できることなら、あの日の記憶をなくしてしまいたい。ひどいことを言って傷つけて、遠ざけたのはわたしのくせに、それでもまだ笑いかけてほしいと心のどこかで願い続ける自分がいる。
だけど、そんな都合のいいことが起こるわけもなくて、あのひとはわたしに近づくことはおろか姿さえ見せなくなった。
いくら後悔したって、無駄なことぐらいわかっていた。わたしは意気地なしだから、自分から近づくなんて、できるわけがない。ああ、ほんとうに馬鹿だ。
──あのひとの、ラグズがくれたはじめてのやさしさを、大切にしたいと思っていたのに。
わたしはそっとため息をついて、胸を押さえる。この後悔もいつかは消える。時が経つのをわたしはただ待つだけでいい。そうやって、いつだってこの胸の痛みを乗り越えてきたんだから。
「だいじょうぶ、」
何度も言い聞かせてきた言葉を、わたしはまた言い聞かせる。そう、大丈夫、なにも恐れることなんてない。一人で生きていく力をわたしは持っている。
魔道書を捲った拍子に指先が切れて痛みが走り、詠唱が滞る。しまった、思った瞬間に放たれた矢がまっすぐとわたしに飛んでくる──不意に、ぐっと手首をつかまれて、痛みに顔をゆがめる。声を出す間もなく突き放され、危うく尻餅をつきそうになるところを、踏ん張ってなんとか耐えたが魔道書が手から放り出された。
まるで一陣の風が吹くように、その姿を追うことは困難だった。敵兵を切り捨てた剣士がひどく涼やかな顔でわたしを振り返る。
「ソーンバルケ」
わたしと同じ、だけどすこし違う。わたしに帰る場所はない。以前、隠れ里に来ないかと誘ってくれたけれど、わたしは首を横にふった。
ソーンバルケは落ちた魔道書を拾い上げ、わたしに差し出した。「無事か」素っ気ない言葉だが、わたしの身を案じていることはわかる。わたしは頷きながら、お礼を言って魔道書を受け取った。
「……あのラグズの姿がないな」
「え?」
「いや、なんでもない。おまえは、もう少し下がっていろ」
ソーンバルケはそれきり背を向けて、前線へと向かっていく。その後を追おうとして、けれど、足が重くてうまく動いてくれなかった。思わずよろめいて、そのとき初めてひどく疲弊していたことに気が付いた。
おとなしく後退しながら、ソーンバルケの言葉を頭の中で何度も繰り返す。
──あのラグズの姿がないな。
それがだれを指すのか、どういう意味を持つのか、考えたくもなかった。
それなのに、わたしを助けてくれたときのことが思い出される。みんなからすこし離れたところにいたから、もしかしたらだれにも気づかれないかもしれないとさえ考えたのに、どうして助けてくれたのはあのひとなんだろう。
わたしがどこにいるのか、
「しってた、の?」
呟いた声は震えていた。
こんなこと、考えたくない。ただの推測でしかないのに。
あのひとは、わたしを、守っていてくれたのかもしれないなんて、都合がよすぎる。
血で汚れてしまったつま先を見つめながら、わたしは逡巡を繰り返す。
あの天幕の向こうにあのひとはいる。そんなことはわかりきっているのに、わたしはその入り口を見ることしかできないなんて、意気地がなさすぎる。昔、花びらで占いをしたことを思い出した。いくか、いかないか、花びらに託すことはできない。
すう、と息を吸って、入り口に立つ。緊張で足が震えた。
入ってもいいですか、と尋ねてだめだと言われたらどうしよう。失礼します、と言って入ったらいいのだろうか。考えながら、天幕に手をかける。「し、」失礼します、と口を開いたのに、その言葉を紡ぐことはできなかった。
勢いよく天幕があいて、驚きに言葉を失う。思わず逃げ出そうとしたわたしの腕は素早く捕らわれ、天幕の中へと引っ張られる。
よろめいた身体を支えてくれる手はなく、わたしは惨めにも地面に倒れ込む。
「あ、あの、」
顔を上げられなくて、地面を見つめる。思考が混乱して言葉が見つからない。
「話すことなんてない」
「え……」
「それともなに、まだ俺に文句でもあるわけ?」
「あ……」
「悪いけど、また今度にしてくれないか。疲れてるんだ」
「っ」
わたしはあわてて立ち上がる。恥ずかしい。
あんなひどいことをしておいて、まだやさしくしてくれるんじゃないかなんて、思い上がって。
だけど、これだけは伝えなきゃ。どんな顔をしているのかとてもじゃないけど見られなくて、俯いて睨むように地面を見つめる。つん、と鼻の奥が痛むのは、きっと薬草のにおいが鼻についただけ。
「うれしかった。ありがとう──……ライさん」
頬を伝った雫は少しだけしょっぱくて、でもそれが涙だなんて、わたしは久しぶりすぎてわからなかった。
ライは思う。
もしかしたら、自分のしていたことはの自尊心を傷つけていたのかもしれないし、妙な期待を抱かせていたのかもしれない。
アイクをはじめ、ベオクだのラグズだのといった偏見の少ない集団だからこそ、ひどく生ぬるい環境であるといえる。けれど、ひとたび集団を外れれば、彼女はまた辛辣な状況へと戻るのだ。ラグズにもベオクにも忌み嫌われる状況へと。
はじめこそ、の言うとおり、罪悪感や責任感のようなものがなかったわけではない。あまりに痛々しい姿には、さすがに胸が痛んで放っておけなかったというのが本音である。
いつも戦場でも浮きがちなを、気づかれぬぐらいささやかにフォローしてきたのだって、ただの自己満足に他ならない。
歩み寄って何ができるかなんて、考えてすらいなかった。
ただ、彼女が笑ってくれたらいい、そしていつしかライ自身を恐れることがなくなればいいと、自分勝手に思っていただけだ。──思えばこれは、愛の恋だのといった感情に似ている。
名前を、
ライは思わず、の手を掴んでいた。驚いて振り向いたの顔は、涙にぬれていた。臆病で怖がりのくせに、泣いたところは見たことがなかったため、ライは動揺する。
はらはらと零れ落ちる涙を、が拭う様子はない。
「な、泣くなよ」
「え……な、泣いてなんか……あ、れ?」
頬に触れて初めて泣いていたことに気が付いたようだ。があわてて涙を拭う。
「……俺も」
「え?」
「俺も、うれしかったよ。名前を呼んでもらえて」
がくしゃりと顔を歪ませる。次から次へと溢れる涙の意味を、ライはうぬぼれでなければいいと思いながら、を抱きしめた。の手がぎゅうとライの服を掴む。
「なまえなんて、いくらでもよぶから、だから」
また笑いかけてください。
ああ、自分がしてきたことは少なくとも意味はあったのかもしれないな。「それだけでいいのか?」ライは笑いながら、抱きしめる腕に力を込めた。