「ジョーカーさん、まだお仕事していたんですか?」
「当然でございます。私はカムイ様の執事ですから、カムイ様がお休みになるまで、お傍に仕えますよ」
ジョーカーはにこにこと微笑みながら、カムイに答えた。白夜王国で過ごす日々にもカムイがようやく慣れてきたということは、常に傍に控えるジョーカーには明白であった。「うーん」と、難しい顔をするカムイに、なにか悩みごとでもあるのかとジョーカーは不安になったが、それは杞憂に終わった。
「さん、待っているんじゃないですか? 今日はもういいですから、帰ってあげてください」
「カムイ様、そのような心遣いは不要です」
「いいえ。これは命令です! さ、ジョーカーさんは早く帰ってください」
カムイにそう言われては、ジョーカーも強くは拒否できない。ぐ、と思わず言葉に詰まっていると、カムイが急かすようにジョーカーの背を押した。
「フェリシアさんもいますし、私のことは大丈夫ですよ」
フェリシアこそが不安の種なのだが、彼女もこの戦において成長していることは、ジョーカーも認めざるを得ない。すこし考えてから、ジョーカーは恭しく頭を下げた。どうせ、もうカムイにはなにを言ったって、帰れの一点張りで譲らないのは目に見えている。
「それでは、本日はお暇させていただきます。カムイ様はお優しいですね」
ジョーカーは帰り際、主を褒めたたえることも忘れない。カムイが照れながら呆れているのを背中で感じながら、ジョーカーは帰路を急いだ。
「もう、ジョーカーさんったら……ふふ、でもあんなに嬉しそうに帰るジョーカーさんははじめて見ますね」
帰宅すると、机に向かうの姿があった。真剣な表情で手紙を綴るの背後から、気づかれぬようにそっと盗み見て、ジョーカーは小さくため息をついた。がはっとして振り向く。
「おかえりなさい、ジョーカー、さん。今日は早いですね」
結婚してもなお、たまにジョーカー様やら執事長やらと、いまだに呼ばれることがある。がすこしだけ言いづらそうに、ジョーカーの名を呼んだ。「ああ、まあな」と、ジョーカーはそっけなく答えながら、ベストを脱ぎタイをゆるめる。が自然にベストを受け取って、ハンガーに掛けた。
「またレオン様に手紙か。……おい、カムイ様のことを子細に書きすぎだ」
「そ、そうですか?」
「書き直せ。カムイ様のプライバシーに関わる」
が眉尻を下げて頷く。相変わらず、従順である。
「しかし、レオン様もお忙しいだろう。あまり頻繁に手紙を送っては迷惑になるぞ」
もう暗夜の第二王子ではなく、暗夜王なのだ。いちいち手紙に目を通し、返事を書くほど暇ではないだろう。「でも、レオン様に知っていただきたいんです」言いながら、が目を伏せて、そっと手紙に指を這わせる。長い睫毛が、の肌に繊細な影を落とした。
ジョーカーはそれを見て、無意識にの頬に触れていた。きょとんとした瞳がジョーカーを映す。
「ジョーカー様?」
が言ってから、はっとして口を押さえる。ジョーカーは小さく笑った。「いい加減、慣れろ」耳元で低くささやけば、の肩がかすかに跳ねる。
ぎゅ、との手がシャツを掴んだので、ジョーカーは顔を覗き込んだ。
恥ずかしそうに顔を真っ赤にしたが、上目遣いにジョーカーを見る。「あ、あの」震えるように開いた唇に噛みつくようにキスをする。カタ、との手に触れて倒れたインク瓶が、机の上と手紙を黒く汚すがジョーカーは気に留めなかった。
する、と服の隙間から手を滑り込ませ肌に直接触れると、が身体を強張らせた。
「っ、ん、は……っ、ジョーカーさんっ、こ、こんなとこ、ろで」
「問題あるか?」
「あっ」
