叱責ならばいくらされても構わないし、厭味を言われたとて痛くも痒くもない。嘲笑されることには慣れている。暗夜王城に仕える使用人は貴族ばかりで、外面だけは上品に繕っているが、陰口や陰湿ないじめじみた悪戯も多い。
は自分の未熟さを理解している。レオン専属メイドとはいえ、使用人としての立場は下っ端に過ぎない。
聞くに堪えない悪口も、普段は愛想笑いでやり過ごしてばかりだが、今回ばかりは聞き捨てならなかった。きゅ、とは拳を握りしめる。憤りと悔しさで拳が震えた。
「撤回してください」
「……え?」
くすくすと笑いあっていたメイドたちが、目を丸くして振り向く。
「今おっしゃったことを、撤回してください」
「あなた、誰に向かってそんな口を聞いているつもり?」
「生意気よ。あなたこそ、口を慎みなさいな」
不愉快そうに眉をひそめるその顔に怯むことなく、は睨みつけた。いくら先輩とはいえ、あまりにも許しがたい。
「ゼロを侮辱しないでください! 彼は、れっきとしたレオン様の臣下です。過去を面白おかしく想像して、下賤な輩と罵るだなんて、酷すぎます!」
確かにゼロがレオンと出会うきっかけとなったのは、彼が王城に賊として忍び込んだからであるし、貴族には想像もつかないことをして生きてきたのかもしれない。
だからといって、こんなふうに嗤われていいわけがない。
ゼロのことを何も知らないくせに、何ひとつ知ろうともしないくせに、こんな──
「酷いだなんて……私たちは本当のことを言ったまで。乳臭いあなたでも、下品でいやらしいゼロ様にお相手していただいたら、女になれるんではなくて? ねぇ、可愛い坊や」
ぎくりとの身体が強張る。
けれど、坊やだったのは、もうずっと昔のことである。いまの自分はレオンの専属メイドだ。
「ここだけこんなに立派になって。ふふ、ジョーカーは可愛がってくれた? マークス様の新しい臣下の方は、お優しかった?」
目を細めたメイドの指がもったいぶった動きで、の胸元に触れる。「いやねぇ、こんな娘に夜伽の手解きを任せなきゃいけないなんて」と、メイドが目の前でため息を吐いた。
はその手を払って、メイドの輪から距離を取った。
「あまりに下品なご冗談では?」
ジョーカーの名を出され、は思わず動揺する。気圧されたことを気取られたのか、メイドたちがくすくすと囁くように笑う。
「おやおや、愉しそうで何よりです。お嬢様方」
ふいに現れた浅黒い手が、の肩を抱き寄せた。気配を感じさせなかったが、それがすぐに見知ったものであると気づいて、は驚くより先に安堵した。
「だが、純情なをからかうなんて、イケナイな……」
いつものように、意味深な物言いで揶揄するようだったが、メイドたちを捉える隻眼は鋭い。家事労働だけをこなすわけではない暗夜のメイドも、ゼロから放たれた殺気に呑まれたように固まっている。
にや、とゼロの唇が弧を描く。
「そんなに愉しいことがシたいなら、俺がまとめて相手してヤるよ。下品でいやらしい、お嬢様方が満足できる遊びを、手取り足取り教えてやろう」
「……っけ、結構ですわ!」
悲鳴じみた甲高い声を上げて、メイドたちが蜘蛛の子のように散っていく。
は緊張で力んでいた肩から力を抜いた。
「ありがとう、ゼロ」
は眉尻を下げて笑い、ゼロを見上げた。にやにやとした笑みは消えていて、憮然とした顔がそこにあった。いつも饒舌すぎる口は、閉じられたままだ。
「ゼロ?」
きょとんと瞳を瞬いて、は首を傾げる。
肩に回されたままだった手に力がこもって、抱き寄せられる。完全に油断していたせいで、の身体はすっぽりとゼロの腕の中に納まってしまう。
「……そういや、明日か」
「え?」
耳元にぽつりと落とされた呟きの意味をすぐには理解できなかった。それに気づいてゼロがなおも独り言のような呟きで「レオン様と」と、続けた。
「俺としたことが、大事にしすぎちまったか」
「なに、を?」
「のハジメテを、あろうことか誰とも知らぬ野郎に奪われちまうなんてな」
腕の力をゆるめて、ゼロが顔を覗き込んでくる。は咄嗟に目を伏せて、視線を逸らす。
「さっきの奴らが言ってた通り、手解ききしてヤろうか」
「な、に……」
ゼロの長い指が、先ほどのメイドとは比にならないほどいやらしい仕草で、の胸元をなぞる。
は怯えた目でゼロを見た。
「ゼロも、わたしには経験が足りない、って言うの?」
それは確かである。乳臭いと嘲笑われても仕方がない。少し前まではは処女であり、性的な触れ合いはおろか、恋愛すら禄にしたことがなかったのだ。
ジョーカーが指導してくれたが、それだけでは不安だとメイド長に指摘され、はラズワルドに身を委ねた。嫌だとは言える立場になかった。
本当は、自分でも驚くくらい、ジョーカーとの経験を上書きされたくなかった。
「……わたしには荷が重いのかな」
は呟いて、俯く。
その日が近づくにつれて、不安な気持ちが大きくなっているのは事実だった。上手く指導する自信などない。
「」
ふう、とため息を吐いたゼロが、指先をずらして首元のブローチを弾いた。
「レオン様の前ではいつも通りでいい。初心なほうが男は燃えちまうモンさ。多少たどたどしいくらいが丁度イイ……」
顎先を掬い上げられて、は戸惑いながらゼロを見上げた。隻眼が可笑しそうに弓なりに細められる。輪郭をなぞった指先が、唇に触れる。
「俺の経験はお前の想像の遥か上をイっちまってるぜ? ちゃんには刺激が強すぎるかもしれないな。明日には足腰立たないくらい……たっぷり、じっくり、可愛がってヤっても良いんだが」
はゼロの指から逃れて、壁に背を付けた。しまった、と思ったときには距離を詰められて、手首を壁に縫い付けられる。
「ラズワルドはどんな奴だった? どんな風にお前に触れた」
笑みもなく、じっとを見下ろす瞳は、苛烈な色を宿すようだった。けれど、そんなふうに見えた瞳はすぐに閉じられて、手首を解放したゼロの顔にはいつもの飄々とした笑みが浮かんでいた。
ひら、と軽く手を振られる。
「冗談だよ。同僚に手を出すほど、女に飢えちゃあいない」
「……うん、」
ほっと胸を撫で下ろすが、には釈然としない気持ちがあった。それを押し殺すように瞼を下ろす。
「綺麗なお顔をしてるが、レオン様はアレで立派な男だ。安心して身を任せりゃイイさ」
喉の奥で低く笑って、ゼロは素早く踵を返した。ゼロ、と呼んだ声には振り向きもしなかった。
は壁に背を預けたまま、ずるずると崩れてその場に座り込む。レオンが男であることなんて、そんなことはわかりきっている。出会った頃は性別の違いなんて意識すらしていなかったのに、いつの間にかレオンの背は高くなり、喉仏がはっきりとして声が低くなった。一方のは身体つきが丸みを帯びていくばかりで、鍛錬に励んでも筋骨隆々とした肉体は手に入らないと嫌でも自覚させられる。
涙を拭ってくれたレオンの手は、の記憶のなかではいつまでも小さいままなのに。
いつかお守りすることできなくなるんじゃないか、そんなことばかり考えては怯えている自分が、愚かで滑稽だった。