ふっ、との身体から力が抜けて、そのままくずおれる。ジョーカーは反射的に抱き止め、冷たくかたい床にその身が打ち付けられるのを防いだ。ジョーカーの腕を縋るように掴みながら、がずるずるとへたり込む。
ち、とジョーカーは舌打ちする。
の顔はジョーカーを見ることなく、ただ呆然と前を向いていた。
カムイとマークスの一騎打ちに、手出しできないもどかしさを抱きながら、ジョーカーはカムイをひたすら信じてその動向を見守っていた。だれがこうなることを予測しただろうか。
カムイの腕の中でマークスが息を引き取った。その傍らには、血まみれのエリーゼが横たわっている。
フェリシアがみっともなく、顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。ジョーカーはへ視線を落とす。その顔に涙はなかった。そうして、広間からカムイの泣き声が聞こえてきて、ジョーカーは顔を歪めた。
それでも、主は目的を果たすため立ち止まらないことを、ジョーカーは知っている。
「立て、。てめぇが立ち止まってどうする」
ジョーカーの言葉を受けてなお、座り込んだままのに苛立ちが募る。ちっ、とジョーカーは再び大きく舌を打った。いつもならば、それだけで大袈裟なほど竦みあがるからは、ろくに反応がない。
やるせなさ、くやしさ、かなしみ、いきどおり。
いま、それを一番に感じて、吐き出してもいいのはカムイだ。
「おい……!」
ジョーカーは苛立ちをもって、の腕を掴んだ。呆然としたままの間抜けな顔が、ジョーカーをゆっくりと見上げた。執事長、と音なくの唇が動いた。
「いい加減にしろ!」
ジョーカーは、怒りのままの頬を打った。加減したとはいえ、いかつい籠手のせいで、それは平手打ちなどと呼べるような可愛い代物ではなかった。その白い頬は見る見る赤く腫れ、あまつさえ血がにじんだ。ぐら、と傾いて倒れかけたその身体を、肩を掴んでとどめる。
「カムイ様のお気持ちを考えろ、てめぇがめそめそしんてんじゃねえ」
フェリシアでさえ、必死に泣き止んで、鼻をすすりながらももう涙をこらえている。静かなすすり泣きは聞こえるが、カムイの泣き声だけがこの場に大きく響いていた。
覗き込んだの顔がくしゃりとと歪み、その瞳から大きな涙がぽろりと落ちた。
がジョーカーの手を振り払った。こんな反抗的な態度は初めてである。ジョーカーは思わず目を瞠る。
「わたしはっ!」
の声は震えていた。ぽろぽろと、次から次へと涙があふれて、の頬を伝い落ちていく。
「ジョーカー様みたいにはなれないんです!」
涙で濡れた瞳がジョーカーを睨みつけたが、すぐに伏せられる。ジョーカーは怪訝に見つめるが、その視線から逃れるようにがうなだれる。
「……ジョーカー様みたいに、なれないんです…………」
その言葉がどういった意味を持つのか、ジョーカーには正確に理解することなどできない。
ジョーカーはしばらくのつむじを見下ろしていたが、ふんと鼻で笑うと、ぐいと襟元を掴んで引き寄せた。ぐっ、と首が詰まって、が苦しそうに顔を歪めた。
「それがどうした。てめぇごとき、俺の足元にも及ばんことぐらい、百も承知だ」
は、と喘ぐように息を漏らしたが、唇を噛みしめる。ジョーカーは決してカムイには向けない冷たい表情を浮かべながら、顔を寄せた。
──くだらねぇ。馬鹿馬鹿しい。どこまで愚図だ。
ジョーカーは、寝言と一蹴したの涙を、脳裏に過ぎらせた。
「使用人が伴侶を娶ってはいけないと決まりがあるか? ぐだぐだ言わずに、てめぇは言われた通り、カムイ様をお守りすることだけ考えろ」
手を離すと、が大きく息を吸い込んで咳き込む。
響いていた泣き声が消えたことに気づいて、ジョーカーは素早くカムイへと寄り添う。ジョーカーはごく自然にカムイへハンカチを差し出しながら、の机に置かれた白いハンカチを思い出した。を振り返れば目元を強くこすっている。
