次々に飛んでくる暗器を捌ききれず、いくつか肌を掠めていく。痛みに顔をしかめながら、はジョーカーから視線を逸らさずに、暗器を構えて懐へと飛び込む。実践を踏まえた稽古となれば、怪我の一つや二つに気を留めている暇はない。
は十分距離を詰めたところで薙ぐが、軽いバックステップでかわされ、ジョーカーがの足元めがけて暗器を放ってくる。思わずまごつくと、あっという間に近づいたジョーカーに足を払われ、地面に押さえ込まれる。
だんっ、と鈍い音とともに衝撃が走る。痛みが広がっていく。
「さん!」
傍で見守っていたカムイがはっと息をのみ、駆け寄ってくる。
ジョーカーがにこりとカムイに笑いかけた。「カムイ様、ご心配には及びませんよ」なおもは押さえつけられたまま、視線だけをカムイに向ける。
「でも、怪我を……」
「我々にとってみれば、こんなものはかすり傷です。さあ、カムイ様はテーブルにお戻りください」
の上から退いたジョーカーが、カムイの手を恭しく取り、テーブルまで導く。そうしていつものようにカムイのために椅子を引き、席に座らせる。そこで、すでに紅茶が冷め切ってしまっていることに気づいたらしく、ジョーカーがを見た。
「おい、いつまで這いつくばってやがる。さっさと湯を沸かし直せ」
手合わせしている時間が長かったため、用意していた湯も冷めていたようだ。「は、はい!」は慌てて立ち上がり、ジョーカーからケトルを受け取るとキッチンへ急いだ。
「あ、さん……」
「カムイ様。いま、紅茶を淹れなおします。少々お待ちください」
「い、行ってしまいました……はやいです」
カムイとジョーカーの会話があっという間に遠ざかり、の耳には届かなくなった。
城に戻るよりも食堂のほうが近い。そう判断して、は食堂の扉を開けた。食堂の料理を任されているタクミが顔を上げ、ぎょっとした顔をする。対して、も驚いて一瞬だけ動きを止めた。
王族であっても関係なく、こういった仕事を任されることをは知らなかった。
さすがカムイ様、分け隔てがない。
「あの、火をお借りしても」
「あんた! どうしたんだ、その怪我」
カウンターに立っていたタクミが慌てて飛んできて、の腕を掴んだ。「えっ?」きょとんと瞳を瞬かせたは、そういえば稽古で怪我をしていたと思い至った。だが、実際この程度の怪我はジョーカーの言う通り、かすり傷に過ぎないのでほとんど気にならない。
ジョーカーがギュンターに受けた稽古に比べれば、こんなものは可愛いくらいだろう。はジョーカーやフェリシアと違い、ギュンターの稽古を受けていない。
「あ……これは、いま、ジョーカー様に」
「ジョーカー!? あいつ……」
「い、いえっ、あの、稽古をつけて頂いて」
が言い終えるより早く、タクミが声を上げる。ジョーカーとなにかあったのだろうか。ずいぶんと棘がある。は恐縮しながら、その先の言葉を紡いだ。
「稽古って、でも、女の子にこんな」
の傷を見て、タクミが小さく息をのんだ。「まさか、真剣で……」つぶやくタクミが顔を歪める。
女の子、とは自分のことだろうか、とは他人事のように思いを巡らせた。長いことそのような扱いをされていないせいで、タクミの言葉がなぜかひどくちぐはぐのように聞こえてしまう。紳士的なレオンが主とはいえ、はやはり女性である前に使用人なのだ。
「申し訳ございません。カムイ様をお待たせしていますので、火をお借りしてよろしいでしょうか」
カムイ及び、ジョーカーを待たせているのだ。すこしくらい遅れてもカムイが目くじらを立てることはないが、ジョーカーの怒りを買うことは目に見えて明らかだ。ジョーカーの額に浮かぶ青筋を思って、は慌てる。
タクミの手をやんわりと解いて、返事を待たずにキッチンへ向かう。
「あ、ああ……」
遅れてタクミの返事が聞こえたが、はすでにケトルを火にかけたところだった。一度沸かされていたそれは、冷水よりもずっとはやくに湯気が立ち上り、はほっとする。
「……ジョーカーって、ほんとカムイ姉さん以外には、容赦ないんだな」
タクミの口調はひどく呆れたものだった。はすこしだけ火をゆるめ、タクミを振り返った。苦虫を噛み潰したような顔をして、タクミがキッチンに顔を覗かせている。
「執事長となにかおありになったんですか?」
「まあ……ちょっと」
「でも、決して悪いお方ではありませんよ」
は苦笑しながら、火を止める。
カムイへの忠誠は絶対であり、それ以外には恐ろしく不愛想なジョーカーだが、意外とやさしいところもあるのだ。
「お邪魔してしまってすみません。ありがとうございました」
タクミに深く頭を下げた拍子に、シンクにあるトマトが目に留まる。レオンの大好物──頭を過ぎった考えに、は唇を噛んだ。
はすぐに頭を上げると「失礼いたします」と告げ、ケトルを抱えてカムイの元へと急いだ。
