どうぞ、と差し出した紅茶を、無感動な瞳が見つめている。こんなふうに人に茶を振る舞うのはいつぶりだろう。曲がりなりにも貴族令嬢であり、礼儀作法は一通り学んできたとはいえ、実際に人前で何かをする機会などにはなかった。
 ベレトに食い入るように見つめられると、どこか可笑しいところがあるのではないかと不安になる。は俯きながら、ベレトの一挙一動に注目した。
 しかし、紅茶を口にしたベレトは「おいしい」と、眉一つ動かさずに告げただけだった。

 拍子抜けして、思わずはベレトの顔を正面から捉えた。ベレトが瞬きを繰り返して、首を傾げる。

「あ……お口に合ったのなら、幸いです」
「すまない。もう少し、砕けた口調で話してもらえるとありがたい。慣れないせいか、肩が凝りそうだ」

 目上の者を敬うのは当然だが、あまりに堅苦しい口調では不快を与えてしまうのだろうか。には気の置けない友人はいない。士官学校に来るまで家族以外と口を利く機会など、ほとんどなかった。

 砕けた口調と言われても、どう話していいのかよくわからなかった。
 けれど、よくよく思い返してみれば、ベレトに対してもディミトリに対しても、生徒の中でほど畏った話し方をする者はいない。ドゥドゥーがディミトリに対するものは、従者なのだから当然と言っていい。
 また一つ、は自身のふつうではないところを、突きつけられる。

「努力します」

 の返事に、ベレトが満足そうに頷いた。そうして、話の続きを促すように、唇を結んでじっとを見つめる。
 視線を琥珀色の水面に落として、は小さく息を吐いた。膝の上で組んだ指先が、緊張でひどく冷たい。これまでが己の紋章について口にしたことはない。家族は、紋章の話にはひどく敏感で繊細だった。

「わたしは、インデッハの大紋章を持っています」
「紋章、」

 呟いたベレトが、ほんのわずかに眉をひそめた。

「資料には書いていなかったように思う」
「知られてはいけない、と両親には口を酸っぱくして言われてきました。ガルグ=マクにも内密に、とされているのかも知れません。ベレト先生はご存知ないかもしれませんが、王国内で紋章を持っているということは、とても大きな意味があるのです」
「……なるほど」
「わたしには姉がいます。姉は、わたしなんかと違って優秀で……家を継ぐのは、姉しかあり得ません。だからこそ、紋章を持つの妹がいるなんて知れてはいけないのです」

 なるほど、という相槌はなかった。は落としていた視線をあげて、ベレトの様子を伺った。眉尻が少しばかり下がっている。
 変わらずに、ベレトの瞳は痛いほど真っ直ぐにを真正面に捉えている。
 そこに同情や憐みといった類の感情が込められているようには、思えなかった。そういう視線には慣れているので、にはすぐにわかる。同時に、哀れんだふりをした嘲りや侮蔑にも、は敏感だ。

「士官学校でも紋章については、誰にも知られたくはありません。でも、ベレト先生と王子殿下がお会いしたあの日……わたしは、紋章を発動させてしまった」

 の冷えた指先が震えている。
 気持ちを落ち着かせようと、茶杯の持ち手に指をかけるが、震えてうまく持ち上がってくれなかった。

、ゆっくり深呼吸して」

 ベレトの声は、静かで平坦だ。それがにはありがたかった。平素と変わらないその声が、却って平常心を取り戻してくれるような気がした。
 は言葉に従って、一度深く息を吸って吐き出す。ようやく、少しぬるくなった紅茶を口に運ぶことができた。

「わたしは、この紋章が恐ろしいのです。きっと、わたしなんかが持ってはいけなかった。ベレト先生にも学級の皆様にもご迷惑をおかけして、その上このままでは、家族にまで迷惑が及んでしまいます」
「……はどうしたい?」
「紋章について知りたいと思っています。知らなければ隠すことも難しいということすら、わたしはわかっていなかったのです。あの夜、初めて剣を振った時のことを、わたしはきっと忘れません」

