王都に足を踏み入れてからというもの、見るからにの表情は冴えず、足取りさえも重いようだった。白夜王国とは打って変わって、暗くて物寂しい──それが、ジョーカーの生まれ育った暗夜王国である。白夜の人々はやはり、その雰囲気に呑まれてしまっているようだが、むしろジョーカーにとってみれば、心地よいほどに慣れ親しんだものである。
 それは、やカムイにとっても同じだろう。しかし、これほどうれしくない帰還があるだろうか。ウィンダムの城下でくだらない賊をあしらったのち、カムイ一行は王城へ向かう前に異界の城へと戻っていた。

 カムイが整えてくれたこの城は実に住みやすく、思い思いに過ごせる。しかし、さすがに皆の表情は硬く緊張しているようである。ジョーカーはその様子を見ながら、苛々と舌打ちをした。

 約束の時間を過ぎてもの姿が見えない。
 カムイへの給仕の時間を割いてまで指導してやっているというのに、とジョーカーは苛立ちを募らせる。

「きつく灸を据えるか」

 ふむ、と顎に手を当ててジョーカーは呟いた。


 城の一角に、使用人の部屋が与えられている。贅沢にもそれぞれ一人部屋となっているのだから、カムイの懐の深さがうかがえる。
 ジョーカーはの部屋の前に立つと、ノックのために持ち上げた手を下ろし、ドアノブに触れる。そうして、ひと思いに扉を開け放つ。「おい、てめぇ遅刻とはいい度胸だな!」加減なく開けられたドアは荒々しい音を立て、それに負けぬほど荒いジョーカーの声が狭い室内に響いた。

「ジョーカー様!」

 机に向かっていたらしいが慌てて立ち上がり、椅子が倒れる。組み手の時間を失念していたのか、驚いた顔でジョーカーを見たが、はっと息をのむ。そうして、目に見えてガタガタと震えだす。

「あ、も、ももも申し訳ござません…!」

 これでもかというほど噛みながら、謝罪の言葉を口にするを、ジョーカーは冷ややかに見下した。見おろすのではなく、見くだしたのだ。「あれ~、どうしたんですか、ジョーカーさん?」間の抜けたフェリシアの声が聞こえるが、ジョーカーは一瞥するだけにとどめる。それだけでジョーカーの怒りが伝わったのだろう、「ふえぇ」、と情けない声を上げてフェリシアが逃げていく。
 きっちりと着こまれたメイド服の襟を掴んで、ジョーカーは顔を寄せる。

「覚悟はできてるな?」
「ひいぃ……っ」

 震えあがるの首根っこを掴んで、引きずっていく。ほとんど人が来ない場所でいつも組み手をする。カムイに見られないようにという配慮である。心優しい主は、痛めつけられるを見ていられないに違いない。
 にはすでに連日の指導による痣や傷が至る所に残っているが、うまく服で隠れてほとんど見えていない。
 向き合ったが逃げ腰で構える。ジョーカーは呆れ果て、軽く脅すために暗器を足元へ放った。「ひっ」と短い悲鳴を上げてが飛びのく。

「簡単に根を上げるなよ?」

 にこりと笑って言えば、が真っ青な顔をして「お手柔らかにお願いします……」と、蚊の鳴くような声で告げた。ジョーカーは軽くタイをゆるめると、構えを取った。



 大分勘を取り戻してきたようだが、ジョーカーにとってみれば赤子の手をひねるようなものだ。ふら、と傾いたがそのままバランスを崩して、尻もちをついた。ぜいぜいと荒い呼吸をしながら、流れる汗を腕でぐいと拭い、が顔を上げる。疲労困憊でもやる気はまだあるようだ。
 立ち上がろうとするを制し、ジョーカーは腕を掴んで引っ張り上げる。「今日はここまでだ」と、告げると気の抜けたような顔をする。

「もうですか? でも、いつもの半分も…」
「その分、きつくしてやったからな」
「う……は、はい……」

 手を離すと、の身体が頼りなくふらつく。さすがにやりすぎたか、とジョーカーは内心でごちるが、すぐに相応の仕打ちだと思いなおす。ジョーカーは乱れた服装を軽く正し、汗を流すために風呂場へと足を向ける。

さん!」

 カムイが駆け寄ってくる姿が見えて、ジョーカーはぴたりと動きを止めた。どうかまぼろしであってくれと願うが、それもむなしく、近くまできたカムイが悲痛そうな面持ちでの手を両手で包む。

