執事としての朝は早い。
 いつも、主が起きる前に見回りをして、主のために朝食を用意し、主にモーニングコールする。ジョーカーは決して早起きは得意ではなかったが、それをカムイに悟られまいとして常に気を張って、早朝に目を覚ましていた。

 カムイが快適な一日を送れるように、ジョーカーは眠気を振り払いながら、城内を見回る。常闇の暗夜王国は朝が来たとしても、日が昇ることはなく一日の始まりはあいまいだ。また、日没もないので朝晩の感覚がずれがちだが、それが当たり前となった暗夜の国民には大した関係がない。

 いつもながら、ひとの気配がほとんどない城内は、静かで不気味ささえある。
 この北の城塞は、もともとカムイのために用意されたものではないため、まるで王族が住まう居とは思えないつくりだ。しかし、それについてカムイが文句を言ったことは一度もない。
 もっと、なにかを望んだり求めたりしてもいいのに、驚くほどカムイには欲がない。

「……ん?」

 あるはずのない人影が見えて、ジョーカーは足を止めた。薄暗く肌寒い廊下の先に、ジョーカーは目を凝らした。「執事長、」の震える声が小さく響いた。その腕にはベッドシーツが抱かれており、ジョーカーは怪訝に眉をひそめた。よもや、ねしょんべんをするような歳でもあるまい。
 日々の指導に疲れ果てたが、このような時間に起きていることは珍しい。

「どうした」
「……あ、あの…………」

 がシーツを抱える腕にぎゅっと力を込めた。
 見るからに狼狽え、言いよどむに対し、ジョーカーは苛立ちを隠さずに舌打ちをした。静かな廊下にそれはやけに響いて、がびくつく。
 ジョーカーは素早くからベッドシーツを奪い取る。「あっ」と、が情けない悲鳴を上げた。

「……血、か?」

 薄暗い中で目を凝らせば、白いシーツに点々とした赤が見える。そして、鼻につく血生臭さがあり、ジョーカーはますます訝しむ。

 見下せば、が泣きべそをかいてへたり込む。
 見たところ怪我をしている様子はない。嗚咽交じりの言葉はほとんど要領を得ず、状況を理解するには意味をなさない。ジョーカーはもう一度舌打ちをしかけて、思いとどまる。細い肩に手をかけた瞬間、ジョーカーははっと息をのんだ。まさか、とは思うが──

「初潮か?」

 途端、がわっと声を上げて泣き出した。
 ジョーカーは眉間の皺を指で押さえ、小さく舌を打った。泣いている暇などない。カムイが起きる前に、すべてに片を付けなければならない。ジョーカーは一瞬の逡巡ののち、の首根っこを掴んで立ち上がらせる。「シーツは俺が洗う。お前は風呂だ」ずるずると引きずられながら、が頷いた。


「執事長、すみませんでした……」

 が泣き腫らした顔で頭を下げる。
 ジョーカーとて男である。月経など経験したことはない。カムイが女性だったからこそ、そういった知識もあり、対処は簡単だったと言える。いつかカムイも通る道だと思うと、妙に気恥ずかしいがジョーカーはポーカーフェイスを崩さない。

 仕事を増やされたことはもちろん腹立たしいが、それ以上に騙していたことが許しがたい。もちろん、カムイを欺いていたことに対してである。
 ジョーカーは本日何度目かの舌打ちをする。が目に見えて恐縮した。

「上には俺から話を通す。だが、カムイ様にはてめぇでちゃんとお話しろ」
「も、もちろんですっ」
「お優しいカムイ様はお許しになると思うが……つけあがるんじゃねぇぞ」
「ひぃ……は、は、はいっ」

 ──これは、が北の城塞にきて、半年ほどたったころであった。
 ようやく慣れ始めて仕事もそれなりになってきたというのに、ジョーカーはババを引かされた気分で、それなりに落胆を覚えた。カムイがをずいぶんと気に入っていたことも、ジョーカーに気落ちさせた原因となった。

「ちっ、もう朝か」

 そうして、ひどく疲れる一日が始まったのだ。




 が性別を偽っていたことなど、ジョーカーにとってみればどうでもよく、興味のかけらもないことである。その後すぐ、王城にメイドとして召し仕えることになり、数年後カムイがきょうだいと交流するようになるまで、ほとんどと顔を合わせることはなかった。カムイが暗夜王国を離れてからは、もちろんどうしていたかなど知る由もない。
 そして、天蓋の森でのレオンとカムイのやり取りに至る──


 ジョーカーはタイを結ぶと、鏡で身だしなみをさっとチェックする。それほどきっちりと着こなすわけではないが、カムイの執事としてだらしない格好をするわけにはいかない。まだ毛先はしっとりと水分を含んでいるが、これ以上カムイを待たせるわけにはいかない、とジョーカーは脱衣所を足早に出る。

「ジョーカー」

 ジョーカーは名を呼ばれて振り返り、顔を確認すると足を止めることなくカムイの元へ向かう。「お、おいっ、待ちなよ!」苛立たしげに腕を掴まれ、ジョーカーは笑顔で振り向いた。

「どうなさいました、タクミ様。申し訳ないのですが、今は少々急いでいまして……」
「あのメイド、可哀想だと思わないのか? 主君にあんなふうに切り捨てられて、その上お前にいいようにやられて、僕はとても見てられないね」

