目の前の椅子を引く手が見えて、が顔をあげたときには、我が物顔で席に着くリンハルトがいた。「よ! あんた、リンハルトの友達か?」と、音を立てながらその隣に腰を下ろすのは見慣れない男子生徒だ。
は首を横に振って友達であることを否定して、困惑した視線をリンハルトに向けた。
「ああ、二人は初対面か。僕の幼なじみのカスパル。こっちは青獅子の学級の」
「おう、よろしくな!」
「それにしてもカスパル……もう少し静かに座りなよ。騒がしいな」
「ん? 細かいことは気にすんなって」
そう言って呵呵と笑うと、リンハルトの背中を叩く。痛そうな音が聞こえた。
課題に手間取っていつもの時間より遅くなった食堂内は、混んでいるわけではない。わざわざの前に座る必要などないはずだ。場所を移動しようとしたに気づいて、リンハルトがため息を吐く。
「いいでしょ、食事くらい付き合ってよ。最近の君、すぐ逃げるからさ」
リンハルトの言うとおり、は彼とほとんど口を利いていない。逡巡して、は浮かせかけた腰を落ち着けた。顔を見た途端に逃げてばかりで、あまりに失礼な真似をしていると思ったからだ。
リンハルトが頬杖をついて「って損な性格してるよね」と、小さく笑う。
は聞こえなかったふりをして、卓上のブルゼンに手を伸ばす。リンハルトの視線が気になって食べづらいが、早く食事を終えてしまいたい気持ちが強い。
「それだけで足りるのか? 細い腕して、すぐに折れちまいそうだ」
「……いえ、あの、ふつうだと思います」
カスパルの皿には、の倍以上ある料理が盛られている。それほど大柄ではないようだが、食べ切れるのだろうか。
「訓練の後の飯はうまいぜ!」
「カスパル、料理は飲み物じゃないんだよ……」
リンハルトがうんざりした様子で呟く。そんな言葉を無視して、カスパルが皿を持ち上げて一気にかき込むと、山盛りの食事がまさに流れるように消えていく。
あっという間に空になった皿を、はブルゼンを手にしたまま呆然と見つめた。
最後に水を一気飲みして「あー、食った食った」と、カスパルが満足そうに口元を甲で拭う。
「ん? お前ら全然食ってねーじゃん。オレ、先に戻ってるな!」
颯爽と去っていくカスパルの後ろ姿は小柄で、あれだけの食事量があれほどの時間で消えたことが、見ていたはずなのに信じがたい。
「冷めるから食べなよ」
リンハルトに促され、は慌てて手を動かす。
ファーガスは広い土地を有しているが寒冷な気候で、肥沃とは言い難い。学級内の誰かも言っていたように、ファーガス料理は有り体に言っておいしくない。だが、ブルゼンはガルグ=マクでもよく食べられているようだった。ファーガス伝統の菓子パンで、王国出身には幼い頃から慣れ親しまれる味だ。
食事と言うよりは間食に近いかもしれないが、の腹を満たすには十分だ。特に、今日のように遅い時間の夕餉になった日にはちょうどいい。
「昼寝してたらこんな時間になっちゃってね」
リンハルトが欠伸をしながら言った。昼寝というには遅すぎる気がするが、は何も言わずに食べ進める。
「甘いもの好きだよね。やっぱり、紋章を持っているからかな?」
に話かけている、というよりは、考えていることを口に出しているだけのようだった。
「そういえば、聖廟で戦ったんだよね? 聖遺物を傷つけてたら、とんでもないことだよ」
リンハルトを見ないようにしながら、はブルゼンを小さくちぎって口に運ぶ。冷めかけの紅茶を飲んで、は小さく息を吐く。ブルゼンの味も、紅茶の香りも、何だかよくわからない。
「たまに食事を忘れたりするよね。寝てたり、研究してたら仕方ないと思うんだけどな」
時おり、食堂内のさざめきに混じって、リンハルトの声が聞こえる。カスパルと違って、食器のぶつかり合う音は、一切ない。
アドラステア帝国の貴族子息なのだと、よくわかる。
ふと、視線をあげると、リンハルトがを見つめていた。いつの間にかリンハルトの食事は終わっていたらしい。の皿には、まだブルゼンが一つ残っている。
