!注意!
ガイア受けの描写があります(モブ男)。
許せる方はスクロールでどうぞ。
貴族というのはどうしてこうも悪趣味なのだろう。
最低な仕事だった、とそう片付けるほかないことが、悔しい。
ガイアは冷たい床に横たわったまま、視線を動かす。そこかしこに白濁した液体が、高級だろう大理石の床を汚してしまっている。さらに言えば、その液体はガイアの身体さえも汚していたのだが、それを認めることすら腹立たしい。
しかし、鼻を衝く生臭いにおいと、身体に残る痛みと倦怠感が、現実を突き付けてくる。
有り余った金のせいか、ずいぶんと肥えた中年の男の姿は、すでにない。
ふいに、視界に小さな手が映りこんだ。雑巾をもって床を懸命に拭いている──ガイアは視線を持ち上げてぎょっとする。自分よりもよほど幼い子どもが、この欲にまみれた下劣な場所にいることにも驚くが、ましてその後始末をさせられているなんて、信じがたいというよりも信じたくない気持ちのほうが強い。
ガイアは慌てて身体を起こし、その小さな手を掴んだ。しかし、自分もよほど汚れていることに気づいて、手を放す。子どもらしい大きな瞳は、不思議そうな瞬きをもって、ぼんやりとガイアを見上げた。
「あー……その、おまえ……」
「お身体を清めるなら、ご案内いたします」
子どもが澱みなく答える。何度も同じように後始末をさせられているのだろうことがわかり、ガイアは顔をしかめた。そして、この子どもがあの貴族に金で買われた奴隷であると気づくのに、時間はかからなかった。
ガイアは子どもの背中を確認する。小さな痩せた背にあまりに似つかわしくない、大きな焼き印が刻まれている。
子どもがわずかに身をよじって嫌がるそぶりを見せた。
ガイアの手から逃れた子どもが、睨むというにはあまりに生ぬるく覇気のない目で、じっと見つめてくる。痩せぎすの体躯、まばらに伸びた髪、ボロボロの布を纏った状態では男女の判断すらつかない。
ぱっと見、美しい金髪もよく見れば、くすんだ色をしている。
子どもがガイアの手を引いた。「こちらです」小さく柔らかい手は、ガイアの手に有り余る。
ガイアのような身分が使うにはおこがましく感じるほどの、広い風呂場で汚れを落とす。これまた無駄に広い脱衣所に戻れば、着替えが用意されている。ガイアが身に着けていたものは、おそらく処分されたのだろう。そのくらい汚れてしまった。
上質な布に袖を通す。ふと、洗面台にガイアが持っていた菓子がすべて一纏めに置かれていることに気づいた。妙に律儀だ、と首をひねりながらも、ガイアは砂糖菓子を口にする。
鏡越しに目が合って、ガイアは振り向く。先ほどの子どもが無表情で突っ立っている。ガイアは兄貴ぶるようにして、無理やり口元に笑みを浮かべ、くしゃくしゃとその頭を撫でてやる。
「ほら、やるよ」
ガイアは子どもの手に飴玉を握らせる。じ、と子どもの瞳は手のひらの飴玉を見つめて、動かない。
「いやなことは、甘いものを食べて忘れるに限る」
しゃがみこんで目線を合わせる。「おまえも大変だな。あんな奴に買われて」もう一度、くしゃりと髪を乱すようにして、頭を撫でる。子どもが視線をガイアに向け、首をかしげる。
「旦那様はおやさしいかたです」
「……」
「こちらが、報酬になります」
子どもの手には不釣り合いな、大きな包みが差し出される。ガイアはそれを受け取り、立ち上がる。「裏口までご案内いたします」と、風呂場に来る時と同じように、子どもがガイアの手を引いて歩きだす。
細い廊下を通って、屋敷の裏口へ出る。「じゃあな」ガイアは後ろ髪を引かれるような気持ちを抱きながら、素早く塀を乗り越えていく。
振り返って見た、戸口に立ったままの子どもはやはり無表情だった。
「もうっ、ったら、あんな朝早くから散歩に出かけていたんですのよ!」
キンキンと耳につくような甲高い声が聞こえて、ガイアは視線を向ける。眩しいほどの金色の巻き毛を、鬱陶し気にその持ち主の手が払う姿が見えた。「まあまあ、落ち着いて。マリアベル」親友であるリズが、ぷりぷりと怒るマリアベルを咎めている。
