アッシュの放った矢がごろつきを射抜く。
しかし、背後から迫るのは二人である。アッシュがもう一本の矢を手にした時には、すでに近くまで距離を詰められていた。アッシュが後退しながらも引き絞った弓矢は、ごろつきに当たることはなかった。
「アッシュさんっ」
は咄嗟に弓を構える。けれど、矢をつがえる手が震えて、うまく照準を定めることができなかった。
「そのまま引け!」
クロードの声がの躊躇いを一蹴した。ぶれた手はそのままに、は矢を放った。矢から指先が離れた瞬間に、は次の矢を構えていた。不思議と今度は先ほどより、手は震えていない。
武器を取るのが怖い。でも、それ以上に誰がか傷つけられることのほうが、ずっと恐ろしい。
アッシュに斧が振り下ろされる前に、足元に落ちたの矢がごろつきを足止めした。その隙には弓を射る。
矢がまっすぐ、ごろつきに向かって飛んでいく。
「チッ!」
ごろつきが斧で矢を弾き落とす。やはり、の弓術はアッシュやクロードに遠く及ばない。しかし、アッシュはすでにごろつきから十分に距離を取ることができている。
ふわ、と風がの髪を舞い上がらせた。ごろつきがウィンドの直撃を受け、地に沈んだ。
は弓を握り締めて、立ち尽くす。
「おめでとう。君の紋章が、彼を救ったんだよ」
リンハルトの言葉に、は己の手を見つめた。あの夜と同じ感覚で、身体が勝手に動いていた。
「紋章を知れば、恐れることもないんじゃないかな。その紋章は、生まれた時から君と共にあるんだからね」
「…………」
いくらが見ないふりをしようとも、家ぐるみで秘匿しようとも、紋章が消えてなくなることはない。は返すべき言葉が見つからず、唇を噛み締める。
リンハルトが小さく肩を竦め、踵を返した。は黙ったまま、弓をしまう。
「ありがとうございます。のおかげで助かりました」
わずかに眉尻を下げてアッシュが笑う。は首を横に振った。
「いいえ、お礼を言うのはわたしのほうです。アッシュさんが庇ってくださったから……」
はアッシュに向かって、丁寧に腰を折って礼を述べる。アッシュが照れ臭そうに頬を指で掻いた。
「、アッシュ。伏兵に気づかずすまない」
「地の利はあちらさんにあるからな。こう狭いと、まとまって戦うのも難しい」
ベレトの後ろをクロードが付いてくる。「ま、皇女と王子が蹴散らす勢いだから、そう心配もいらんだろ」と、クロードが指し示した先では、ディミトリとエーデルガルトが、競うように槍と斧を振るっている。傍らのヒルダは応援しているだけにも見えた。
「やるわね、ディミトリ」
「君こそ、さすがだな」
交戦の間に、二人の声が聞こえてくる。ベレトがやれやれ、というようにかぶりを振った。
「それより、なかなかいい筋してるじゃないか」
「……クロードさんの声がなかったら、きっと弓を引くことができませんでした。ありがとうございます」
アッシュにしたように、クロードにも頭を下げる。「おいおい、そんなに畏るなよ」と、クロードが慌てた様子での顔をあげさせた。翡翠の瞳が眼鏡の奥まで覗き込むように見つめてくるので、は目を伏せる。
ベレトが間に身を滑り込ませて、クロードの視線を遮る。は俯きがちに、ベレトの背を見やった。
「先生! こっちはあらかた片付いたが、どうする?」
通路の敵兵を一掃したディミトリが、エーデルガルトと共に待ち構えている。ヒルダが大きく手を振る姿を見ると、ここが戦場だとは思えない不思議な気分になってくる。
「クロード、をあまり揶揄わないでくれ」
ベレトの言葉は、吐き捨てるようにぞんざいな響きだった。ディミトリのほうへと駆けていくベレトの後ろ姿を、は驚きに目を丸くして見つめる。
「おっと、怒らせちまったかな?」
言葉とは裏腹に、悪びれるそぶりもなく、クロードが愉快げに瞳を細める。アッシュが呆れ顔で「クロード、顔と台詞が一致していませんよ」と、苦言を呈した。
アッシュが鍵を開けてしまえば、小部屋に逃げ込んでいた褐色の女は、袋小路である。ヒルダに追い込まれて「飽きてきた……ハピ、もう帰るね」と、さっさと戦線離脱してしまった。
「あたしよりやる気ないんじゃないー?」
ヒルダが苦笑しながら斧を肩に担ぐ。