 やけに絡んでくるタクミの言いように、ジョーカーはカムイをあの場に呼んだのが彼であることに思い至った。大方人目につかない場で鍛錬しようとして居合わせたのだろう。

「お言葉ですが、タクミ様」

 ジョーカーは笑みを崩さないまま、タクミの手を解いた。

「使用人には使用人の事情があるのです。我々に気遣いなど不要なのですよ」

 失礼します、と一礼して、ジョーカーはもの言いたげなタクミに振り向くことなくカムイの元へ急いだ。「あ、ジョーカーさん! さんは大丈夫でしたか?」カムイがジョーカーを見つけて、笑みを浮かべる。それだけで、ジョーカーの心は満たされていく。
 これだけカムイに想われているに対して、ジョーカーは可哀想などと同情することはないだろう。

「ええ、心配には及びません。さあ、カムイ様、紅茶をお淹れ致します」





 この異界では、暗夜王国とは違って日は昇り、そして沈む。
 まだ朝日が昇らない時間だ。身なりを整えてこそすれ、ジョーカーはいまだすっきりと目覚められないまま、使用人の休憩室に入った。「お、おはようございます」緊張した面持ちで、が振り向いた。黙ったまま椅子に腰を下ろしたジョーカーの前に、コーヒーを差し出してくる。
 眠気を吹き飛ばすための、濃いめのエスプレッソ──城塞にいたころ、ときおりジョーカーと同じくらい早くに起きたがいつも飲んでいたものだ。の淹れるコーヒーは決してうまくはなかったが、この朝の一杯はよく効いてジョーカーの目を覚ましてくれた。

「ああ、おはよう……」

 ジョーカーはカップに手を伸ばし、おざなりに言葉をかける。喉を流れていく熱さと濃縮された苦みに、ジョーカーは反射的に眉をひそめたが、抱いた感想は悪いものではなかった。

「うまい」

 ジョーカーのつぶやきに、がほっと笑みをこぼした。「ジョーカー様に、褒められました」えへへ、と照れ笑いするその顔は、たしかに北の城塞にいたに違いなかった。

「……まあ、フェリシアに比べたらな」

 素直に褒めるのは癪なので、ジョーカーは一言付け足す。がすこしだけ眉尻を下げた。

「あの、昨日はすみません。わたし、いつの間にか寝てしまって……」
「ああ、おかげで重かった」
「う、す、すみません」
「……冗談だ」

 それなりに鍛えているジョーカーにすれば、を持ち運ぶことなどどうということもない。「さすがは執事長です……」と、が神妙な顔で感心している。
 ジョーカーは見回りに行こうと腰を上げて、しかしの顔を見て思いとどまる。
 相変わらず、しけた顔をしている。

「おい、
「は、はい」
「いい加減、覚悟を決めろ」

 ジョーカーが凄むと、がひっと小さく悲鳴を上げた。あまりの怯えように腹が立つが、これも自分の指導の賜か、とジョーカーは内心でため息を吐く。

「おそらく、もうすぐレオン様にもお会いすることだろう。もとより、カムイ様はお前をレオン様の元へ無事に送り届けるつもりだったようだが……自分のことは、てめぇで決めろ」

 うつむくの顔を、顎を捉えて無理やり上げさせる。
 ぐ、と涙をこらえるような顔をしている。

 なぜカムイが長く過ごした暗夜王国ではなく、白夜王国を選んだのか──その理由を、はもう知っている。裏切ったのではないと知れば、カムイに対する考えも大きく違ってくるだろう。の中にあるのは、レオンと再会する恐怖だけではなく、カムイとレオンという選びきれない葛藤だということを、ジョーカーは見抜いていた。

「わたしは、もう二度と、レオン様を裏切りたくありません……」

 の瞳に涙がにじむ。それが答えだと言うのなら、ジョーカーにどうこういう筋合いはない。の主は、カムイではなくレオンである。
 そうか、とジョーカーは小さなつぶやきとともに、から手を離した。

「でも、ほんとうは」

 の声が揺らぐ。濡れた瞳がジョーカーを見上げた。


 がちゃ、とふいにドアが開く。「あ、ジョーカーさんとさん。早いですね~おはようございます~」前髪の寝癖を手でなおしながら、フェリシアが休憩室に入ってくる。

 ジョーカーは一瞬だけ、フェリシアに視線を向けたことを後悔した。
 視線を戻した時には、すでにがいつものように愛想笑いを浮かべていた。「おい、」と肩を掴もうと伸ばした手は、空を切った。「見回りに行ってきます」明らかにジョーカーを避けて、が休憩室を出ていく。ジョーカーは舌打ちをして、すぐにを追いかけた。



 今度こそ肩を掴んで、逃さない。振り向いたが困り果てた顔をして、不自然に視線を逸らした。ジョーカーはぐっとその頬を掴むと、顔を近づけた。

「てめぇ、俺から逃げるとはいい度胸だな? 言いたいことがあるならさっさと吐け」

 の唇が一文字に結ばれる。指先に力を籠めれば、籠手が食い込んで痛んだのだろう、が眉をひそめた。見る見るうちに潤んだ瞳から涙がこぼれ落ちる。ジョーカーの手に涙が落ちてはじけた。
 震えた唇が開かれるのを、ジョーカーは目を細めて見つめる。

「ほんとうは、」

 窓の外が薄らと明るくなり始める。悠長にしすぎたな、とジョーカーが考えたときに、がわっと幼子のように泣き出した。ジョーカーはデジャヴを覚えて、思わず天を仰ぐ。

「わたしにとって、ジョーカー様が、なによりも大切なお方なんです」

 許してください、とが泣きじゃくる。
 嗚咽交じりに紡がれた言葉の意味を、ジョーカーはたっぷり時間をかけてようやく理解した。

「……はあ!?」

 思わず、廊下に響き渡るほどの声が出たが、それは正しい反応に違いない。その衝撃はが女性だと知った時よりもよほど大きかったことは、ジョーカーのみが知っている。

ひたむきな指先

(握りしめる手が震えている)