リンハルトが席を立つ気配はない。
「ゆっくり食べなよ。僕は君を観察してるから」
「……やめていただけますか」
「え? 嫌だよ」
リンハルトがあまりにあっけらかんと告げるので、は困惑する。
「何故、わたしなんかにそこまで構うんですか?」
「単純に興味があるからだよ。前にも言ったけど、貴族と紋章は切ってもきれない関係にある。それなのに、君は自分の宿す紋章について知らなすぎる。これはとても可笑しなことなんだ」
は視線を落とす。「事情がありますから」と、何とか絞り出した声は震えていた。は声量を落として、続ける。
「……わたしには、姉がいます」
「うん?」
「姉に紋章はありませんが、家を継ぐのはわたしではありません」
「……だから、知られたくない?」
ふーん、と呟くリンハルトの声はほとんど抑揚がなかった。
「両親はわたしには何も期待していません。姉とわたしは月とスッポンのようなもの。紋章や血統を尊ぶファーガスにおいても、次期当主にわたしは相応しくないのです」
は唇を結んでも、伏せた瞳をあげることができなかった。
にとって、他人の視線はいつだって恐ろしい。好奇の眼差し、蔑みと憐みの目、姉と比べられては不出来な妹だと嘲笑される。
事情を話したのだから、興味を失ってリンハルトが立ち去ってくれることを願う。けれど、リンハルトが動く様子はない。
「君のお姉さんはそんなに優れているの?」
思わず、顔をあげる。
リンハルトの瞳が不思議そうにを見つめていた。は、さっと目を伏せる。
姉のエリアーヌは、赤子の頃から玉のように可愛らしかったという。成長した姿は家族の贔屓目なしに美しく、社交界の薔薇と讃えられて貴族子息の注目の的である。とは対照的に何をやっても非凡で、けれどには一等やさしく接してくれる。
姉が笑えば場が華やぐ。姉が泣けば、一大事とばかりに周囲が慌てる。厨房に立つことはないが、姉が淹れる紅茶が家の誰が淹れるよりもおいしかった。
そして何より、紋章を持たぬことへの恨みつらみは吐かず、紋章を持つ妹を責めることもない。
──あなたの顔を見たくない。
ふ、とエリアーヌの言葉が頭を過ぎる。開いた口からは、ただ吐息だけが漏れた。ぎゅうと喉の奥が締めつけられたような心地がする。姉の優れたところなどいくらでも思いつくのに、どれも言葉にできないのは何故だろう。
「? どうし……」
リンハルトが身を乗り出して、顔を覗き込んでくる。は、と息を呑んだのはどちらだったのだろう。俯いていたせいで、落ちた涙が眼鏡に当たって弾けた。
「ごめんなさい、何でもありません」
は慌てて手巾で涙を拭う。
ずっと考えないようにしてきた。姉が何故あんなことを言ったのか、本当は前からそう思っていたのか、自分は姉に嫌われてしまったのか。
「……姉は、」
「いいよ、言わなくても。別に君のお姉さんに興味があるわけじゃないから」
リンハルトがふう、とため息にも似た息を吐いて、座り直した。あまりに新鮮な反応だった。いつもは姉のおまけに過ぎなかった。
「でも、期待していない娘を、わざわざ士官学校に入れるかな。それだけのお金を君にかけていると言う意味でもある」
首を捻るリンハルトが、のんびりとした口調で続ける。
「それに、僕は君が言うほど劣っているとは思わないよ。君は真面目で勤勉だ。僕からしたら、信じられないくらいにね」
ふあ、とリンハルトが人目を憚らずに欠伸をする。は目元に手巾を押し当てながら、くすりと小さく笑みをこぼした。
「それは、あなたの怠惰が過ぎるだけだと思います」
「君、」
「あっ、またやってるー」
何かを言いかけたリンハルトを、明るい声が遮った。
桃色の髪を揺らして、の隣に座ったのは金鹿の学級のヒルダだ。もちろん、との面識はほとんどない。
こうして割り込んできたのは、初めてのことではない。
