の母親は、美しいひとだった。
 長い髪がよく似合う、色白で小柄な女性だった。少女のように笑うひとだった、と昔から仕えるメイドがこっそりと教えてくれたように、家に飾られた絵画の中で若い母は輝く笑顔を見せていた。最も、はそんなふうに笑うところを見た覚えがなかった。

 いつも、カーテンを閉め切った、薄暗い部屋に母親はいた。一日のほとんどをベッドの上で過ごした。身体を壊していたわけではなかったが、ある意味では病に臥せっていたと言える。「」と、そう名を呼ぶ声は、とても甘い響きを持っていた。
 母親の部屋はとても広かったが、とても息苦しかった。にとっては、あの家全体が息苦しかったのだが、とくに母親の一室は、いつも息が詰まって苦しかった。



 そう言って、やさしく目を細めて笑う母のその顔が、は恐ろしくてたまらなかった。けれど、母親を心底愛していた。母親が、どれだけのことを深く愛してくれているのか、知っていたからだ。

「ああ、わたくしの、可愛い可愛い息子。顔をもっとよく見せて」

 ベッドの上で、母親がに向かって手を伸ばす。ひんやりと冷たく、やけに小さくて薄い手のひらが、の頬を撫でる。
 いつからこうだったのか、は知らない。
 物心つく頃には、母親はその部屋にいて、のことを息子と呼んだ。はたしかにその家の長女だったのだが、男として育てられた。の母親は、美しくてか弱いひとだった。跡継ぎを産まなければならない、というプレッシャーが、母親の精神をおかしくしてしまったのだ。

 それでも、母親は正妻だった。女ばかりを生んで、と夫にも義両親にも責められた母親が、最近になって長男を出産した。にずいぶんと歳の離れた弟ができた。その顔を見る暇もなく、は王城へと、文字通り厄介払いされたのだ。

、わたくしの自慢の息子……」

 家を出る際、一番別れを悲しんでくれたのは、ほかでもない母親だった。
 訳ありのが、訳ありのカムイの元へ召し仕えることになったのは、当然の成り行きかもしれなかった。結局、いつまでも男のふりなどできるわけもなかったわけだが──



「ねえ、のこと、教えてよ。もっと知りたいな」

 レオンがそう声をかけてくれたのは、立ち居振る舞いが女性らしくないとメイド長にこっぴどくしかられて、ひどく落ち込んで眠れないが廊下で窓の外を眺めていたときだった。まだ、王城へきて日が浅く、レオンのこともよく知らないころである。
 突然声をかけられて驚いたは、思わず逃げようとしてしまったが、レオンの手に掴まれて飛び上がる。

「れ、レオン様、こんな時間に……だれかに見つかったら叱られてしまいます」

 夜も更けたというのに、気軽に出歩いていいような立場ではないはずだ。は声を潜めながら、きょろきょろと周囲をうかがった。暗夜王国の第二王子であるレオンには、きょうだいがほかに三人いるが、すべて異母であり妾や正妻などの関係からその仲はあまり良くないという。
 レオンを快く思わない者がいて、もしかしたら傷つけられてしまう可能性も、なくはない。

 しかし、レオンが気にした様子はなく、小さく笑みをこぼした。はその美しさに言葉をなくして見惚れた。そこらにいる女性よりもよっぽど綺麗だ。

「じゃあ、僕の部屋においでよ」
「え……!」
「大丈夫。君さえ黙っていれば、わからないよ」

 レオンが唇の前に人差し指を立てる。はレオンの美しいかんばせに見惚れたまま、小さく頷いて、手を引かれるままレオンの私室に足を踏み入れた。まだ、メイド見習いのなかでも下っ端のは、レオンの部屋の掃除をしたこともお茶を運んだこともない。初めて見るレオンの部屋に、は緊張してしまう。
 並ぶ本の多さに目を奪われながら、やはり途方もなく高級そうな家具の数々に、思わず尻込みする。

「お茶も出せないけど……まあ、座ってよ」

 レオンに促されて、はブリキの人形のようにぎこちなく、ふかふかのソファに身を沈めた。はそわそわそながら、あちこちに飛びそうになる視線をつま先へと落とした。あまりにぶしつけと思われてしまいそうだったからだ。
 くす、と笑い声が聞こえて、は恐る恐る顔を上げた。

「そんなに緊張しなくてもいいだろ?」
「き、緊張、すると思います」
は僕の専属のメイドになるかもしれないんだよ」
「ま、まだ、わからないです。それに、わたし、全然だめで……」

