ガルグ=マク大修道院は、ファーガス神聖王国、アドラステア帝国、レスター諸侯同盟のちょうど中央に位置する。各国の貴族から平民まで集まる士官学校は、まさにフォドラの縮図と呼ぶにふさわしい。今年度は、次期国王やら何やらと錚々たる面々が揃い踏みである。
 そのような生徒たちに万が一があってはいけない──はず、なのだ。
 楽しく和気藹々とした野外活動が悲鳴に包まれているなんて、悪夢を見ている気がした。

 ファーガス神聖王国は騎士道精神を尊び、騎士に憧れ幼き頃から剣や槍を手にする者も多い。四年前に起きたダスカーの悲劇により、ディミトリを初めとしてすでに戦場に立った経験のある生徒だっている。
 は違う。戦場を知らない。武器の扱い方も知らない。

 だから、足が竦んで動けなかった。振り向いた先にいたはずの教師の姿はすでになく、はどうしたらいいのか、少しも判断できなかった。「ごめんなぁ、こっちも仕事なんだよ」と、下卑た笑みを浮かべた男が、斧を振りかぶる。
 は、と息を呑む。
 の手の中にあるのは、殺傷力のない訓練用の剣だが、男の斧には刃があって鈍色に光っていた。死、という文字が頭を過っても、身体は震えるばかりで動いてくれなかった。

「右足を後ろに引け!」

 ふいに鋭い声が飛んだ。はわけもわからないまま、咄嗟にその声に従った。振り下ろされた斧が、の髪を掠める。

「剣を振れ! その手は飾りか!」
「っ……!」

 に斧が当たらなかった男は隙だらけだった。言われたとおりに剣を振ったが、身を捩られて躱される。あ、と思う間もなく、はもう一撃剣を振るっていた。
 チッと男が舌を打つ。今度は躱し切れず男の腕に剣が当たった。
 手のひらにじんと痺れるような振動が伝わってくる。は驚いて、思わず柄を離してしまった。

 カランっ、と乾いた音を立てて剣が地面に落ちるのとほぼ同時に、男の身体が地に沈んだ。
 真剣についた血を払って、鞘に収めるのはと同じ士官学校の生徒だ。「他愛もない」と、目元にかかった前髪をかきあげる。切れ長の真紅の瞳がよく見えた。はその顔を知っている。

「フェリクス、さん」

 喉が引きつれて、うまく声が出なかった。
 自領が隣接していようとそれほど交流はなかったが、顔を合わせる機会は何度かあって、記憶にある姿とあまり相違がない。

 賊とはいえ人を斬り伏せたというのに、動揺する様子など一つもないようだった。フラルダリウス家の嫡男であるフェリクスは、二年前に初陣を済ませていると聞いているから、そのせいかもしれない。
 フン、と鼻を鳴らして、が落とした剣を拾い上げる。それを眼前に差し出されても、は手を伸ばすことができない。

「世話が焼ける……」

 はあ、とこれみよがしにため息をついて、フェリクスがに無理やり剣を握らせた。は不安げにフェリクスを見上げる。武器を持ったのは初めてで、人に向けたのも初めてだった。
 何より──初めて、紋章が発動した。

「おい! 逃げた生徒を追うぞ!」

 賊の野太い声が響いて、はびくりと肩を跳ね上げた。賊の大半は流れて行ったが、まだこちらにも残っている。
 フェリクスが好戦的に口角をあげた。

 はまだ礼を言っていないことに気づいて「フェリクスさん」と、声をかけた。まだいたのかと言わんばかりの目を向けられるが、は厭わずに深く頭を下げた。

「お助けいただき、ありがとうございました」
「……死にたくないなら、せいぜい隠れていろ。この場に立っているだけでも迷惑だ」

 吐き捨てるように言って、フェリクスが賊に向かっていく。間もなくしてセイロス騎士団が賊を制圧したが、それまでにが剣を振ることは一度もなかった。






 を置いて逃げた教師に代わって、新任教師として着任したのは、あの時逃げた生徒──級長三人を助けた傭兵だという。「ベレトだ。よろしく」と無表情で告げたベレトの年齢は、士官学校の生徒とそう変わらないように見えた。

「教師として至らないことは多いと思うが、一年間君たちの担任を務めることになった」

 ベレトの視線が生徒一人ひとりに向けられる。は反射的に瞳を伏せた。眼鏡の鏡玉が、不自然に目を逸らしたことを隠してくれることを願う。
 アネットが「あわわ、あたし、友達みたいに話しかけちゃって……」と慌てているが、ベレトが気にするそぶりはなく構わないと首を横に振る。表情こそ変わらないが、意外と気さくなのかもしれなかった。
 賊に向けたような好戦的な顔をして手合わせを申し出るフェリクスの横顔を、はぼんやりと見つめた。フェリクスがいなければ、自分はここには立っていなかっただろう。

 ディミトリが同じく手合わせがしたいと願い出れば、アッシュが自分も見学したいと申し出る。皆、何も言わずとも、ベレトに興味があるのだ。教師としては異例の経歴である。

「……先生、見てのとおり騒がしい学級だ。いろいろと苦労をかけるかもしれないが、これから一年、よろしく頼む」

 ディミトリの言葉に、ベレトが静かに頷いていた。



 自分の指先が震えていることに気づいて、は困惑した。訓練用の木剣は思っていた以上に軽いのに、それを手にしただけで鉛を飲み込んだような重苦しい気持ちになる。
 もし、紋章が発動してしまったらと、そればかりを考えてしまう。