「どうして……」

 カムイのそのつぶやきは、ジョーカーを責めるようにも聞こえて、内心どきりとする。「カムイ様、」と名を呼ぶ声が、ジョーカーととで同時に重なった。うつむいたカムイのその背が細かく震えていることに気づいて、ジョーカーは手を伸ばすことをためらう。
 決して、カムイを傷つけるためではないのだ。そう、守るべき力を得るために必要なことだ。

 顔を上げたカムイの瞳に涙はなかった。それでも、悲しそうな顔をしていて、ジョーカーの胸までもが苦しくなる。が心底困り果てたように、眉尻を下げる。

「ごめんなさい。さん、私はこんなこと望んでいません」
「え……」
「私はただ、以前のようにさんとお話しできれば、それでよかったんです」

 カムイの手が、軽い打撲の跡が残るの頬をそっと撫でた。「それは、」呆然としたままのが、おもむろに口を開く。

「できません、カムイ様。わたしは、カムイ様をお守りしなければならないし、お守りしたいのです」
「こんなに傷ついても、ですか?」
「もちろんです」
「そんな、そんなのって……」

 カムイがかぶりを振る。ジョーカーは、そこでやっとカムイの肩に手を触れることができた。はっ、と息をのんだカムイが、ジョーカーを振り返る。

「カムイ様、どうかご理解ください。それが、主と使用人なのです」
「使用人だなんて、言わないでください……」

 懇願するように言われてはさすがに心が揺らぐが、ジョーカーは首を横に振った。
 ぐっとカムイの柳眉がひそめられる。立ち尽くすを、カムイの腕が包み込んだ。ジョーカーは内心で舌打ちしながらも、それを止めることはしなかった。

さんは、私の大事なひとです」

 カムイ様に抱きしめられるなんて羨ましい、という思いを、ジョーカーは無理やりかき消した。


「いいですか? まず、特訓をするときは私の前ですること。それから、怪我は必ず杖で治すこと。それを絶対約束してください」

 ぴっ、と指を一本ずつ立てて、カムイが確認するようにジョーカーとを見つめた。「は、はい」とが叱られた幼子のように小さく頷く。それを見て満足そうな顔をしたカムイが、ジョーカーを見上げた。

「もちろんです、カムイ様」

 ジョーカーは笑顔で答える。よかった、とカムイがほっと息を吐いた。
 の怪我はきれいさっぱり消えてなくなっている。カムイの命によって、ジョーカーが杖で癒したからだ。だが、体力が戻るわけではないため、つらそうな様子は隠しきれていない。
 ジョーカーは一つため息を吐くと、の腕を掴んだ。目を丸くしたがジョーカーを見る。

「カムイ様、どうやら少々指導に力が入りすぎたようなので、を部屋まで送ります。すぐにカムイ様のもとへ参りますね」
「あ、そうですね。さん、随分お疲れみたいですから……」
「へっ!?」

 が大袈裟に肩を揺らして、素っ頓狂な声を上げる。ジョーカーはカムイに向けていた笑みを消して、を見下ろす。

「……なんだ、不満か?」
「め、滅相もありません!」
「悪いな、てめぇが女だって忘れていた」
「……え、」

 ジョーカーは真摯に告げたつもりである。が大きく目を見開いて、それから気まずそうにうつむいた。
 どこからどうみても女なのだが、見習い執事であったころと同じように──つまり、男を相手にするような加減で、指導してしまっていた。がこうまでへばるのも無理はない。

 にこやかにカムイに見送られながら、の部屋へ向かう。急かすとの足元がふらついて、ジョーカーは舌打ちした。「おい」と、ジョーカーが声をかけると、が身を竦める。

「黙ってろ」

 ジョーカーは短くそれだけ言って、の身体を横抱きにした。荷物を担ぐようにしてもよかったが、腐っても女であることを念頭に置けば、これが妥当である。がジョーカーの言葉通りにぐっと唇を結んで黙っているが、その顔は驚きに満ちており、いまにも悲鳴が上がりそうだ。
 ふ、と石鹸の香りに交じって汗のにおいがして、自分も風呂に入りそびれたことを思い出す。

「……っ」

 が小さく息をのむ。見下ろした顔が、茹蛸のように真っ赤に染まっていた。

「カムイ様を待たせるわけにはいかねぇからな」

 腕の中で、が小さく頷いた。


 部屋へ向かう道すがら、いつの間にかが眠りに落ちていた。ジョーカーは、珍しくも叩き起こすことなく、ベッドへとを下ろしてやる。閉じられた目の下には隠し切れない隈がある。ジョーカーはその顔をしばし見つめると、さっさと風呂場へと向かったのだった。