姦しい二人に見つからぬよう身を隠し、ガイアは安宿に置いてきた女のことを思い出す。
テミス伯の令嬢──かつて、ガイアが守ろうとした幼い少女ではない。
品のある言葉遣い、立ち居振る舞い、なにをとっても貴族の娘らしくともすれば、マリアベルよりもよっぽど淑女である。しかし、ガイアは知っている。の背にある焼き印も、それがもつ意味も、知っているのだ。
「なにか嫌な夢でも見たのかな? すこし、顔色が悪かったもんね……」
リズが心配そうにつぶやく。「リズが心配する必要、ありませんわ!」と、マリアベルがなおも怒った様子で言い募る。けれど、その勢いは風船がしぼむようにして、急速に失われていく。
「……なにも、言わないんですもの……」
寂しそうにつぶやかれたマリアベルの言葉は、に届くことはない。ガイアは気づかれぬようにそっと、その場を離れた。
広い食堂ではすこし遅い朝食をとると、その様子を見つめるクロムの姿があった。ガイアはなんとなく、気配を消して二人を見やった。妙に重い空気に感じるが、が黙々と食べ進めている。
「」
「……はい」
サラダに伸びたフォークが止まり、数泊遅れてが答えた。リズの言う通り顔色はすこしばかり悪いようだが、ガイアとのことも泣いたことも、嘘のようにいつもと同じ顔をしている。
「あまり、心配をかけるな。せめて置手紙のひとつでも書いておけばよかっただろう」
「……そうですね。失念していました」
「らしくないな」
じ、ともの言いたげに、がクロムを見つめる。しかし、その視線はすぐにサラダへと落とされた。そうして、また食事を黙々と食べ進める。
、ともう一度クロムが名前を呼ぶが、手が止まることも声が返ることもなかった。
「あれ? ガイアさん、なにしてるんですか」
ふいに後ろから声をかけられ、ガイアは思わずびくりと肩を揺らした。とクロムに気を取られ過ぎていたようだ。振り向けば、ルフレが不思議そうに首をかしげている。「ガイア?」食堂からクロムの声がして、ルフレがガイア越しに食堂を覗き込んだ。
が食堂の入口へと視線を向ける。「……、」ガイアはその顔を見る気になれず、さっと身を翻した。
「クロムさん、なにしてるんです。そんなふうに見られたら、食べづらいと思いますけど……」
ルフレの咎めるような声を聞きながら、ガイアは足早に立ち去った。
に言った通り、愚問なのだ。
ガイアは壁に背を預けて、ずるずるとしゃがみ込む。「あー……」情けない声を上げて、両手で顔を覆い隠す。くすんだ金色の髪が脳裏をちらつく。
なぜ、やさしくできないのだろう。あまりにも立場が違いすぎるからだろうか。いまだ汚い仕事に身をついやす盗賊風情には、もう触れてはいけない存在なのだ、とガイアはわかっている。
似たようなしるしを身体に持つくせに──
そんな苛立ちや羨望が、けっしてないわけではないということも、ガイアは気づいている。
「……ガイアさん?」
訝しげな声に顔を上げれば、マリアベルが眉をひそめてガイアを見下ろしている。ふん、と呆れたように鼻を鳴らし、腰に手を当てて顔を覗き込んでくる。
「あらいやだ、ガイアさん、風邪でも引きまして?」
そう言うマリアベルの顔は、わずかばかり心配が滲んでいる。はじめはあんなにつんけんしていたくせに、と思うと笑えてくる。かつての己の愚行について、すべてを話したわけではなかったが、この少女はすでにガイアに気を許し始めているようだ。「いや、なんでもない」ガイアはそっけなく告げて立ち上がり、首を横に振る。
「それなら、よろしいですわ」
マリアベルが腰に手を当てたまま、胸を張って満足気に言う。まるで家来に言葉をかけるようだな、とガイアは思った。こういった高飛車なところは、にはない。根本にあるのが、奴隷であるという卑下した思いだからだろうか。
ガイアはマリアベルを適当にあしらうと、行軍の準備のため部屋へと戻った。もちろん、武器の手入れなどではなく、菓子を全身へくまなく仕込むためである。
「おっと」
ころころと転がり落ちた飴玉を見つめて、ガイアは目を細める。あの子どもはあげた飴玉を食べただろうか。愚問だな、とガイアは心の中でつぶやいて、飴玉を拾い上げた。