焼き立てでふわふわしていたブルゼンは、すでに冷め切って硬い。はそれを冷たい紅茶で流し込むようにして完食する。早く自室に戻って、一人になりたい。
 が立ち上がるのと同時に、リンハルトも席を立った。先に食べ終わり、を待ってくれていたのだから当然といえば当然なのだが、うんざりした気持ちになる。これ以上、口を利くつもりはなかった。

 唇を結んだまま盆に伸ばした手を、ヒルダに掴まれる。驚くに構わず、ヒルダがにこりと笑いかけた。小首を傾げる仕草が愛らしいが、腕を掴む力は存外強く、ちょっとやそっとでは振り払えそうにない。

「一緒に寮まで戻ろー?」
「……でも、」

 嫌だ、という思いが顔に出てしまったのだろう。ヒルダの笑みが苦笑に変わる。
 はヒルダに向けた視線を一度手元に落としてから、向かいのリンハルトに移した。「ヒルダ、そのままでお願い」と、止める間もなくリンハルトがの分まで持って行ってしまう。

「そのまま、って……」

 アッシュが呆然としたように呟く。掴まれたままの腕を見つめれば、ヒルダが一度手を離した。そうして、今度はの手を握り直す。
 欠伸をこぼしながら戻ってきたリンハルトが、繋がった手を見て「じゃあ行こうか」と言った。頷いて、アッシュが立ち上がる。ヒルダが嬉しそうに目を細めて笑い、の手を引いた。


 いつもより遅い時間の夕餉だったため、辺りはすっかり暗くなっていた。夜のガルグ=マクはどことなく怪しげな雰囲気で、アッシュが「暗いですね」と、不安げにこぼす。もつられるように、不安に辺りを見やった。

「あーあ、もうこんな時間! ホント、クロードくんってばひどいんだから」
「だからそれは、ヒルダの自業自得でしょ」

 リンハルトの言葉に聞こえないふりをしたヒルダが、アッシュを振り返った。

「アッシュくんって、やさしいよねー」
「え? そ、そんなことは」
「それとももしかして、ちゃんにだけ?」
「……揶揄うのはやめてください。そんなことばかり言っているから、を困らせるんじゃないですか」

 珍しく、アッシュの声には刺があった。アッシュの非難めいた視線を受け、ヒルダが「はーい」とつまらなそうに唇を尖らせる。そこに反省の意は見られない。
 は俯きがちにアッシュを見る。思いがけず目が合って動揺するが、眼鏡のおかげか俯いていたせいか、アッシュがの視線に気づいた様子はない。は内心で胸を撫で下ろしながら、瞳を伏せた。

 アッシュはやさしく、正義感があって、騎士に憧れている。
 彼は、前節の課題で最も敬愛するロナート卿を亡くした。聖教会にロナート卿が反乱を起こしたが故に、青獅子の学級は鎮圧に当たることになったのだ。以来、沈みがちだったアッシュが笑みを見せるようになったのは、つい最近のことだ。まだ無理をしているのかもしれないが、親しくもないには判断しようがない。

、暗いので足元に気をつけてくださいね」

 暗がりの中でも、アッシュがやさしく微笑んだのがわかった。
 にだけやさしいわけがない。同じ青獅子の学級の生徒だから、やさしくするわけでもない。アッシュは困っている人がいたら声をかけるのだろう。

 ふいにヒルダが足を止め、目を細めて前方を見やる。

「あっれれー? 先生……と、級長さん勢揃い?」

 も、ベレトと級長たちの姿を認める。表情からして、楽しく立ち話というようには見えなかった。
 なんだか嫌な予感がする。そう思ったのはヒルダも同様だったらしく、互いに顔を見合わせて、神妙に頷き合う。とヒルダは手を繋いだまま、そうっと後退し始める。

「こっそり後退したって駄目だぜ、ヒルダ? ちょっと手を貸してくれ」

 ふいに声をかけれて、の肩がびくりと跳ねる。しかし、ヒルダはそうなることを予想してたかのように「クロードくんにこう言われちゃうとねー……」と、苦笑いをこぼした。傍らでは、同じように逃げようとしていたリンハルトが、エーデルガルトに捕まっている。