「……まあ、よくやってるほうか」

 ジョーカーは小さくつぶやき、昔にすこし思いを馳せるのだった。






「今日、新しい執事の方がくるそうですね」

 楽しみです、と顔に書いたような表情で、カムイが言った。「ええ。そのようですね」と答えるジョーカーはなんでもないように装いながらも、その内心では腸が煮えくり返るような思いを抱いていた。
 ──カムイ様の執事など俺ひとりで十分だ。
 ジョーカーにとって新しい執事など邪魔者でしかなく、ものすごく面倒で不本意なことであった。

 しかし、すでに決定した事項であり、今さらどうすることもできない。きつく扱いてやめさせてやるか、とジョーカーは考えるが、そんなことは露知らずカムイが嬉しそうにはしゃいでいる。

「どんな方なのでしょう。仲良くなれるでしょうか」
「もちろん、カムイ様であれば、どんな方とでも仲良くなれます」
「そ、そうですか?」
「ええ。このジョーカーは、嘘などつきません」

 ジョーカーの言葉に、カムイが照れたような困ったような顔をして、ごまかすように紅茶をおいしいと言って飲んだ。その一言で、ジョーカーの胸が至福で満たされ、先ほどの苛立ちがすっと消えていった。


 カムイが興味深げに瞳を瞬かせ、白い頬を紅潮させている。
 執事見習いとして城塞へやってきたのは、カムイとそう歳の変わらない子どもだった。ジョーカーはかつての自分を思い出し、すこしだけ苦い感情を覚えるが、それを表情に出すことはなかった。「お初にお目にかかります、カムイさま」緊張に満ち溢れた、ぎこちない一礼だった。

「本日より、執事見習いとしてカムイさまにお仕えします、と申します」
さん、ですね。よろしくお願いします」

 にこり、とカムイが笑って右手を差し出す。
 まさか王族自ら使用人に握手を求めるとは、夢にも思わないだろう。差し出された手をきょとんとした顔でが見つめていると、カムイが手を伸ばして握手を交わした。

「こ、こちらこそよろしくお願いいたします!」

 が声を上ずらせながら、勢い良く頭を下げた。もちろん、ジョーカーはよろしくする気など一切なかったが、カムイの手前表面上はにこやかに接した。



 執事たるもの主を守るべき力が必要だ。
 執事だけではなくメイドも含め、暗夜王国の使用人は給仕のみならず、戦闘にも長けている。それはもちろん、厳しい指導を受けてこそであることを忘れてはならない。

 年端もいかない子どもにすれば、厳しすぎるかもしれないが、ジョーカーにしてみれば己の指導はジジイ──ギュンターによるものに比べれば、可愛いものだ。

さん、一緒にお茶を飲みませんか?」

 護身術を叩きこまれてへばりこむに向かって、カムイが笑いかける。「カムイ様、お召し物が汚れてしまいます」と、ジョーカーは咎めるが、そんなことを気にするようなカムイではない。カムイがすこしも構わずに、手を貸してを立ち上がらせる。歳の近いの存在がカムイにとって喜ばしいことであるのは、目に見えて明らかだった。
 この城塞から出ることが叶わないからこそ、なおさらの存在が大事なのだ。
 それがわかるから、ジョーカーはカムイをきつく咎めることができないし、を必要以上に邪険には扱えない。

 カムイが城塞から出ることができないことは、哀れなことなのかもしれなかったが、ある意味では好都合でもある。
 ここはカムイを存分に守ることができる箱庭のようなものであり、カムイを傷つけるものから遠ざけることができるのだ。

 もはじめこそ、あまりに親しげで近しいカムイの態度にぎょっとしていたが、いまでは素直にその手を取っている。カムイの前では、王族だとか使用人だとか、そういったものは関係なくなってしまうのだからジョーカーやギュンターを困らせる。

、着替えてこい。そんな恰好でカムイ様とお茶など許されん」
「は、はいっ」

 よたよたと小走りにが駆けていく。この城にきた頃のジョーカーに比べれば、まだ素直な分ましだが、やはりお坊ちゃんであることには変わりない。できないことは多い。だが、やる気は人一倍、といったところだろう。
 カムイが嬉しそうに、の後姿を眺めている。
 ジョーカーはそれに嫉妬にも似た感情を覚えるが、ガキ相手だと思いなおし、の分の紅茶も淹れてやる。

 慌てて戻ってきたが、テーブルに用意された自分のカップを見て、恐縮した。

「し、執事長のお手を煩わせてしまって、すみません」
「ふん……お前もいずれはこのくらいできるようになってもらわんとな」
「は、はい! がんばります」

 ぎこちない様子で着席したを、カムイがくすくすと笑って見ていた。
 しかし、その日々は長くは続かなかった。

本音と建前

(褒めてなんかやらない)