 大して重くもない訓練用の剣の感触が、手のひらに思い返されるようだった。

 ふいに、ベレトの視線が横に逸れた。そのまま宙を睨むような顔つきで黙り込む。
 はちら、とベレトの瞳を見やる。切れ長の瞳は硝子玉みたいに無機質だが、宝石のような美しさがある。髪も瞳も、フォドラでは珍しい色合いだ。

「知っての通り」

 視線が戻って、ベレトが口を開く。は慌てて瞳を伏せた。

「自分は紋章に疎い。の力になることは難しい」
「はい……」
「自分からハンネマン先生に相談してみよう。学級は違えど、生徒の指導に当たってくれるはずだ。紋章に関する事なら尚のこと」

 肩を落としかけたはパッと顔をあげて「本当ですか」と、思わず声音を弾ませた。一瞬、ベレトが目を丸くしたような気がした。

「もちろん、生徒のためだ」

 そう答えたベレトの顔には、ささやかな笑みが浮かんでいたようにも見えた。





 果たして、ハンネマンは嬉々としての指導に時間を割いてくれている。“紋章学の父”と呼ばれるハンネマンが紋章に詳しいのは当然なのだが、その研究に注ぐ情熱によってを置き去りにして話が逸れることもまま有るのだった。
 はじめこそ一から丁寧に教えてくれるのだが、熱が篭ってその語り口が興奮していくと共に、には理解が及ばなくなっていく。ふう、と一息ついたハンネマンが、ようやくの困惑に気がつく。

「すまないね、君。またつまらない話をしてしまったな」
「いえ、わたしのほうこそ浅学で申し訳ありません。せっかく、ハンネマン先生のお時間をいただいているのに……」
「待ちたまえ」

 ハンネマンがぴしゃりとの言葉を遮る。

「我輩は君の無知を責めるつもりはないのだが、それはわかるかね? 必要以上に自分を卑下するのは感心しない。君は我輩の目から見てもよく勉強している」

 は「恐縮です」と、頭を下げる。
 ハンネマンの言葉は嬉しいが、は己が凡庸であることを嫌というほど理解している。どれだけ努力をしても敵わない存在がいるのだと、は知っている。

「さて、話を戻そう。君の持つインデッハの紋章については、すでに話した通り武器を手にしなければ、宝の持ち腐れというやつだ」

 どき、と音を立てた心臓を両の手で押さえる。
 剣、槍、斧、弓──どれもこれも、はガルグ=マクに来て、初めて触れたものばかりだ。そして、未だまともに扱うことができていない。

「何、そう恐れることはない。案ずるより産むが易し、と言うだろう」
「……はい、わかっています。わかってはいるのです」

 紋章の力を引き出すために、ハンネマンが勧めてくれたのは弓術だ。いざ、的に向かって矢を引き絞ろうとすると、どうしてもあの夜が頭を過ぎる。ただ我武者羅に振るった剣、躱されたと認識するより早くに動いた身体、そして得体の知れぬ不可思議な力が働いた感覚が、にはまだ消化できていないのだ。
 ふむ、とハンネマンが呟く。
 
「まだ、考えは変わらないかね」
「え?」
「その紋章は、自分が持つべきではなかった。君は、そう言っていただろう」

 ──紋章は人を選ぶ。
 一番初めにハンネマンを訪ねた際に言われた言葉だが、には俄かに信じがたい。

「君は勇敢で努力家だ。我輩には、とてもそうは思えないのだよ」

 そんなふうに言ってもらえるのは嬉しいが、心苦しくもある。勇敢だなんて言葉はにはちっとも似合わないし、人より倍努力する必要があるだけだ。
 は目を伏せて首を横に振った。

「ハンネマン先生も、姉を見ればそのお考えが変わるかと思います」
「そうであろうか? いやしかし……例えそうだとしても、その紋章が君に宿っていることは事実。必ず、君の力になるだろう」

 そうなのだろうか。
 いくら家族が、自身が、紋章を隠そうとしようとも、なくすことなどできはしない。

「そうだと、いいのですが」

 は力なく答え、ハンネマンの部屋を退室した。
 とぼとぼと肩を落としながら廊下を歩く。抱えた紋章学の書物が、部屋を訪ねる前よりもずっと重いような気がした。

「やあ」

 声と同時に、視界が翳るのがわかった。見慣れた制服が壁のように立ちはだかり、は俯かせた顔をあげざるを得なかった。
 知らない顔だ。
 はきゅっと眉根を寄せて、あげたばかりの顔をわずかに伏せた。

