなかった。
 きっと、太陽さえも見たことのない子どももいるのだろう。憐れと思うわけではない。そういう生き方しかできないのだということだって、承知している。地上は、にとっても生きづらい場所だ。

「良い街と言ってよいのか、わたしにはわかりかねます」

 ディミトリがを見つめる。責めるふうではない。「ただ」と、は俯いて、胸元で組んだ指先に視線を落とす。

「ここにいる方たちには、逃げる先があったのだと……そう思うのです」
「……、」
「わたしは──きっと、どこにも行けはしないでしょう」

 紋章を持って生まれても、両親には必要とされていない。大好きな姉にさえも「あなたの顔を見たくない」と言われる始末である。だとしても、家しか居場所はないのだ。どこかに逃げる勇気すらない。

「変なことを言ってしまいました。申し訳ございません、どうかお忘れください」

 丁寧に腰を折り、はその場を離れる。

 生きづらいのは何もばかりではない。ダスカー人であるドゥドゥーなど、ガルグ=マクにおいても心ない言葉を投げられたり、敵意を向けられている。それでも彼は、ディミトリの傍で背筋を伸ばし、胸を張っている。のように俯いてばかりではないのだ。

 いつもエリアーヌの影に隠れて生きてきた。そんな自分は、この暗い場所のほうが似合いなのかもしれない。

「ご令嬢」

 ふいに、の行く手を遮るように、バルタザールが現れた。傍らのヒルダが腰に手を当て、バルタザールを厳しく見据えている。

とお呼びください」
「それじゃあお言葉に甘えて、。あー……その、悪かったな」

 決まり悪そうに、バルタザールが頭を下げた。はぎょっとする。

「な、なぜ謝るのですか? 顔をあげてください」
「勝負とは言ったが、女に手ぇあげて知らんぷりってのもな」

 バルタザールがの腹部にそっと触れた。かと思えば、その手が腰に回って引き寄せられる。は身を強張らせながら、バルタザールを見上げた。

「ちょっと、バル兄! ちゃんに何する気!」

 ヒルダが慌てて、とバルタザールを引き離す。「何って、詫びを」と言いかけたバルタザールが、振り上げられたヒルダの拳を見て口を噤んだ。
 はヒルダを止めようと手を伸ばす。

「放っとけ。ちょっとは灸を据えられたほうがいいのさ」

 呆れ顔で近づいてきたユーリスが、の手を掴んだ。止める者がなく、ヒルダがバルタザールの肩口を突き飛ばすように殴りつけた。鈍い音が聞こえて、は身を竦ませた。

「あいつは相当な女好きだ。迂闊に近づかないほうがいいぜ、あんたは隙が多すぎる」
「ユーリスさん」

 確かめるように名を呼べば、ユーリスが口角をあげる。

「なあ、家の次女様よ」

 肩を抱いて、顔を覗き込んでくるユーリスの視線が、には恐ろしい。身を捩ってみても、見かけに反して男らしい力強さを持って、の動きを制してしまう。
 こつり、とユーリスのほっそりとした指が、眼鏡の鏡玉を叩いた。

 爪の先まで美しく整っているし、芳しい香りもする。藤色の瞳を縁取る睫毛が、驚くほどに長い。は口を開いたが、言葉はひとつも音にならなかった。




 ガルグ=マク大修道院において、を知る者などせいぜいフェリクスくらいである。そのフェリクスだって、領地が隣接しているから顔見知り、という程度の関わりしかない。
 まさか、こんなところで、の名を聞くことになるとは思いもしなかった。

「お会いしたことが、ありましたか」

 問いかける声音が硬い。は怖々と、ユーリスを俯きがちに見た。

「そう緊張しなくてもいいだろ? ほら、俺様が淹れてやったんだ。ありがたく飲むんだな」
「……いただきます」

 湯気の立つ紅茶を勧められ、は口をつける。味も香りもロクにわからない。
 頬杖をついたユーリスが、ニヤニヤと見つめてくる。どんな表情をしていても、美しい人は美しいようだ。

「あんたと会うのは初めてだ。俺が知ってるのは、エリアーヌのほうさ」

 思わず、手元が狂って、陶器のぶつかりにカチャリと音が鳴った。ユーリスがそれを咎めることはなかったが、は慌てて謝った。
 とん、と指先が卓を軽く叩いて、の意識を集中させる。