やわらかな膨らみに触れれば、が甲高い声を上げた。そうして、恥ずかしそうに唇を一文字に結ぶ。じっとジョーカーを見つめる瞳が、次第に潤む。
「あ、明るいですし、恥ずかしいです」
が手の甲で口元を押さえながら、震える声で告げた。そうか、とジョーカーは頷きを返し、笑顔を向けた。ひっ、とが素っ頓狂な声を上げた。
「それだけなら、特に問題はねぇな」
気だるげにのろのろと動く手が、灯りを小さくした。外はすっかり暗く、橙色の灯火にのシーツをまとっただけの裸体がぼんやりと浮かび上がる。ふう、と小さく息を吐いたが、布団の中へと身を滑り込ませてくる。
ジョーカーは目を細めてその様子を見ていた。
ぴたり、となにもまとっていないジョーカーの胸へ、の顔がくっつく。ジョーカーはやさしくの髪を梳いてやる。すこしだけ、くすぐったそうにが身を竦めて、くすくすと笑った。
「手紙、だめにして悪かった」
「いいえ、いいんです。どうせ書き直すものでしたから」
がなおも笑ったまま、答える。ジョーカーは滑らかな肌に手を這わせ、を抱きしめる。
「レオン様は、もうカムイ様を姉さんとは呼ばないかもしれません。でも、暗夜王国と白夜王国は、きっと歩み寄れます」
そう信じて疑わない、といったふうに、が言う。
ジョーカーは「そうだな」と、顔を埋めたの髪から香る自身の匂いと石鹸の匂いを感じながら、つぶやくように答える。北の城塞にいたころとは、もう状況がまったくと言っていいほど違う。しかし、カムイが悩みながらも選び取った未来が、明るくないわけがないのだ。
「」
「はい、なんですか? ジョーカーさん」
ちゅ、との耳たぶに口づけを落とす。
「レオン様ではなく、俺を選んだこと、後悔はさせない」
ささやく声に、がすこしだけ身を竦めて「後悔なんてするわけないです」と、ちいさな声で答えた。ジョーカーは満足に笑って、を抱きしめる腕に力を籠めた。
またお会いできる日をお待ちしています、といつもの決まり文句を綴り、最後に自分の名前を添える。ジョーカーの言う通り、レオンからの返事は滅多にない。いくら優秀なレオンとは言え、暗夜王となったいまでは息つく暇もないのだろう。
は身勝手とわかっていながらも、こうして手紙を書いては送っていた。
「なにも白夜王国で挙式しなくても」、と文句を言いながらも、レオンが忙しい合間を縫ってわざわざ結婚式に参加してくれたことは記憶に新しい。それになんだかんだ言いながらも、祝福してくれたのには違いない。
は思い出して、頬がにやけるのを止められない。
いつの間にかいなくなってしまったオーディンと同じように、もまた離れてもなおレオンの臣下であり続けることを許されている。
「もうすこし、落ち着いたらきっと」
いつかのように、カムイとレオンが席を共にして、お茶を飲めるはず──は目を閉じて、その光景を想像する。
手紙を丁寧に折りたたんで、便せんへと入れる。
「ジョーカーさん、今日も早く帰ってこないかな……」
ぽつり、と小さくつぶやく。甲斐甲斐しくカムイの世話を焼くジョーカーと違って、は手持ち無沙汰なほど、毎日ゆったりとした日々を過ごしている。ふいに昨日のことを思い出して、ひとりで顔を赤くして、はふうとため息をついた。
ジョーカーと過ごす日々はこの上なく幸せである。
「おいしい夕食作って待ってようっと」
はウキウキとした気分でキッチンに立ち、ジョーカーの好物であるフルーツを手に取った。そうして、上機嫌に鼻歌を歌い始めるのだった。
【忠実なる執事】と【執事だったメイド】──
夫ジョーカーは、終生を執事として主人のためにつくし続けたが、その真の愛情は妻に注がれていた。妻となったはレオンの元を離れてもなお、レオンがカムイと笑いあえる日々を願っていたという。