「君、ハンネマン先生のところに、よく足を運んでいるよね」

 それは問いではなく、確認だった。「あなたに答える道理はありません」と、は視線を合わせぬまま、脇を通り抜ける。

「紋章を持っているんだよね? しかも、小紋章じゃない」

 行手を阻まれたわけではない。手を掴まれたわけでもない。けれど、は思わず足を止めて振り向いた。
 大きな瞳が、の強張った顔を映し出している。

「紋章の有無って、観察していれば大体わかるんだよ。知らなかった?」

 小馬鹿にしているふうではなかった。ただ純粋に、そこには疑問と興味があるだけだ。
 じっと観察するような視線が、ふと落ちる。「あ、その本。僕も読んだなあ」と、のんびりと呟きながら、の腕の中にある背表紙を指でなぞった。

「紋章学に興味があるの?」

 背を屈めて顔を覗き込んでくる。睫毛がやけに長い、とそれだけを目視して、は瞳を伏せる。

「……あなたには関係ありません」

 それだけ言うと、は逃げるようにその場を立ち去った。


 に声をかけた男子生徒は、リンハルト=フォン=ヘヴリングであるとすぐに知ることができた。は知らなかったが、紋章学にしか興味を抱かぬ奇人としてそこそこ有名らしい。紋章学の研究か、寝ているかのそればかりだと言う。帝国貴族で見目も麗しいため、非常に残念がられているようだった。
 自慢じゃないが、学級内でもあまり関わりを持たないのだから、他学級の生徒となれば級長くらいしか顔と名前が一致しないのだ。

 はっきり言ってリンハルトとは関わり合いになりたくない。紋章については話したくないし、語れることもない。

「やあ、また会ったね」

 それなのに、こうしてふいに声をかけられるのは何度目だろう。放課後に利用していた書庫にリンハルトもよく通っていることを知ってからは、はなるべく人目につかないところへ足を運んでいるのだが、彼もまたふらりと現れるのだ。

「ああ、誤解しないでよ。僕は昼寝をする場所を探していただけだから」

 確かにリンハルトの手には、羽毛の詰まった枕がある。

「では、邪魔をしないようにわたしはお暇します」
「別に邪魔じゃないよ」

 もう何度も繰り返したやりとりだ。
 長椅子から立ち上がったの腕を、リンハルトの手が掴んで引き留める。そうして、男らしい力強さで隣に座らせるのだ。いつもなら、すぐに寝息が聞こえてくるのだが、今日はそうではないらしい。

 視線を感じる。は俯いて、開いた本に意識を集中させようと努める。

「君も大概頑なだよね」
「……あなたこそ、少し執拗が過ぎると思います」
「知りたいことを知らないままにしておくのは、気持ちが悪いからね」

 は手にしていた本を閉じ、立ち上がった。
 座ったままこちらを見上げるリンハルトは、どうしたのと言わんばかりに瞳を丸くしている。その呑気そうな様子も、今のには腹立たしく感じる。

「誰にだって知られたくないことや言いたくないことが、一つや二つはあるはずです」
「それが君にとっては紋章なの? うーん、僕には理解できないな」

 リンハルトの大きな瞳が不思議そうに瞬かれる。首を傾げる仕草に合わせて、深緑色の髪がさらりと揺れた。

「だってさ、考えてもみなよ。君は、王国の貴族だよね? 先生みたいな傭兵や、百歩譲って平民ならいざ知らず、貴族が紋章と無縁だなんてあり得ない」
「そんなことはわかっていますっ」

 リンハルトの言っていることは、正しい。正しいからこそ、は生家のあり方の異常さを、知らしめられる。
 ──は紋章に無縁だったのではない。

「わたしだって、無縁に生きたかった」

 紋章しかない自分には、いっそのこと何もないほうが、よほどよかった。そうしたら、ただの出来の悪い妹でいられたのかもしれない。
 この紋章は、姉にこそ必要だった。

空気より透明な鎖