「アッシュ、も頼む。事情は道中、説明させてほしい」

 ディミトリの青い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
 元より、王子殿下であるディミトリの頼みを断れるはずもない。とはいえ、気乗りはせず、は顔を曇らせながら頷いた。対して、アッシュは快く頷いている。
 邪魔になるばかりなのでは、と不安が過ぎる。ヒルダがぎゅっと手を握って「先生もいるんだから大丈夫だと思うよ」と、片目をぱちりと瞑ってみせる。はヒルダの手を握り返した。

「では、この八人で抜け穴に入ろう。構わないな、先生」

 ディミトリに問われ、ベレトが頷いた。抜け穴──中の様子は伺うことができない。はますます不安を募らせる。
 そんなの不安をよそに、クロードが楽しげに呟く。

「ま、賑やかなのも悪くない、か」

 「さて、どうなるやら」と続く言葉には、期待しか滲んでいなかった。





 ガルグ=マク大修道院の歴史は長い。
 隠し通路や隠し部屋があったとしても、何ら不思議なことではないのだ。薄暗い道は、どんどん地下へと潜っていくようだった。

 リンハルトが壁に手を這わし、眠たげだった瞳を興味深げに瞬かせている。もまた、壁に視線を向けて怪訝に眉をひそめた。
 この通路はどこへ続いているのだろうか。知りたいという気持ちは、には微塵も湧いてこない。ディミトリの頼みであったとしても断るべきだったのではないか、とさえ思う。

 は先頭を歩くベレトの背を見つめる。少しも物怖じなどしていない足取りで進んでいる。
 
「ところでヒルダ、手を繋ぐほど仲がいい、こちらのお嬢さんは紹介してくれないのか?」

 ふいに、前を歩くクロードが振り向いた。びくっと揺れた肩を誤魔化せるわけもなかったが、クロードはそれを咎めるでも揶揄うでもなく、愉快げに翡翠色の瞳を細めるだけだ。
 はヒルダの背に身を寄せて、その視線から逃れた。

「えー、どうしようかなー? クロードくんが、もうちょっと誠実だったらよかったんだけどな」
「誠実ねえ……もしも俺がディミトリみたいだったら、ヒルダのサボりを少しも見逃さないだろうな」
「うえっ!? そ、それは困るなー。クロード君が級長でよかったあ」

 わざとらしくほっと胸を撫で下ろすヒルダを横目に、クロードがひょいと顔を覗き込んでくる。「」と、親しげに名を呼ばれて、は困惑する。
 まだは名乗っていないし、ヒルダも紹介していない。ディミトリに名を呼ばれているため名を知られていても可笑しくはないが、クロードにこんなふうに呼びかけられる謂れはない。

 空いている手をぎゅっと握られ、は反射的に身を強張らせた。少しかさついた指先と硬い手のひらの感触が伝わる。

「知ってるとは思うが、俺はクロード=フォン=リーガン。級長とはいえ学級も違う、ディミトリにするように畏まらなくていいぜ」
「あ、あの……わたしは、=セレネ=と申します」

 戸惑いながら、は答える。離してほしい、と伝えるためにも手を動かしてみるも、ますます握る力が強まった。ぐいっと手を引かれて、は思わずよろめく。
 クロードの瞳が、の眼鏡の奥を見透かすように見つめてくる。

「よろしくな。ヒルダのおねだりには応じるなよ? きりがない」
「ちょっとクロードくん、ちゃんに変なこと言わないでよ。それから、お触り禁止!」

 頬を膨らませたヒルダが、クロードの手の甲を軽く叩いた。「はいはい」とクロードが肩を竦める。はクロードに握られていた手を、胸に引き寄せた。

「視力が悪いのか? 特に、」

 伽羅色の人差し指が、の左目を指した。「左」と、告げるクロードの声には確信があった。ヒルダが素早くクロードの手を叩き落とした。

「クロードくん、指差さない。失礼すぎー」
「おっと、気を悪くさせたか? そりゃ悪い。眼鏡をかけてるのが珍しくて、ついつい観察しちまうのさ」

 悪びれる様子もなく、クロードが笑う。彷徨わせた視線の先で、ベレトが振り向いたような気がした。
 それにしても、とエーデルガルトが足を止めて呟きを落とす。

「ここは……ただの通路ではなさそうね。人の痕跡も多いし、住居のようにも見えるわ」

 狭く、入り組んだ道を抜けて、開けた場所に出たようだった。
 エーデルガルトと同じように足を止めて、それぞれが周囲を見回す。壁には明かりが灯っていて、内部の様子も皆の顔もよく見える。は不安げに辺りを見てから、足元に視線を落とした。
 ヒルダが「あっ」と、声をあげた。

