──やられるまえに、
 自然と伸びた手が魔道書に触れていたことに気付いて、ははっとして不意によぎった己の考えを恥じ入る。
 目の前の蒼い獣は面白い物を見るような顔をして、その尻尾はゆらゆらと動いている。はオッドアイの瞳を見つめながらごくりと喉を鳴らす。指先が冷たい。足が震える。乾いた唇をようやっと開く。

「この間は、失礼なまねをして、ごめんなさい」

 は声が震えなかったことに安堵した。
 こうして顔を合わせることには大きな抵抗があったが、ライには大きな借りがある。こうして生きていられるのも彼のおかげなのだ。

「助けてくださって、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げる。そうして、そのまま立ち去ろうと考えていたが、ライの動く気配には慌てて顔を上げた。
 猫らしくしなやかな動作で近づいてくる。
 は思わず後ずさり、それからすぐに魔道書を掴んだ。ライの視線がそこに向けられたことに気づいて、彼が敵ではないということに思い至る。は気まずく思いながら手を離す。



 近づいた距離に心臓が早鐘を打ち出し、思考が混乱する。ライの手が伸ばされる。
 頭が真っ白になった。



 がん、とぶつかったのはライの背中と壁である。「痛て!」と声を上げたライを、は押さえつけながら見上げる。その手は馬鹿みたいに震えていて、滑稽さに笑いがこみ上げるくらいだ。けれど、の表情は恐怖に歪んで歯が噛み合わない。
 の胸に絶望が広がっていく。
 染みついた恐怖はどうしたって拭えないのかもしれない。なんて情けないのだろう。こうして自分を自分と認めてくれるラグズがいるというのに、まともに話すらできやしない。

「もう、近づかないで……」

 こんな言い方しかできない自分が嫌になる。は目を伏せる。──ほんとうは、話しかけてくれてとても嬉しかった。

「わかった。こわがらせて悪かったな」

 ライの物言いはどこまでもやさしい。はゆるくかぶりを振りながら、手を離した。「わざわざ来てくれてありがとうな」言いながら、ライが扉を開けてくれる。
 は顔を上げられず、うつむいたまま歩く。



 つむじに声が降って、思わず顔を上げる。

「俺に悪いなんて思わなくていい」

 足が止まる。床に縫いつけられたように足が動かない。やさしく細められたオッドアイから目が逸らせない。泣きそうになって唇を噛む。
 不意に、ライの指先が唇に触れた。

「血、出るぞ」
──

 はその手を払いのけ、うつむいた。睨むようにライの足元を見つめる。

「……罪悪感? それとも責任感?」
「…」
「わたしがこうなっちゃったのは自分たちのせいだから?」
「俺は、」
「だけど、元々悪いのは、わたし」

 伸ばされたライの手から逃れて、部屋を出る。は顔を上げた。

「だって! ほんとは生まれちゃいけなかった! そうでしょ!」

 は吐き捨てるように言って、背を向けて走り出す。
 まるで癇癪を起した子どものようである。こんなの八つ当たりだ。確かにラグズの自分に対する扱いはひどく冷たかったけれど、ライはやさしく接してくれた。彼が責められるいわれはない。

 ベオクには忌み嫌われ、ラグズにはいないものとされた。それが当り前であり、そういった環境で生きてきた。
 冷たくされるのも、嫌われるのも、酷い言葉を投げつけられるのも、慣れている。
 ──やさしくされるのは、慣れていない。

カメリアを潰して

(謝ることもうまくできない)