それを横目に、クロードがペガサスに跨がるごろつきを撃墜していく。実に鮮やかな弓捌きである。は内心で二人ともに称賛の拍手を送った。
「さすがはゴネリル家の令嬢ね。多少のサボり癖には、目を瞑っても仕方がないくらいに」
エーデルガルトが意味ありげに、リンハルトを一瞥する。級長の、しかも自国の皇女殿下の視線を受けてなお、リンハルトは微塵も反応しない。
「……まったく、困ったものだわ」
呆れ果てたように呟くエーデルガルトに、漆黒のペガサスに乗る女が迫る。弓を構えたクロードとアッシュに対し、牽制するようにファイアーが放たれる。
「おーっほっほっほっほ! 貴方、貴族の出でしょう? 名乗りなさい!」
女が高笑いしながら、エーデルガルトを見下ろす。クロードとアッシュが何とも言えない表情をしながら、顔を見合わせた。
まさか、次期皇帝たるエーデルガルトに対し名乗れと、それも見下ろしながら言う者がいるとは驚きである。不敬を咎めることもなく、エーデルガルトは至って冷静だ。従者のヒューベルトがいたならば、女はただでは済まなかっただろう。
「構わないけれど……エーデルガルトよ、姓はわかるわよね?」
「あら、帝国の皇女殿下と同じ名前ですのね! 良い名ですけれど、少し不遜ではなくて!?」
「まあ、皇女本人がこんなところにいるとは思わないよなぁ」と、クロードが呟く。エーデルガルトが小さくため息を吐き、斧を構えた。
一撃で倒れた女をエーデルガルトが長い髪を払いながら、見下ろす。
「身の程がわかったかしら?」
「い、今のは私が勝手に滑って転びそうになったのですわ! 負けてなど……!」
喚く女などもはや目に入らぬと言うように、エーデルガルトが背を向けた。
いつの間にか傍に来ていたヒルダがこそっとに耳打ちする。
「さっきのクロードくんの冗談じゃないけど、他の学級じゃなくてよかったよー」
「ヒルダさん……」
「だって、エーデルカルトちゃんもディミトリくんも、肩凝りそうだし」
そう言って、ヒルダが小さく笑う。けれど、どこにも居場所がないと感じると違って、ヒルダならばどこの学級でもうまく馴染めるだろう。
「さてと! もう一息、頑張りますか!」
ぐっ、とヒルダが両腕を伸ばす。振り向いた先で、ベレトが力強く頷いた。
「だらしねえなあ、お前ら」
地に伏した仲間に呆れた顔を向けながら、剣を手にした男がゆったりとした足取りで近づいてくる。ディミトリの鋭い視線にも怯むことはないし、余裕たっぷりに浮かべられた笑みは、ともすれば見惚れるほどに美しい。
「それ以上近づけると思うな、よっ」
「おっと」
クロードの射撃を軽やかな動きで躱した男が「んー」と首を傾げる。アッシュの狙いが男に定められているが、焦る様子はない。
ベレトが警戒心を強めるように、目を細めた。
「あっ、お前、あれか。ロナート卿の養子になったっていう……」
「僕も……君の顔には覚えがあります。確か、ローベ伯の養子だったはずじゃ……?」
アッシュが訝しげに男を見つめる。
ローベ伯のことなら、も知っている。王国南部の貴族であり、“灰色の獅子“と名高い有能な騎士を抱えるアリアンロッドの領主だ。その養子となれば、それなりの暮らしをしていたはずだ。
「そんな人がどうしてこんなところに? 何か事情があるなら、僕も力に……」
アッシュが弓を下ろしかける。やはり、アッシュのやさしさは、誰にだって向けられるものだ。
男が「冗談、あんな家に戻る気なんてねえよ」と、鼻で笑い飛ばす。
「それより……よそ見してたら死んじまうぜ?」
ぞく、と背筋に悪寒が走る。くるりと男の手の中で、剣が曲芸のように回る。
その殺意はに向けられたものではなかった。けれど、握りしめた手のひらには汗が滲んで、足が竦んだ。
「悪いが、大事な生徒を死なせるわけにはいかない」
天帝の剣が、蛇腹状に伸びて男に向かう。男の瞳が輝いたように見えた。
「あっはは! そう来なくちゃな、お互い楽しもうぜ? アビスに足を踏み入れたのも何かの縁、ってことさ」
ベレトの一撃を剣で受け流し、男が愉快げに笑う。
「楽しむ、か……」
ディミトリが、不快そうに眉をひそめた。
