ふいに袖を引く手が、天幕の隙間から伸びていて、フォルデはぎょっとする。
囁くような声で震える言葉が聞こえてくる。「助けてください」フォルデはすぐに声の主に思い至り、手を振り払った。
「なんで、俺?」
呆れながら呟いて、薄暗い天幕に足を踏み入れる。物に溢れて埃っぽい。フォルデは眉を顰めて辺りを見やってから、立ち竦むように佇むへと視線を向けた。
元グラド兵。ヴァルターの副官であった女。
その彼女が、今にも泣きだしそうな顔で、フォルデを見つめている。
「あのさ」
「お願いします、助けてください」
深く頭を下げるを冷ややかな目で見下ろす。
フォルデはと親しくなった覚えはない。むしろ、当初からの辛辣な態度を、すこしも崩さずに接している。──若干、我が主に振り回されている点には、同情を覚えるが。
「あんたを助ける義理はない」
「待、っ……」
「を見なかったか」
びく、との肩が跳ねる。
フォルデはおやと思い、天幕外から聞こえるエフラムの声に耳を傾けた。「いや、見てないならいい。どうやら避けられてるようだな」エフラムが苦笑する様子がうかがえる。が慌てて唇に人差し指を立て、息を潜める。遠ざかる足音にがあからさまにほっと息を吐いた。
こりゃなにかあったな。フォルデは後ろ首をこきりと鳴らす。
「逃げたって、意味ないと思うけど?」
がうつむく。フォルデは大きくため息をついて、腰を下ろした。適当に物をあさって、ランタンを取り出して灯りをつける。
話が長引くならば酒の一つでもあればいいのだが、昼間から飲んだくれていてはカイルにきつく叱られるのは目に見えているので自粛する。が破顔してフォルデの隣に座った。
「エフラム様をどうか説得してください」
額を地面に擦りつけんばかりの勢いだ。フォルデは肩を掴んで顔を上げさせる。
の首元にうっすらと残る歯形と、くっきりと付いた鬱血を見つけて、フォルデは僅かばかり瞠目する。に気づかれないようにすぐに視線を外した。
「わたしなんかに構わないようにお伝えしてください」
「言ったって、効果あるもんかね」
「す、好きだなんて、わたしには到底お答えできません」
「それはまたどうして」
フォルデは欠伸を噛み殺しながら尋ねた。
エフラムが次期国王たるルネス王国の王子だから、身分不相応という意味か。それとも、異性として恋い慕う感情がないからか。それとも他の理由から、エフラムの好意を受け入れられないのか。フォルデとて、エイリーク王女に淡い想いを抱いたこともあり、叶わぬ恋のやるせなさは理解できる。しかし、の場合は、エフラムが彼女に恋焦がれている。
「わたし、は、だって、こんなに」
きたない、と呟いたが、ぐっと握りしめた拳の上にひとつ涙を落とした。
フォルデには言葉の意味がわかりかねる。呆然とその涙の落ちる様を見つめていると、がついにはぐずぐずとしゃくりあげるので、ようやくフォルデは焦りを覚えた。
「お、おい。とりあえず、落ち着けよ。とにかく、エフラム様にはよく言って聞かせるさ」
濡れた瞳がフォルデを見た。「──、」フォルデは思わず言葉を詰まらせ、視線を逸らした。
はあ、とため息を吐いて立ち上がる。
「っフォルデさ……!」
が悲鳴じみた声を上げるのと同時に、崩れゆく荷物が視界を掠める。反射的に動いた身体はを庇い、背に崩れ落ちた荷物が当たる痛みにはっとして、フォルデは自分に嫌気がさした。
唖然としたの間抜け面をみて、さらに気分が滅入る。どうやら驚きで涙は引っ込んだらしい。
「いてて……」
「だ、大丈夫ですか! シスターを呼んできます」
慌てて立ち上がるの手を掴む。「いいって」と、フォルデは身体に付いた埃を払いながら言う。でも、と言い淀むに苛立ちを覚える。
自分のケガには随分と無頓着だったくせして──
「あのなぁ、このくらいでシスターなんて、大袈裟すぎる」
「フォルデ? と、か。今の音は……」
「エフラム様!」
フォルデとの声が重なる。フォルデは慌てて掴んでいたの手を離す。
「荷が崩れたのか。二人とも大事はないか?」
「心配には及びません。というか、お騒がせしてすみません」
「申し訳ございません! わたしが責任を持って片付けます」
が勢いよく頭を下げる横で、フォルデはポリポリと頬を掻く。エフラムが転がる荷物を拾い上げた。
「いいさ、荷の管理は任せてある」
「……すみません」
しゅんと項垂れるに対し、エフラムが軽く肩を叩く。そうして、ちらと向けられた視線にフォルデは内心で、舌打ちする。なんてタイミングの悪い。
悪いが助け舟は出せないぜ。フォルデは軽く会釈して天幕を出た。
の縋るような視線が痛い。が、エフラムの刺すような視線の方が、もっと痛い。フォルデは後ろ髪を引かれるような、喉になにかが痞えるような気持ちで、そそくさと後にした。
フォルデにならい、も会釈をして立ち去ろうとしたが、エフラムに手首を掴まれて身動きも取れない。狼狽えてばかりいると、あっという間に手籠めにされて、荷物の山に背中を押し付けられる。
ああ、蛇に睨まれた蛙──
はうつむいて、視線を落とす。
「」
エフラムの掌が頬を包んで、顔を持ち上げる。力強い視線に息が詰まった。
「や、やめてください!」
慌てて突っぱねるが、エフラムが動じることはない。
手首をやさしく捕らわれて、縫い付けられる。はぎゅっと目を瞑り、近づいてくる唇から顔を背ける。ふ、と笑う気配。
「目を閉じたのは失敗だな」
唇が、触れる、「た、たすけて、フォルデさん!」は叫んで、ありったけの力でエフラムを突き飛ばす。少しばかりよろけたその隙に駆け出す。
「待て、」
「っ!」
の足が、地面にくっつくように、動かなくなる。
「エフラム様、あんまり強引だと嫌われますよ」
はフォルデのとぼけた顔に、心底安堵を覚えて、じわりと涙を浮かべた。
フォルデの言葉に、エフラムはふむと思案顔だ。は足をもつれさせながら、フォルデの背に身を隠し、エフラムを伺い見た。「なんだ、随分仲がいいじゃないか」フォルデが嫌そうな顔をしながらも、を引き離すことはしない。
「そうか。そういえば、の気持ちを聞いていなかったな」
「わ、わたしは、……」
「嫌ならば、無理強いなどしない」
言い淀むの脇腹を、フォルデが急かすように突く。
「お、畏れ多いのですが、わたしはエフラム様のお気持ちには、答えられません!」
叫ぶようにして言った言葉は情けなくも震えていた。
「エフラム様に、好かれる資格もありません」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。わたし、は、……グレン様を……お慕いしていたグレン様を」
「……、もういい」
エフラムが言葉を遮る。はいつの間にか、自分が泣いていたことに気がついた。歪んだ視界の中で、エフラムがゆるくかぶりを振ったのが見えた。
目を閉じると、グレンの最期が思い浮かぶ。
「──グレン様を殺したのは、わたしです」
お慕いしていたのに、と呟いた声は自嘲にまみれていた。
「こんなわたしが、エフラム様に好かれるなんて、おかしいでしょう」