──いびつだったわたしを、ジョーカー様はもとのあるべき姿に戻してくれた。

 わたしが北の城塞にきて間もないころ、家から一通の手紙が届いた。てっきり母親からの手紙だと思って開けたのだが、そこに綴られていた文字は見慣れない父のものだった。「お母さまが、自殺……」信じられなかったけれど、よくよく考えれば不思議ではないことだった。もうずいぶんと前から母は心の病気だった。
 父の無機質で事務的な手紙には、こんな一文があった。
 もう長男のふりはしなくていい、母親ではなく自分のために生きなさい。今の今まで母にもわたしにも無関心だったくせに、なんて自分勝手なんだろう。わたしは、父親がきらいだった。心のどこかでは、もしかしたら母のことも好きではなかったのかもしれない。だって、涙なんて出やしなかったのだ。

 その手紙はびりびりに破いて、燃やしてしまった。
 ほんとうに、今さらだった。ずっと母のために長男として生きてきたわたしは、自分のためと言われてもすこしもぴんとこなかったし、“わたし”というものがわからなかった。だから、母の死をしってもなおそれまでと変わらずに、執事見習いとして過ごすほかなかった。


 そうやって過ごして、気がつけば半年が経っていた。指導してくれるジョーカー様は厳しいけれど、主であるカムイ様はとてもやさしく気さくで、この城塞がとても心地の良いものとなっていた。

 けれどその日、わたしは絶望的な気持ちに陥っていた。
 不快感で目を覚ましたわたしは、不審に思ってみたシーツが赤く染まっていて、頭が真っ白になった。恥ずかしながら、それがなんなのかさえそのときのわたしにはわからなかったのだ。なんとかしなければ、と思って廊下に出たはいいけれど、ほんとうに頭が真っ白でただシーツを抱えて暗い廊下を歩いていた。

 あてもなくふらふらしていると、ジョーカー様がわたしを見つけた。縋りたい気持ちと逃げたい気持ちに襲われて、どうすべきか考えているうちに、あっという間にシーツを奪われた。「初潮か?」ジョーカー様が訝しむ声に、わたしはようやくそれが月経であると気がついた。
 同時に、とても情けなくて恥ずかしくて、声を上げて泣いてしまったのだ。
 そんなわたしを尻目に、ジョーカー様の対処はとても迅速であった。湯浴みをさせてもらううちにすこしずつ頭が冷静になって、男性であるジョーカー様にとんでもないことをさせてしまったと思い至った。

 ジョーカー様は怒っていた。たしかに、怒っていたのだけれど──でも、男と偽っていたことを責め立てず、月経の知識がないことも気味悪がることはしなかった。それからわたしはあっという間に、執事見習いからメイド見習いとなり、女として生きることを許された、ように思った。
 カムイ様と別れることは悲しかった。カムイ様も寂しそうに、別れを惜しんでくれた。
 ジョーカー様はせいせいする、と言った顔をしていた。邪魔ものがいなくなった、とお考えだったのかもしれない。だけど、カムイ様の手前では笑みを浮かべて、見送ってくださった。

「ま、せいぜい俺の指導を胸に、王城でも頑張ることだな」

 ジョーカー様の、その言葉だけで、わたしはがんばれる気がした。ジョーカー様がわたしの存在を嘲たり、気持ち悪がったり、否定したりしなかったから、わたしは今のわたしになれたのだと思う。
 執事長は、わたしの神様みたいな、ひとだ。





 なんて立派なお姿なんだろう。戴冠するレオン様を目に焼き付けたいのに、視界がにじんでしょうがない。

、泣いている暇があるのか?」

 そうやってレオン様の戴冠に感動していると、後ろからふう、とため息とともにゼロの声が聞こえた。それにわたしははっとして振り返り、慌てて涙を拭った。ゼロの言う通りだ、泣いている暇はない。