 メイド長に叱られたことを思い出し、の目尻にじわっと涙がにじんだ。「く、クビになっちゃうかもしれません」ぐす、と鼻をすすりながらつぶやく。すると、レオンの手がやさしく頭を撫でた。

「レオンさま」
「大丈夫。僕はがすごく頑張っていること、知ってるよ」
「……」

 ぽろ、と涙があふれて、頬を滑り落ちていく。
 頑張っている。
 そう、なりに頑張っているのだ。カムイのもとでジョーカーの指導を受けたが、やはり執事とメイドでは勝手が違うし、なにより長男として育てられたにはメイド服のスカートだって戸惑うばかりだ。それでも、別れを惜しみながらも「頑張ってください」と励ましてくれたカムイと、表面上だけかもしれないが頑張れと言ってくれたジョーカーのことを思い、は懸命に努力をしている、つもりだ。

「辛いかい?」

 レオンのやさしい言葉に、は首を横に振った。よしよし、と言うように、レオンの手が頭を撫でる。
 そうして、レオンの細い指先が、そっと涙を拭った。

のこと、聞かせてくれるだろう?」

 レオンの言葉は、甘い呪文のようだった。
 の身の上話など、すこしも面白くないというのに、レオンが真剣に耳を傾ける。──彼は、子どもながらに、ずいぶんと聡かったのだ。
 この夜、とレオンは眠くなるまで話をして、結局レオンの部屋で眠ってしまったために、またメイド長にこっぴどく叱られた。けれど、このことがきっかけで、は心底レオンのことを信頼するようになり、レオンもまたを信用するに至ったのだ。






 けれど、どうしても、の中での一番が揺らがない。手酷く痛めつけられても、口汚く罵られても、どうしたってジョーカーが一番に心の中心に居座るのだ。何度もこれではいけないと思うのに、にはどうすることもできずに、ここまできてしまった。
 「寝言は寝て言え」と、冷たく突き放されて以来、ジョーカーとはまともに顔を合わせていない。


 じっと足元を見つめながら、長い階段を上がっていく。先を進むカムイが足を止めた。「マクベス……!」珍しく、カムイの声には怒りが込められていた。はカムイの視線を追って、その存在を捉えた。
 マクベスの口元が弓なりに弧を描く。
 ぞく、との背筋を悪寒が走った。近くにいたは殺気を感じて、咄嗟にアクアを押し退ける。

「きゃっ!?」

 アクアが短く悲鳴を上げる。
 伸ばされたタクミの手がアクアに届くことはなく、の手首を掴んだ。ぎり、と込められた強い力は、骨まで軋みそうだ。見上げたタクミの瞳は、どこまでも暗く冷たい。
 はその目を見て、澱んだ母親の細められた瞳を思い出した。

「タクミさん……! どうして……」

 困惑、失望、憤慨、悲愴──タクミを見つめる皆の表情は、様々な感情が入り乱れていた。
 マクベスが堪えきれないというように笑いを漏らす。

「タクミ王子は最初から…我々、暗夜王国についていたのですよ」
「まさか……タクミさんが……?」

 驚きに見開かれたカムイの瞳が、タクミを捉えた。カムイの言葉を受けても、タクミに反応はない。しかし、タクミを疑う者など、カムイの信じる仲間にいるわけがなかった。
 タクミがを突き飛ばし、歌うアクアへと弓を引く。は倒れこみながらも暗器を弓に向かって放ち、矢の軌道をわずかに逸らした。矢が掠めたせいでアクアの歌は途切れる。すっ、とタクミの矢がに向いた。「タクミさん、いけません!」カムイが悲鳴じみた声を上げた。

 ぴく、と矢を持つタクミの指先が、不自然に動いたように見えた。けれど、放たれた矢はの太ももに深く突き刺さった。

さんっ……!」
「このままでは、皆さんタクミ王子に殺されてしまいますよ? 仲間の命が惜しければ、タクミ王子を殺すことですね」

 くく、と笑うマクベスをカムイが睨みつける。

「……いいえ、私はタクミさんを信じます」

 人形のようなタクミの唇が震えながら動く。アクアの歌が、天井の高い城の中でよく響き渡る。タクミの瞳に光が戻るのを見て、はほっと息を吐いた。マクベスに向かってまっすぐ、風神弓が射られる。
 皆の心は一丸となって、マクベスに怒りを向けていた。

