伸ばされた指先をほとんど無意識に振り払ってから、ははっと我に返った。左右色の違う瞳は軽く見開かれてを見つめていた。そうして、苦笑をもらす。
 意外と元気そうだな、と呟くように言って彼は空色の尻尾をゆらりと揺らした。

 は慣れ親しんだ魔道書を手探りに求めたが、近くにはないらしくその感触は感じられない。恐怖にも似た感情が湧きおこり、緊張とわけもわからぬ焦燥に心臓が早鐘を打ち出す。身を守るものがないと不安でたまらない。
 敵でもない彼を前にして怯える滑稽な様子に、己の冷静な部分が嘲笑った気がした。
 指先がのろのろと地面を這う様子を見て、彼は小さく笑った。

「俺を丸焦げにするつもりか?」
「……ち、が……」

 唇から、吐息のように掠れた声が出た。
 彼は眉をひそめると、軽くため息をついた。しなやかに伸びた両手が、脇を抱え上げる。にはその手を払い除けることができなかった。失血で頭が重いし、身体に力が入らない。
 振動で傷が痛み、は思わずうめいた。

「我慢しろよ。死にたくないならな」

 彼──ライの声が遠くに聞こえた。




 例え、こんなちっぽけな命が失われたところで戦局に大きな影響など与えはしないし、ともすればライを始めとするラグズの戦士たちにとっては万々歳なのではないだろうか。
 わざわざ助けてくれる所以なんてないはずなのに、どうして彼は。

 はぼんやりと考えながら、重たい瞼を押し上げた。彷徨わせた視線の先に求めたのは、一体何だったのだろう。

「お、気が付いた? 気分はどうだ?」
「っ!」

 は驚いて、反射的にシーツを頭までかぶって防衛の姿勢を取った。ライがいるなんて思いもしなかったのだ。
 おーい、と呆れた声色でシーツをひっぺ剥がされて、は気まずげに視線を逸らす。

「ベオクってのは便利だな。傷が綺麗さっぱり消えてる」

 ライの手が腕に触れ、不思議そうに指先で傷口があった部分をなぞった。
 はぎゅっと目を閉じる。痛みなどなく、くすぐったい感覚があるのみだが、それでも身体が細かく震えだす。じわ、と手のひらに汗が滲んだ。
 礼を言わなければ、そう思うけれど口は少しも動いてくれない。ライの手が離れた瞬間に、はシーツを手繰り寄せ全身を覆い隠した。声が出ない、かわりに震えた吐息が唇から漏れた。


「いや!」

 ライの手が再びシーツに触れた瞬間に叫んでいた。
 思わず自身も驚いてしまい、シーツを掴む手が緩んだ。叫び声に怯むことのなかったライがあっさりとシーツを取り上げる。ガラス玉のように綺麗なオッドアイにじっと見つめられる。

「ご、ごめんなさ……」
「なんだ、ちゃんと喋れんじゃん」
「え……」
「十分元気そうだな」

 ひょい、と魔道書を投げられて、受け取り損ねてベッドに転がる。ライが心底呆れた顔をしている。は恥ずかしくなってうつむく。

「失くさないようにちゃんと持ってろよ。大事なものだろ」

 言われて、は魔道書を抱える。
 確かに大事なものである、自分の身を守る道具だ。焼き尽くす魔法。ライにとっては天敵とも言える。
 血がついたりと薄汚れているそれは、今までが使い込んだ証であり、しっくり手になじむ。先の戦いで手ひどくやられ、失くしてしまったとばかり思っていた。よもや探してくれたのだろうか。はそっとライを窺い見る。

「あとさ」

 はびくりと震えて視線を逸らした。ふ、とライが笑う。

「別に取って喰ったりしないから、そんなに怯えるなよな」

 それだけ言って、くるりと踵を返す。
 は向けられた背を見つめた。自分にはない長い尻尾が伸びている。

 扉が閉められてから、お礼を言えなかったことに気がついた。ため息をひとつついて、シーツを引き寄せる。泣きたくなる気持ちで、胸を押さえた。
 そこにはいくら擦ったって消えない痣が浮かんでいる。

宙吊りシャンデリア

(落ちる恐怖におびえる)