「あら~も剣を持つのは初めて?」

 メルセデスが首を傾げる。彼女もと同様に、一から剣を教わる組だ。ベレトが今指導しているのはアネットである。
 「私もよ~。剣も槍も、私には向いてないと思うのよねぇ」と、メルセデスが軽く剣を振ってみる様は、子どものごっこ遊びに似ていた。その手から剣が飛んでいってしまいそうな危うさがある。

「メルセデス、適当に剣を振るのはよくない」
「やだ。先生、見てたのね」

 ふふふ、と悪びれるふうもなく、メルセデスがはにかんだ笑みを浮かべる。
 メルセデスに、剣の持ち方から振り方まで丁寧に教えてから「アネットと打ち合ってみろ」と、ベレトが背を押した。アネットとメルセデスの打ち合いは、向こうで実践さながらに剣を交えるフェリクスとディミトリに比べると、やはり子どもが戯れあっているように見える。

 メルセデスは剣も槍も向いていない、と言っていたが、彼女には白魔法の才能がある。先日行われた学級対抗の模擬戦では、メルセデスの癒しの力のおかげで、怪我人は誰もおらず青獅子の学級が勝利をおさめたと言えるだろう。
 は見ているだけだった。声援すら送れずに、ただそこに存在していた。



 気がつけば、ベレトがじっとを見つめていた。

「剣を構えてみてくれ」
「はい」

 ベレトの手本を思い出しながら、は言われたとおりに剣を構えた。表情こそ変わらなかったが、ベレトが顎先に指を当てて首を捻る。どこか可笑しいのかもしれない。

「柄はもっとしっかり握る」

 背後に回ったベレトの手が、柄を握るの手に重なった。びく、と肩が跳ねたのはふいに触れられたせいでも、ひどく近くから声が聞こえたせいでもある。
 は恐る恐る指先に力を入れてみる。

「………………」

 その先の言葉が、いつまで経ってもない。手は重なったままだ。
 は俯きがちに、ベレトを振り返る。ベレトの眼差しは真っ直ぐにを射抜いていた。視線が重なる。「手が震えている」と、ぽつりと呟くようにベレトが言った。

「……!」

 思わず、ベレトを突き飛ばすようにして、距離を取る。その拍子に、手から離れた剣が落ちて転がった。ベレトにはまったくふらつく様子はなく、動じることはなかったが、心なしか眉尻が下がっている気がした。

「あ……も、申し訳ございません……」
「先週、槍術の実技もこうだったな。貴族というのはそういうものかと思っていたが……」

 ベレトが周囲の生徒を見やって「だけだ」と、不思議そうに瞳を瞬かせた。

「わ、わたし……」
「おい、それに構うのは時間の無駄だ。それより先生、相手をしろ」

 フェリクスが不機嫌な顔で近づいてくる。「あの馬鹿力めが」と、忌々しげに舌打ちをするあたり、ディミトリに競り負けたのかもしれない。
 ベレトが物言いたげにこちらを見つめることに気づいていながら、は顔を伏せて目を合わせなかった。紋章が怖くて武器が持てないなんて、恥ずかしくてとても口にできそうにない。

「わかった。はまず、構えを練習するように」

 差し出された剣を受け取る。それはやはり軽いのに、の心内を重くしてならなかった。






 は静かな場所が好きだ。放課後は、書庫で自習に励むことが多い。理学の参考書に視線を落とすを熱心に見つめるのはベレトだ。
 頁を巡ってはみたものの、内容がほとんど頭に入ってこない。はちら、とベレトを一瞥する。私語は極力慎むべき書庫だからなのか、ベレトは物言わずにの正面の席に居座るだけだ。その様子を見たシルヴァンが石像みたいだ、とからかっていたがベレトが動じることはなかった。

「ベレト先生……」
「……? 何か質問があるのか」

 ベレトが身を乗り出して、参考書に目を落とす。「理学はあまり得意ではないが」と前置きしながらも、真剣に質問に答えようとしてくれているようだ。

「あ、い、いえ……理学は、関係ありません」

 は慌てて参考書を閉じる。
 ベレトには聞きたいことがあるのだとわかっている。食事やお茶に誘われても断り続け、呼び出されて問われても当たり障りのない答えではぐらかしてきた。結果、連日この状態である。

「……質問があるのは、ベレト先生でしょう」
「ああ、そうだった」

 ベレトがひとつ頷く。は伏し目がちにベレトを見るのに対し、彼の視線は少しもぶれることがない。

は、武器を持つのが怖い?」

 ベレトが回りくどい言い方をすることはない。頷くに「何故?」と、ベレトが首を傾げた。まったく理解が及ばないといったふうだが、教師として生徒の気持ちに寄り添おうとしていることは、表情が変わらずともわかる。
 は周囲に人がいないのを確認してなお、ベレトに顔を寄せて声を潜めた。

「正確に言えば、わたしは紋章が発動してしまうのが、恐ろしいのです」

 ますます理解できないと言わんばかりに、ベレトの眉根に小さな皺ができた。

「場所を移しても構いませんか? あまり、人の耳に入れたくありません……」

 の紋章は、ハンネマンの興味を引くような特別なものではない。けれど、家において、秘匿とされてきたためにガルグ=マクでも限られた者にしか伝えられていないはずだ。
 持って生まれるべきではなかった。待ってはいけなかった。紋章主義である王国内にありながら、の家督を継ぐのは、姉のエリアーヌだ。が生まれる前から決まっていたし、が生まれても揺らぐことはなかった。エリアーヌは非の打ち所がない。ただひとつ、紋章を持たないということだけを除いて、よりもすべてが優れているのだ。

錆び付いた鼓動がひとつ