とリンハルト、という学級も違い接点もなさそうな組み合わせを珍しがって、ちょっかいをかけてくるようになったのだ。「いいなあ、甘酸っぱい学校生活、あたしも憧れるー」と、リンハルトとの関係やら何やら、いわゆる恋話というものを展開されたことは記憶に新しく、は内心で辟易する。
リンハルトが少しも隠さずに顔を歪めて、深いため息を吐いた。けれど、それをヒルダが意に介すことはない。両肘をついて花のように開いた手のひらにちょこんと顎を乗せ、ヒルダが楽しそうな瞳をに向ける。
「ねぇ聞いてよちゃんー。係の仕事をサボってたのがバレて、こんな時間までクロードくんにこき使われちゃったー。疲れたから、こんな時間だけど甘いもの食べちゃう」
クロードくん、と自分の学級の級長を随分と気安く呼ぶのだと、は初め驚いたものだ。金鹿の学級の級長と言えば、レスター諸侯同盟たるリーガン公爵家の嫡男──つまり、次期盟主である。にとってのディミトリ、リンハルトにとってのエーデルガルトとそう変わらない立場のはずだ。
はいまだに、ディミトリを王子殿下としか呼ぶことができない。ディミトリくん、とが呼ぶ日は一生来ないだろう。
ヒルダは華やかで、男女問わず人気者だ。級長とも仲がよく、二人が揃っているところを時おり見かける。学級の垣根を越えて話題になるし、男子生徒にはあの歌姫たるドロテアと並んで好かれている。
とは縁のない人だと思っていた。否、今もそう思っている。
「それはヒルダが悪いんじゃない」
「えー? リンハルトくんって、綺麗な顔して結構辛辣だよねー」
そう言いつつも、ヒルダが気にするそぶりは大してない。一瞬だけむくれた顔をしたが、次の瞬間には桃の氷菓に頬を緩ませている。
早く食べ終えて退席しようと、は止まっていた手を動かす。
「リンハルトくんってば、ちゃんのこと泣かせちゃったの? 無理強いはいけないんだー」
「ち、違います。リンハルトさんは何も」
「えー、本当に? 嫌なら嫌って言ってもいいと思うよー?」
「じゃあ言うけど、君って邪魔しかしないよね」
リンハルトの言葉に、ヒルダが小さく肩を竦めた。はちら、と正面に座るリンハルトを伺う。不機嫌そうな顔でヒルダを見る瞳には、先ほどの欠伸の名残で涙が滲んでいる。
そう言えば、とリンハルトがに視線を向けるので、慌てて顔を伏せる。
「聖インデッハは、人付き合いが苦手だったんだってね。君もそうみたいだ」
まあ僕も人のこと言えないけど、とリンハルトが呟く。は唇を噛み締める。
「リンハルトさん」
は一度ブルゼンを置いて、俯きがちにリンハルトを見つめた。ぱちり、と大きな瞳が不思議そうに瞬かれたかと思えば、柔らかく細められる。
「へぇ……君からそんなふうに呼びかけられる日が来るとは、思っていなかったな」
嬉しそう言われたせいで、は出鼻を挫かれる。ヒルダがにやにやと見つめてくるのがわかって、は隣を見れなかった。
これ以上話すことはないので付き纏わないでくれ、とはっきり言うつもりだったのに、は思わず口ごもる。リンハルトにじっと見つめ返され、はますますうまく言葉を紡げなくなる。
「と、とにかく……わたしにはもう、お話できることなんてありません」
「そうだね、君の事情はわかったよ。だけど、君への興味が失せたわけじゃない」
逆にはっきりと言い切られて、は困り果てる。隣ではヒルダが「きゃー」とわざとらしく声をあげている。
「で、でも……」
は何と言うべきかわからずに、口を結ぶ。わからないのだ。リンハルトが何故こんなにも自分に興味を抱くのか。と紋章の関係はすでに話した。
皿に置かれた食べかけのブルゼンが、空気に触れて乾いていく。紅茶はすでに冷たい。
「二人とも、が困っているじゃないですか」
カタン、とリンハルトの隣の席が引かれて、やや呆れた顔をしたアッシュが腰を下ろした。己を助けようと声をかけてくれたのだとわかっても、はすぐに顔をあげることができなかった。