「卑怯な手を使って私たちを殺し合わせようとしたあなたを、絶対に許しません!」

 カムイの言葉が高らかに響いた。

 一方で、射貫かれた太ももをどうしようかと涙目で見つめるだったが、ふっと影が落ちて顔を上げた。「ごめん……」と、白夜の王族であるタクミに頭を下げられ、は大慌てである。

「あ、あの! 大したことありませんからっ、顔を、どうか顔を上げてください!」

 痛みとは別の意味で涙が出そうだ。

「タクミ王子、邪魔です」
「は?」

 タクミを押し退けたジョーカーが跪いて、に刺さった矢を見やる。「、歯を食いしばれ」ジョーカーの言葉に従い、はぐっと奥歯を噛みしめる。ジョーカーの手は慎重に、しかし素早く太ももから矢を引き抜いた。鋭い痛みに涙がこぼれたが、すぐにあたたかい光に包まれて、痛みと傷が消えていく。

「……執事長…………」

 は呆然として、ジョーカーを見つめた。しかし、視線が合うことはなく、ジョーカーがすぐに背を向けてしまう。「カムイ様の命だからな」と、告げる声色はどこまでも事務的で冷たい。
 ぞんざいに扱われたタクミが憤慨していたが、そのジョーカーの態度を見て顔色を変えた。

「ほんとうに、姉さん以外はどうでもいいんだな……」

 ぽつりとつぶやかれたタクミの言葉に、は胸を抉られるような痛みを覚える。もそうでありたいと願ってやまないし、そうあるべきだと痛いほど理解している。
 だからこそ、レオンと顔を合わせることが怖くてたまらなかった。
 主を一番に重んじられないなんて、メイドの風上にも置けない。



「……卑劣な愚か者め。いつまで悪あがきをする心算だ。貴様のような者は、我が暗夜王国の恥さらしだ」

 顔を見なくたって、にはその声がだれのものかわかる。
 はおもむろに階段の先へと視線を向ける。冷たい表情を浮かべたレオンが、マクベスを心底軽蔑して見下している。ブリュンヒルデを開いたレオンが、文字通りマクベスを塵にして消し去った。

「……ふん、汚らわしい」

 そのつぶやきは、まるで虫けらに向けるようだった。それが次には自分に向かうのではないか、とは気が気でないが、レオンの法衣を見てはっとする。いまだに、たまに法衣を裏返しているなんて、やっぱり着替えを手伝わないと──
 はレオンに伸ばしそうになった手を、ぎゅっと握って胸元へ置いた。

 涙がにじみ、視界がぼやけてレオンの姿がよく見えなくなってしまう。
 頑張ったって、努力したって、どうにもならないこともあるのだ。天蓋の森でレオンの命に背いたことを死ぬほど後悔して、もう二度と意に背かないと心に決めたとしても、もしかしたら簡単にそれが揺らいでしまうかもしれないのだ。

、なに泣いてるのさ」

 呆れたように言ったレオンが、いつかと同じように、の涙をそっと拭った。それほど変わらなかったはずの身長は、もう頭一個分以上の差ができて、自然とはレオンを見上げる形になる。ぽん、とレオンの手が頭に乗せられる。
 そのまま頭を包み込まれるようにして、抱きしめられる。小さなレオンの声が耳元に落ちる。

「ごめん、

 は首を横に振る。謝るのは自分のほうだ。敬愛する主を裏切って、傷つけたのだ。

「レオン様、」
「うん、なにも言わなくていい。ほんとうは、の気持ちくらい、わかってたよ」

 ぎゅ、とレオンの腕に力が籠められた。の涙が裏返った法衣に染み込んでいく。
 おもむろに、レオンが身体をすこし離して、の顔を覗き込んだ。やさしく細められた瞳に、の泣き顔が映りこんでいる。ふ、とかすかに笑みをこぼしたレオンが、もう一度涙を拭ってくれた。頼みがある、とレオンが小さくつぶやくように言った。

「僕の代わりに、カムイの『成すべきこと』を見届けてくれないか」

 もうレオンがカムイを姉さんと呼ぶことはない。それでも、裏切り者と恨みつらみをぶつけるばかりではない。そのことに、は安堵を覚える。

「はい、レオン様。あなたの仰せの通りにいたします」

 頷くに、レオンが小さな声で「ありがとう」と告げた。はすべてを終えたら、レオンの元に戻れるのだと信じていた。

夜が優しかったころ

(レオン様がお傍にいてくれたから)