「エリアーヌ=サラ=伯爵の長女で、社交界の薔薇ともてはやされてたよなあ。まあ、あの顔ならそれも納得だ」

 そうだ。と違って、エリアーヌは貴族令息の注目の的となるほどに美しい。昔もいまも、これからだって自慢の姉に他ならない。は自慢の妹にも娘にも、なれやしなかった。

「あんたの姉さんは、綺麗な面の下に何を隠しているんだろうな?」
「……え?」

 は驚いて、ユーリスを呆然と見つめた。
 エリアーヌを悪く言う者など、未だかつて見たことがない。美しく、聡明で、気立てがよい。の知っているエリアーヌは非の打ちどころがないし、周囲の者は皆ちやほやしていた。それが当然なのだ。

 注目されて、好かれて、人の上に立ってしかるべき者である。はそう信じて、疑ったことなど一度もない。

「俺にも近づいてきたが、どうにも胡散臭くて堪らなかったぜ。婚約者がいるくせして、男を手玉に取ってやがったしな」

 ユーリスが話しているのが誰のことなのか、にはわからなくなる。
 紅茶に伸ばす手が震えていることに気づいて、は茶杯をぎゅうと握りしめるように手のひらで包んだ。

「家ではどうだった? あんたのそのウジウジした性格、姉さんに虐められ」
「やめてください」

 は咄嗟にユーリスの言葉を遮った。これ以上、聞いてはいられなかった。

「わたしは生まれたときから、凡愚で日陰者です。こんなわたしにも、姉はやさしく笑いかけてくれます。わたしは、姉が、大好きです。お願いですからどうか、姉を悪く言わないでください」

 の性格を形成したのは、姉ではない。姉と比べる周囲の人間だ。
 エリアーヌ自身は、を馬鹿にしたことなど一度もなければ、憐むこともなかった。エリアーヌだけが「はそのままでいいのよ」と、言ってくれた。


 だというのに。
 あなたの顔を見たくない──そう告げたエリアーヌの冷たい声が、蘇る。何度も何度も、その言葉が脳内で再生されて、反芻する。

「もう、やめてください」

 無駄だとわかっていながら、は耳を塞いだ。脳裏に浮かぶエリアーヌの顔は、やさしく微笑んでなどいなかった。

「いーや、やめないね」

 身を乗り出したユーリスが、の両手首を捉えた。は顔をあげることができずに、ぼやけた視界の中で揺れる琥珀色を見つめた。

「なあ、あんたはエリアーヌの影に隠れる必要なんて、ないだろうよ」

 ユーリスの手が、奪うように眼鏡を取り去る。そうして、ぐいと顎を掴んで顔を無理やり上げさせる。涙でぼやけていてもユーリスが自信たっぷりに笑みを浮かべているのがわかるし、瞬きのたびに瞼が薄紅に彩られていると知れる距離だ。

「十分、綺麗な顔してるぜ? ま、俺様には負けるけどな」

 左目にかかる前髪を払って、目尻に伸びた指先が、淵に溜まった涙を拭った。

 ──金色の瞳。
 右目は特徴のない鳶色をしているのに、左目だけが異彩である。その上弱視で、ほとんど見えはしない。生まれたその瞬間から、は異形で、忌むべき存在だった。
 眼鏡という隔たりなく、こうして視線を合わせるのは、いつぶりだろうか。
 寮で初めてディミトリと会ったとき、は眼鏡をかけ忘れていた。思えば、ディミトリもドゥドゥーも、この瞳を見ても何も言わなかった。

「無垢だよなあ。俺と違って、大事にされてきたことがよくわかる」

 大事にされてきた自覚はないし、記憶もない。は訝しげにユーリスを見つめる。

「少なくとも俺には、エリアーヌが無垢には見えなかった。身内だからと見たくない部分から目を背けてると、いつか痛い目に合うかもしれねえぞ」

 姉は、誰よりも何よりも、大事に大切にされてきた。はその様を、近くでずっと見てきた。心の美しさが外見に現れている、と言われるほど、気立てだってよかった。
 痛い目に合うなんて、姉がに対して敵意を向けるなんて、そんなことがあり得るのだろうか。

「……姉に限って、そんな心配は必要ありません」

 はゆるくかぶりを振る。
 けれども、エリアーヌがまっすぐを指差したとき、向けられていたのは明らかな嫌悪だった。

触れれど覗かれど、