ジョーカーはため息をひとつ吐くと、再びの元へと近づいた。そうして、その手首を掴む。
「赤くなるだけだと何度言えばわかる」
ジョーカーは思い切り顔をしかめ、ハンカチをの顔に叩きつけるようにして投げて渡す。「いい加減泣き止まんと、敵が見えなくなるぞ」ジョーカーは心底呆れる。が恐縮して竦みあがる。
「は、はい……」
ジョーカーはが頷くのを確認し、そのまま腕を掴んで引きずるように歩き出す。わ、と時おり小さく声を上げながら階段に躓くので、その度ジョーカーはを引っ張り上げ、歩く速度をゆるめた。
階段を上りきるころには、の涙はすっかり渇いたようだった。
ジョーカーは赤みの残るの目尻に触れ、そのまま痛々しく腫れたままの頬へと指をなぞらせる。
がさっと目を伏せた。
ジョーカーはすこしだけ水分を含んで重たげなその睫毛を見つめながら、杖を掲げた。頬の傷がすうっと消えてなくなる。
「気合を入れろ。絶対に、死ぬんじゃねぇぞ。いいな?」
すべてが終わったら、の気持ちに答えてやってもいいだろう。その言葉を告げる相手を失っては元も子もない。この先の戦いは、おそらく最後となり、これまでで最も熾烈を極めることが容易に想像できる。
ジョーカーはから離れ、カムイの傍に寄り添う。
カムイが緊張した様子で剣を握り直し、目の前の巨大な扉を睨みつけた。そうして、扉を開け放つ。
「ここですか、ガロン!!」
信じられない、というよりも信じたくない、という気持ちがジョーカーの心の中に広がっていく。
竜に姿を変えたガロン王の前に倒れたカムイが、ぴくりとも動かない。
「カムイ様……どうかお目覚め下さい! このようなところで別れるなど……絶対に嫌です!」
だれがどんなに声を張り上げようと、カムイが反応することはない。なおもガロン王の熾烈な攻撃は続いており、油断すれば全滅してしまう状況であり、床に倒れたままのカムイに近づくこともままならない。ジョーカーは舌打ちする。すぐにでもカムイをこの腕で抱き起こしたい。
「カムイ、さま」
ふら、とが覚束ない足取りで前に進み出る。
神器を持つ王族でも苦戦しているというのに、一介のメイドになにができるというのだ。ジョーカーは止めようと手を伸ばすが、ガロン王の攻撃が迫り距離を取らざるを得ない。
が床に散らばった、砕けた夜神刀を拾い集める。
「小賢しい……無駄なことを!」
ガロン王の爪が掠めても、が怯む様子はない。ジョーカーは怪訝に眉をひそめた。
刀を腕に抱いたがカムイの前で膝を折る。「カムイ様」と、がやわらかい笑みを浮かべたのが、離れた位置でもわかった。
「ジョーカー様が信じるカムイ様を、わたしも信じます」
あたりがまばゆい光に包まれたのと、ガロン王の狂爪がの背を抉ったのは、ほとんど同時だった。思わず瞑った目を開けたときには、カムイが夜神刀を手にして立ち上がり、その腕にはを抱えていた。ぐったりとして動かないの怪我は見るからにひどい。
──ジョーカーには、思いもよらないことだった。
再び立ち上がったカムイに対する喜びよりも、が倒れたことに対する焦燥のほうが、ずっと強かったのだ。カムイにを託されたジョーカーは、ガロン王に向かっていくカムイを見る余裕すらなく、ただの無事を祈って杖を掲げた。
泣く、という行為もほとんど忘れかけていたから、伝い落ちたそれが涙だとジョーカーは気づかなかった。汗だとばかり思っていたが、目を開けたがそっと目尻に触れて、はじめてジョーカーは自分が泣いていたと知った。
ふ、とが目を細めて微笑んだ。
ジョーカーは衝動をそのままに、を胸に掻き抱いた。
「……無茶しやがって……」
まさか、カムイの死よりもの死を恐れるなど、ジョーカーにとってはにわかに信じがたい事実だった。カムイとそれ以外だったはずなのだが、いつからそうでなくなっていたのか、ジョーカーにもわからない。