槍を握り直すと、ディミトリが前に進み出る。その背には怒りが滲み出ていて、槍を握る手には相当力が込められているようだった。
「俺は、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダット。お相手願う」
「ブレーダット? ははーん、なるほど。級長自らお出ましってわけだ、今年の級長たちは錚々たる顔ぶれだよなあ」
ディミトリの名を聞いてなお、男は楽しげである。「ちょいと分は悪いが仕方ねえよな」と、口角をあげたまま、男が剣先をディミトリに向けた。
槍を振り、刃先の血を払い落としたディミトリが、「先生、勝負ありだ」とベレトに歩み寄った。リンハルトが「血は苦手だ……」と、青ざめた顔で呟く。
「ったく、俺様の顔に傷がついたらどうしてくれるんだ?」
男がぶつぶつ言いながら、大柄な男に杖を掲げてもらっている。
「へー、意外。杖が使えるようには見えないけど」
「ほっとけ」
ヒルダにつっけんどんに返した男が、腕組みしながら振り返る。苦笑したクロードが、仰ぎ見るように男を見た。
「俺たちの勝ちってことでいいか? えーと……バルト、だったか」
「バルタザールだ。結果にケチつけるほど、 おれは落ちぶれちゃいねえよ」
「ん?」と、ヒルダが首を捻る。
「バルタザール……、バルタザール…… バル……ああああああ! バル兄!? アダルブレヒト家の……!」
ヒルダが男を指差し、男もまた「……ヒルダか! ホルストの妹の!!」と叫びながらヒルダを指差した。
ヒルダとバルタザールの関係性が明らかになったことで、互いに抱いていた不信感や警戒心が和らぐ。身体の強張りがなくなったせいか、ずきりと痛んだ腹部をは思わず押さえる。
バルタザールの拳は、ほんのわずかに掠めただけ──大したことはないのだとは己に言い聞かせるが、バルタザールの見るからに危険そうな籠手が嫌でも目に入る。腹部の痛みだって、決して気のせいではない。
ふいに、肩を掴まれる。は顔をあげたことで、無意識のうちに俯いていたことに気づいた。
言葉はなかったが、顔を覗き込むベレトの瞳は、どこか心配そうに窺うようだった。その視線が顔から身体に移り、はぎくりとする。が口を開くより早く「リンハルト、回復を頼む」と、ベレトが告げた。
「ああ、はい。わかりました」
リンハルトが杖を手に近づいてきて、のすぐ傍でため息を吐く。
「あのさ、怪我はないかって聞いたよね?」
「申し訳ありません。この程度、あなたの手を煩わせるほどでは」
リンハルトが不快そうに眉をひそめ、無遠慮に服をたくし上げた。思いもよらぬ行動に、の口からは声にならない悲鳴が漏れる。
「ちょっと、何これー! 女の子を殴るなんて、バル兄最低ー」
「い、いや、勝負は勝負だろ? それに、互いを知るには拳で殴り合うのが一番……」
ヒルダに非難の目を向けられたバルタザールが、しどろもどろに周囲を見るが同意する者は誰一人いなかった。「それはない」とベレトが首を横に振る。
の腹部は青痣となって変色していた。まともに一撃を受けていたら、と思うとぞっとする。リンハルトが杖を掲げると、すっかり元どおりである。痛みがすうっと引いていく。
リンハルトの手が、臍のくぼみをなぞるようにして、腹部を撫でる。傷跡を確かめるようにはとても見えない。
「はい、おしまい」
「ありがとうございます。で、でも……触る必要はないです、よね?」
「うん。僕が触ってみたかっただけだよ」
さらりと言われ、は閉口する。リンハルトには何を言っても無駄なのだ。
ぐい、と唐突に腕を引かれて、はよろめく。リンハルトの手が離れる代わりに、誰かの手がさっと服を正してくれる。目の前にあるのが、見知った制服ではないと気づいて、は緊張しながら顔をあげて手の主を確認する。
「あんたも災難だなあ」
そう皮肉げに口角を上げるのは、ユーリスだ。
ローベ伯の養子だったということは、貴族に気に入られるだけの才があったのだろう。麗しい見目も、そのひとつなのかもしれない。
服を正してくれた礼を言うつもりが、ひどく近い位置に藤色の瞳があって、の口は思うように動いてくれなかった。