 わたしはいまだに答えを見つけられずにいる。
 ジョーカー様の言葉は、夢のようで、ほんとうに天にも昇るほどうれしい。あの鬼のような執事長が、まさかあんな台詞をわたしにささやくなんて、考えたこともなかった。だけど、ジョーカー様と結婚するということは、暗夜王国を離れることを意味している。ジョーカー様が生涯カムイ様にお仕えすることは、わかりきっている。

「そろそろ、お迎えが来る頃だろう? ぐずぐずしてると……くく、ほーら……待ちきれないとばかりにお目見えだ」

 ゼロの無駄に艶っぽいささやき声と、あまりに近すぎる距離に、肘鉄砲をお見舞いする。
 ぐ、と身体を折りながらうめくゼロを無視して、わたしは恐る恐る振り向いた。執事長、と叫びたいのに、わたしの口からは吐息が漏れるだけだった。情けない。
 ジョーカー様がゼロを空気のように目もくれず、近づいてくる。あわわ、とオーディンの慌てふためく声が聞こえた。

「久しぶりだな、

 そう言ったジョーカー様は、これ以上ないくらいいい笑顔を浮かべていた。しかし、わたしは知っている。カムイ様以外に向ける満面の笑みには、裏がある──ジョーカー様の手がわたしの手首を掴んだ。びく、と条件反射のように肩が跳ねる。
 逃げるんじゃねえぞ、というジョーカー様の心の声が聞こえた気がした。

 ジョーカー様が視線だけで、ゼロとオーディンを追いやってしまう。
 思わずうつむいてしまったが、ジョーカー様の指が顎にかかって、顔を上に向かされる。戸惑いと期待と不安と、様々な感情が混ざり合って、どんな顔をしているのが自分でもわからなくなる。だれにも言えない本音は、いっそのこと強引にジョーカー様に白夜王国へ連れ去ってほしいのだ。
 ジョーカー様の顔が近づいてきて、わたしは瞼を閉じる。顎先の指が動いて、手のひらが頬を包んだ。

「答えは決まったか?」

 鼻が触れるほどの近くで、ジョーカー様が問いかける。ふ、と感じる吐息に、身震いしてしまう。首を横にも縦にも振れなくて、ただ身を強張らせているとジョーカー様が離れるのがわかった。恐る恐る目を開けるが、ジョーカー様はわたしを見ていなかった。
 わたしはその視線の先を追って、振り向く。

「レオン様。あまりに立派なお姿に、このジョーカー、感激いたしました」

 ジョーカー様の称賛が、ちっとも心が籠っていないように聞こえたのは、わたしだけではなかったようだ。レオン様が眉を跳ね上げた。

「白々しいぞ、ジョーカー」
「まさか。心からのお言葉にございます」

 小さくため息をついたレオン様が、わたしを振り向く。どきりとした。それと同時に、先ほどまでの感動がこみあげてきて、目が潤む。この気持ちを伝えたいのに、わたしには今そのすべがない。
 金魚のように口をパクパクさせていると、レオン様がふっと微笑んだ。そして、レオン様の手がわたしの頭を撫でる。
 ち、とジョーカー様の舌打ちが聞こえたような気がしたが、恐ろしくて振り向くことができない。

「ジョーカー、悪いがと二人きりにしてくれないか。大事な話がある」
「私に断りなど不要ですよ。どうぞ、ごゆっくりお話しください」

 ジョーカー様が恭しく頭を下げて退席する。わたしはその後姿を見つめていたが「」と、レオン様に呼ばれて視線を移す。
 ふいに、レオン様の腕がわたしを包み込んだ。

「……戴冠したよ」

 わたしは腕の中で頷く。

「……マークス兄さんが継ぐものだとばかり思ってたのにな」

 もう一度頷く。

「ちゃんと、見ててくれたんだろ」

 ぎゅ、とレオン様の腕の力が強まって、顔がレオン様の胸にうずまる。もちろんです、と答えたいけれど、この口は呼吸することしかできないポンコツだ。でも、きっとレオン様にはなにも言わなくったって、わたしの考えていることなんてお見通しなのだろう。
 わたしが、最近思い悩んでいることだって、きっとレオン様は知っている。