震えるの手がぎゅっと背中に回されても、泣き言もなにも腕の中からは聞こえなかった。
「……?」
恥ずかしそうに頬を染めたが、そろりと顔を上げ、困ったように眉尻を下げた。唇が動くが、声が発せられることはなかった。
ガロン王がカムイに敗れ、泡になって消えていくのが傍目に見えていた。
リョウマの戴冠式には、暗夜王国のカミラとレオンも招待されている。貴賓席でレオンの姿を確認したジョーカーは、も来ているということを確信していた。戴冠の議を終えて、仰々しい雰囲気はなくなり、カムイの肩からも力が抜けている。
別室に控えていたジョーカーは戴冠が終わったのち、いつものようにカムイの傍に立ちながら、ほかのことへ気が向いていることに気づいて内心で舌打ちする。
「カミラ姉さん、レオンさん……! 今日は来てくれてありがとうございます」
カムイに近づいてきたふたりのすぐ傍らに、申し訳なさそうに身を恐縮させたがついてきている。「さんも、ありがとうございます」カムイがその姿に気づいて、にこりと笑いかけた。
「ええ、のおかげで、レオンも衣装を裏返すこともなく済んだわ」
「カミラ姉さん!」
ジョーカーはきょうだいのやり取りを横目で見ながら、の腕を掴んだ。「申し訳ありません、少々お借りいたします」一応断りを入れたが、ほとんど有無を言わさぬ態度で、ジョーカーは素早くを連れ出した。
「相変わらずのようだな」
ジョーカーの言葉に、が目を伏せた。
なにか言いたそうに開かれる唇からは、吐息が漏れるのみである。精神的なものだろう、と医者は言った。あれ以来、の声は出ていない。
ジョーカーは、その下唇に親指を押しあてる。「閉じろ」が唇を一文字に結んだ。
「ひとつ、謝らなきゃならないことがある」
「……?」
「てめぇの気持ちを、寝言だなんて一蹴して、悪かった」
「……!」
が大きく目を見開いて、見る見るうちに顔を真っ赤にさせる。ふるふると首が横に振られた。
「今さらだが……」
ジョーカーは腰をかがめ、の耳元に唇を寄せた。びく、とが震えるのがわかった。「俺は、お前を傍に置きたい」親指を置いたままの唇が、わななくように震えた。
「つまり」、とジョーカーは耳穴に息を吹きかけるようにして、ささやく。ふにと下唇をやさしく押して、すこしだけ前歯に触れる。びくりと再びが震えた。
「俺と結婚してほしい」
は、と唇から短く息が吐きだされる。
の手が慌ててジョーカーを押し退けた。「嫌なのか?」ジョーカーは大袈裟に傷ついたようなふりをして問いかける。が泣きそうな顔をして、勢いよく首を横に振った。「じゃあ、嬉しいか」と言えば、が躊躇いがちに小さくひとつ頷いた。
それだけで十分と言えば十分なのだが──
「、帰るよ」
がはっと息をのんで、振り返る。ジョーカーは何食わぬ顔でレオンを見やる。「悪いね、ジョーカー」レオンがジョーカーとの顔を見比べて、気まずそうに目を逸らしながら言った。
「とんでもございません。レオン様もお忙しい御身ですからね」
が自然な動きでレオンの傍へと付き従う。それは、ジョーカーがカムイにするのと変わりがない。が一瞬だけ、泣きそうな顔でジョーカーを見たが、すぐに笑みを張りつけてレオンに向き直る。
ジョーカーには、の葛藤がわかる。
二度とレオンを裏切りたくない、とその言葉の通り、以前よりも殊更レオンに忠誠を誓っているのだろう。ずっと傍にお仕えしたい。しかし、ジョーカーと結婚するとなれば、そうはいかない。ジョーカーとて、いくら愛するものためであっても、カムイへの忠心は揺らがない。
だからと言って、簡単に諦めるようなジョーカーではない。
「。レオン様の戴冠式まで待ってやる。それまでに答えを出せ」
が目を伏せる。それでも、小さな頷きが返ってきた。「行くよ」と、レオンが外套を翻した。そのレオンの美しい横顔にも、迷いの表情が窺えるように見えた。