には二つ上の姉がいる。
美しく聡明で、気立てがよく、何をさせても優れていた。まるで完璧である姉のことが、は大好きだったし、自慢に思っている。たとえ、姉とは露ほども似ていないと嗤われようとも、は姉の妹であることが何よりも誇りだった。
は地味な目鼻立ちをしているし、口下手で不器用で、何をしても凡庸だった。よく両親を失望させて、呆れさせていたけれど、ただ一人姉だけは「はそのままでいいのよ」と、やさしく微笑んでくれた。だから、は自分はこれでいいのだと思って、何の疑いも焦りもなく過ごしてきたのだ。
「あなたの顔を見たくない」
──姉の指は、に向いていた。
言葉は嫌というほど耳にこびりついているのに、そう告げた姉がどんな表情を浮かべていたのか、はどうしても思い出すことができない。
荷解きを終えて腰を下ろした寝台は、当然ながら実家の元は比べものにならないほど硬かった。けれど、きっとそれもすぐに慣れるのだろう。は座ったことで皺の寄ってしまった掛布を、手のひらで撫でつける。
ガルグ=マク大修道院に併設された士官学校の存在は知っていたが、貴族の息女といえど自分には無縁だと思っていた。
無縁であるはずだったのだ。姉の一言がなければ、両親はを士官学校へ行かせることなどなかっただろう。家を継ぐのは姉だと決まっており、は何一つとして期待されていない。ここで学ぶことは、の人生には必要のないことばかりだ。まして、良縁などにあるわけがない。
は小さく息を吐いた。早く、この一年が過ぎ去ればいいと思う。
まだ寮内に人の気配は感じない。は生徒たちの中でも早くに寮に来てしまったのだろう。ふつうならば、一年も寮生活をする子どもたちとの別れを、惜しむのかも知れなかった。
はもう一度息を吐いて、立ち上がる。
ガルグ=マクは広い。入学早々迷子にならないためにも、少し敷地内を見て回ったほうがよさそうだ。生徒と顔を合わせる心配のない今なら、自由に敷地内を歩けるだろう。社交的な姉と違って、は人付き合いが苦手だ。
「……行って、きます」
窓際に飾った家族の絵画に、小さく告げる。行ってらっしゃい、と微笑む姉の顔を思い出しながら、は廊下に出た。
の自室は一番階段に近い端だった。扉には=セレネ=と名が記されている。隣室はイングリット=ブランドル=ガラテアとあることから、王国のガラテア伯息女なのだと伺える。顔を思い出せるほどの交流はない。
誰もいないのならと、は廊下の奥まで行くことに決めた。扉の名前を確認しながら廊下を歩くが、ピンとくる名は少ない。途中で眼鏡をかけ忘れたことに気づくが、どうせ折り返すのだからその時に自室に寄ればいい、とはそのまま進む。所詮伊達眼鏡なのだから、視力に問題はない。
フラルダリウスの名を見つけて廊下の行き止まりまであと少し、というところで不意に扉が開いた。
「きゃっ!?」
誰もいないと思っていたは、思わず悲鳴をあげて後ずさった。すらりとした長身は、にはそびえ立つようにさえ感じた。
「す、すまない。驚かせてしまったな」
碧眼が心配そうにを捉えた。小さく頭を下げる動きに合わせて、金の髪がさらりと揺れる。切り揃えられた前髪は、実直さと誠実さを体現しているみたいに思えた。まだ学校生活は始まっていないというのに、制服を見に纏っている。肩から青い外套が揺れていた。
この部屋の扉の名はまだ確認していなかったが、には誰であるか明白だった。一瞬、呼吸が止まって、心臓が掴まれたように痛んだ。
「お、お顔をあげてください! わたしこそ、大きな声を出してしまい、申し訳ございません。どうぞお許しください──ディミトリ王子殿下」
は慌てて腰を深く折る。
一度だけ、王宮で言葉を交わしたことがあったが、のことなど彼が覚えているわけがない。ディミトリが顎に指先を添える。
「王国出身者か」
「はい、=セレネ=と申します」
「……フラルダリウスに隣接した伯爵家か。だが、あそこの娘は確かエリアーヌだったように記憶しているが、違っただろうか」
は顔を伏せたまま「エリアーヌはわたしの姉にございます」と答えた。
「まずは顔を上げてくれないか、。ここでは俺も生徒の一人だ、王子殿下としてではなく同じ学級の仲間として接してほしい」