 レオン様が身体を離し、顔を覗き込んでくる。レオン様、とわたしの唇は動くのに、そこから声が出てくれない。

「僕のことはなにも心配いらない。ちょっとあれだけど、優秀な臣下もいるしね。だから」

 だから?
 わたしは、レオン様になにを言わせようとしているんだろう。慌ててその口を抑えようとしたのに、レオン様がまたわたしを抱きしめるから、その言葉は耳元で紡がれる。

「だから、は自分の気持ちに素直になっていい」
「……!」
「ジョーカーの元でもどこでも、好きなところに行きなよ」

 わたしは思わずレオン様を突き飛ばした。すこしだけよろけたレオン様が、驚いた顔でわたしを見ている。
 ──わたしは、ジョーカー様みたいになりたかった。主のことを一番に考えられる従者になりたかった。わたしだって、ほんとうは、レオン様に生涯お仕えしたい。
 レオン様に気を遣わせて、言いたくもない言葉を言わせて、わたしはメイド失格だ。

「……っ、レオ、んさ、まの、お傍に、」

 久しぶりに働いた声帯はうまく動いてくれなくて、ひどく掠れた声が出て、すぐに咳き込む。「!」レオン様の手が、背をさすってくれる。

「……レオン様のお傍に、ずっといるって、言ったじゃないですか……!」

 自分でもどうしたいのかよくわからなくなってしまう。ぼろぼろと涙があふれる。ジョーカー様のことはすきだ。でも、レオン様のことだって同じくらいだいすきなのだ。それは、恋愛という意味合いではないけれど、どちらも大事でたまらない。

 わたしの醜い声が聞こえたのか、ジョーカー様が飛び込んでくる。泣いているわたしと、その背をさするレオン様を見て、ジョーカー様は冷静な顔でハンカチを差し出してくれた。

「ゆっくり深呼吸しろ、興奮しすぎだ」
「は、はい」
「喉は痛むか」
「……すこし……」

 ジョーカー様に言われるがまま深呼吸を繰り返す。「大丈夫?」と、レオン様が顔を覗き込んでくる。涙は次から次へとあふれてくるが、わたしはちいさく頷いた。

「……僕は、に幸せになってもらいたいんだ」
「え……?」
。おまえがジョーカーと結婚するっていうなら、僕は心から祝福するよ」

 レオン様が美しいかんばせを綻ばせた。暗夜王国の新たな王となったレオン様をお傍で支えたい、それはわたしの本心のはずだ。「でも、レオン様、」相変わらず、情けないくらいに声は掠れている。

「レオン様がそうおっしゃってくれるとは思いませんでした」

 ジョーカー様が意外そうに目を瞠る。「僕だって、もう子どもじゃないからな」と、レオン様が不服そうに目を逸らした。背をさすっていたレオン様の手が離れて、代わりにジョーカー様がわたしの背を撫でる。

「答えは出たか? レオン様も背を押してくれるようだぞ」

 ジョーカー様は問いかけるとういうよりも、確認するような口ぶりだった。レオン様の顔を見やると、やさしい笑みと頷きが返ってくる。
 ああ、やっぱりわたしは、ジョーカー様みたいにはなれないんだな。
 わたしはジョーカー様を見上げる。

「わたし……ジョーカー様と結婚します」

 ジョーカー様が満足そうな笑みを浮かべて、わたしの涙をやさしくぬぐった。
 カムイ様が一番でも構わない。それでも、ジョーカー様にこうやって笑いかけてもらいたいし、触れてもらいたいのだ。「まったく、仲がいいのは構わないけど……僕がいること忘れないでくれないかな」レオン様のぼやきは確かに聞こえていたのに、わたしはジョーカー様の口づけを受け入れていた。

トロイメライに沈む

(これが夢ではないように願った)