「ガルグ=マクの地下……そういえば昔、兄さんから聞いたことがあったっけ」

 ヒルダに兄がいるということを、は初めて知った。はヒルダのことをよく知らない。否、ヒルダだけでなく、ここにいる皆のことをほとんど知らないのだ。
 は俯かせていた顔をあげて、隣を歩くヒルダを見やる。

「ん? ああ、ホルストさんも士官学校の卒業生だったか」
「うん。兄さんが生徒だった頃に、ガルグ=マクの地下にまつわる噂があってね。町の地下には無数の通路や区画が広がっていて、後ろ暗い人たちが住んでるって。その名も……」

 何だっけ、とヒルダが髪を揺らして、首を捻った。皆がヒルダに注視している。
 数拍の間を開けてから、ヒルダが口を開く。

「“アビス”?」
「その通り! ここはガルグ=マクの地の底“アビス”だ!」

 突然、湧いて出たかのように現れた人影に、たちに緊張が走った。クロードが素早く、とヒルダを背に庇う。

「誰だ……!」

 ディミトリが鋭く問いかける。武器こそ手にしていないが、いつでも動けるように身構えている。
 現れたのは大柄の男──士官学校の制服とよく似た格好をしている。ただ、似ているだけでは同じではない。男が「ようこそ、士官学校の生徒さんよ!」と、怒鳴り声とも取れる大きな声を辺りに響かせる。は恐怖に身を竦ませた。

「華々しい方々が、こんな場所に何の用だ?」

 男の視線は好戦的だ。
 震えるに気づいてか「、大丈夫ですよ」と、アッシュが安心させるように笑んだ。けれど、アッシュの額には冷や汗が滲んでいる。

 クロードが人好きのする笑みを浮かべて、前に進み出る。ベレトが注意深くその様子を見守りながら、周囲に視線を走らせる。

「いや、俺たちは大修道院をうろついていた怪しい人影を追ってきただけでね」
「貴方たちに用はないわ。そこを通してもらえないかしら?」

 ベレトが頷いたその刹那だった。

「おーっほっほっほっほっほっほ!」

 高飛車を思わせる特徴的な笑い声がこだまする。新たに現れた女もまた、制服に似た服を身に纏っていた。

 ヒルダがこっそりとの耳に唇を寄せて「なーんか雲行き怪しくない?」と、小さく囁いた。
 彼らは、ヒルダの言う地下に住まう後ろ暗い人たち、なのだろうか。
 は緊張した面持ちで成り行きを見守るが、無意識のうちに後ずさった。

「この期に及んで帰るだなんて、そう寂しいこと言ってくれるなよ。なあ?」

 更に二人が現れ、さすがにベレトも警戒したように眉をひそめている。
 声や背格好から男だとわかるが、女性顔負けの綺麗な顔立ちにニヤリと挑発的な笑みが浮かぶのがわかった。褐色の肌を晒すもう一人の女は、興味なさげに佇んでいる。

「ここの連中はみんな娯楽に飢えててね。戦争ごっこがしたくて堪らねえのさ」
「ほほう……鮮やかな迎撃の手並み、やっぱりただのごろつきじゃなさそうだ」

 感心したように呟き、クロードが興味深げに視線を四人へと走らせる。「おい、クロード。感心している場合か」と、ディミトリがやや険のある声音で告げた。エーデルガルトもまた、呆れたようにため息を吐いて、長い髪を手の甲で払い除ける。
 静観していたベレトが「クロード、自分が話を──」と口を開いたときだった。

「待て……クロード? リーガン公爵家の、新しい嫡子か?」

 ぴり、と途端に殺伐とした雰囲気に変わる。「はあ、嫌な空気だ」とリンハルトがうんざりとした様子で呟いた。

懺悔なら心音のするうちに