ディミトリの言葉を受けて、は恐る恐る顔をあげた。心臓がまだうるさく早鐘を打っていて、は両手で胸を押さえた。
次期国王たるディミトリに対し、同じ生徒と思うことなどできそうにない。
「精進いたします」
「殿下」
がもう一度頭を下げたと同時に、背後から低い声が聞こえた。まだ寮内は静かだと思っていたが、存外すでに生徒は来ているのかもしれない。
振り向いて、は瞳を瞬く。ダスカーの民を目にするのは初めてだった。
「お初にお目にかかります。=セレネ=と申します」
「…………」
返事がない。は慌てて、顔を青ざめた。
「あ……も、申し訳ございません! わたし、何か不作法を」
いつも姉の後ろに隠れてばかりいたため、挨拶もろくにできなくても何ら不思議ではない。ディミトリには何も言われなかったが、先の名乗りも可笑しかったのかもしれない。
は自室に引き返したい気持ちになりながら、顔を俯かせた。
「いや、そうではない……ドゥドゥーだ」
ドゥドゥーがゆるくかぶりを振る。は俯きがちにドゥドゥーの顔を窺い見たが、その視線はすでに己からは外れていて、ディミトリへと向けられていた。
「殿下がお見えにならないので、何かあったのかと」
「ああ、と鉢合わせたんだ。しかし、生徒たちがガルグ=マクに来るのは、数日後だと思っていたが……」
ぎくり、との身体が強張る。ふつうではない、と指摘されたような気がするのは、卑屈な考えだろうか。
「……殿下、参りましょう」
答えあぐねるを見かねてか、ドゥドゥーが口を開いた。もしくは、ディミトリの疑問にすら答えられないに呆れ果てたのかもしれない。
伏せた顔をあげることができない。
「俺たちは訓練場に向かうが、はどこへ?」
「あ……お恥ずかしながら、ガルグ=マクを訪れたことがなく、迷わぬよう敷地内を散策する心算でした」
「なるほど。それなら、訓練場まで少し話しながら行かないか?」
えっ、と漏れた驚きの声を、は慌てて両手で押さえた。思わず、まじまじとディミトリを見つめてしまう。
「よ、よろしいのですか?」
「ああ、もちろん」
「……わたしは姉と違って口下手で、つまらない人間です。歳の近い友人もおらず、ディミトリ王子殿下を不快な思いをさせてしまうかもしれませんし、不敬を働いてしまうかもしれません」
ご一緒するなんて恐れ多い、と口にしようとしたのに、はその先の言葉をなくした。「構わない」と言ったディミトリが、の手を握ったからだ。
握手を交わしたまま、は呆然とディミトリを見上げる。
「ガルグ=マク士官学校には、様々な国から貴族や平民が、様々な事情で集まる。俺は確かにファーガス神聖王国の王子だが、ここでは身分など関係なく、平等でありたいと思っている」
ディミトリの顔に柔和な笑みが浮かぶ。ぎゅ、と握られた手が、少し痛いくらいだった。
「友人がいないと言うのなら、俺を初めの一人にしてくれるなら嬉しい」
「な、あ、えっ、」
「二人目はドゥドゥーでどうだ?」
くつくつと笑いながら、ディミトリが手を離した。はそろりとドゥドゥーを見やる。怒っているようには見えなかったが、笑顔でもない。
「ガルグ=マクは広い。のんびり散策していると、あっという間に日が暮れるぞ」
「あ、は、はい。そう、ですよね」
足を踏み出そうとしたに向かって「行こう」と、ディミトリが声をかけた。
寮から訓練場はほど近く、他愛ない話をするうちに着いた。次期国王と肩を並べて歩いていることが、あまりに信じ難く、ひどく緊張してしまっては何を話したのかすら曖昧な記憶だった。眼鏡をかけ忘れているということすら、もうの頭にはない。
脳内に地図を思い浮かべながら歩いて、は辿り着いた大聖堂で天井を見上げた。
家族も含めて、は敬虔なセイロス信徒ではない。けれども、この状況は女神にだって縋りたい。は長椅子に腰掛けて、胸の前で手を組んだ。
何事もなくこの学校生活が終わって、家に帰れますように。
祈りを終えて、は目を開ける。
屋敷に帰ったとき、果たして自分は迎え入れられるのだろうか。こんなふうに厄介払いをされたというのに。姉は、顔を合わせてくれるだろうか。大好きな、姉は──
は沈んでいく思考を断ち切るようにかぶりを振り、立ち上がる。美しい彩色硝子から、見守るように柔らかい光が差し込んでいた。