の手から無言で湯を取り上げたジョーカーが、何食わぬ顔をして紅茶を淹れる。「カムイ様、もう少しだけお待ちくださいね」とジョーカーに声をかけられ、呆然としていたカムイが「あ」と小さく声を上げた。
「さん、怪我の手当てをしましょう!」
すでに傷口の血は乾いており、ほとんど痛みもない。それでも、カムイが痛そうに顔をしかめて、に手を伸ばす。近づく白い指先から、は反射的に逃げた。
「さん?」
「あの、ほんとうに大丈夫ですから、お気になさらないでください」
「だめです! さんは女の子なんですから」
ちょっとだけ怒ったようなカムイが、強引にに触れた。カムイの手が、傷を確かめるように、やさしく肌に触れる。
ジョーカーの静かな怒りを感じ、は冷や汗をかく。
「カムイ様、お手が汚れてしまいます。こんな怪我すぐに治りますので」
カムイの手をやんわりと遠ざけたジョーカーが、素早く杖を掲げてくれる。言葉通り、すぐに怪我は跡形もなく癒えてしまう。「さ、紅茶が入りましたよ」そのまま、ジョーカーがカムイの手を引いて、再びテーブルまで導く。じ、と淹れたての紅茶を見つめるカムイの顔は、納得がいかないと言うようだった。
「カムイ様?」
「……ジョーカーさんも、さんも、もうちょっと自分を大事にしてください。いくらかすり傷でも、怪我は怪我ですし、痛いはずです。私にも、心配くらいさせてください」
カムイの顔が悲痛そうに歪んで、は思わず言葉を失った。どう対応してよいのかわからず、救いを求めてジョーカーを見やる。一瞬だけ呆けたような顔をしたジョーカーが、すぐに笑みを浮かべる。
「そのお言葉は、そっくりそのままカムイ様にお返しします」
「え……?」
「リーダーとしてみなさんを守ろうとするカムイ様のお姿には心を打たれるばかりですが、先陣を切るカムイ様を見ている私は気が気でありません」
「あ……そ、それは…………」
ジョーカーの言葉に自覚があるのか、カムイが言葉を詰まらせる。
「カムイ様ぁ~! リョウマ様たちが次の戦いのことでお話ししたいことがあるそうです!」
明るいフェリシアの声が響く。駆け寄ってくるフェリシアがなにもないはずのところで躓き、派手な音を立てて転んだ。ドジなメイドであることは知っているがはあまりの光景に驚いて、固まる。「フェ、フェリシアさん、大丈夫ですか!?」カムイが慌てて駆け寄った。フェリシアがしたたかに打ち付けた膝に涙目になりながら、カムイを見上げた。
「ふえ……ちょっと慌ててしまいました……」
「あ、フェリシアさん! 膝をすりむいています!」
カムイが縋るようにジョーカーを見た。「……手間かけさせやがって」とつぶやく言葉はカムイの耳に届くことなく、ジョーカーがさっと杖を掲げた。フェリシアが不思議そうな顔でジョーカーを見る。
「あう、ジョーカーさん?」
「さ、カムイ様はリョウマ様の元へどうぞ。私は紅茶を片付けておきます」
「は、はい。すみません、ジョーカーさん。フェリシアさん、リョウマ兄さんのところへ案内してもらえますか?」
「あっ、は、はい、もちろんですっ!」
慌てて立ち上がったフェリシアが再び転びかけるのを、カムイの手が防いだ。「急がなくてもいいですから、ね?」とカムイがフェリシアに微笑みかけて、歩き出す。
その背を見つめていたジョーカーが笑みを消し、を振り返った。
「さっさと片付けるぞ」
「は、はい」
せっかく紅茶を淹れなおしたのに、それを飲む暇もなく、カムイが行ってしまった。城塞で過ごしていたころとは違い、カムイにはやることが多く、ゆっくりとお茶を楽しむばかりではいられない。本当ならば、暗夜王城でレオンたちきょうだいと一緒に、カムイとこうしてお茶の時間を過ごしたかったがいまは叶わない。
「……カムイ様の前での稽古はやめだ。いらん心配をかける」
ふう、とジョーカーがため息を吐く。はカムイの悲痛そうな顔を思い出し、視線を落とした。
「そう、ですね」
食器を持つ手が震えて、カチャリと小さな音を立てた。「おい、慎重に扱え」ジョーカーの指摘に、ははっとして、片付けに意識を集中させる。ワゴンにすべて移し終え、なにもなくなったテーブルを布巾で綺麗に拭く。
「ワゴンはわたしが片付けておきますね」
ワゴンの取っ手を掴んだの手に、ジョーカーの手が重なった。「待て」低いつぶやきが落ちる。ジョーカーに見下されたは反射的に身を竦ませた。
執事長、との唇が動くが、ほとんど音はなかった。
くる、とジョーカーの手の中で、暗器が曲芸のように回るのをは呆然と見つめる。
「カムイ様もいらっしゃらないからな……心置きなく、指導してやるよ」
結構です、と言いたいのに言えなくて、は震えながらただ頷いた。
講評が必要か、とその言葉をかろうじてとらえたは、ゆっくりと顔を上げる。ひたりと首筋に当てられていた暗器が離れていく。は立ち上がることすらままならず、かろうじて頷きを返した。
「接近戦がなってない。暗器は離れて使うべきものだが、いざとなればそうも言ってられないからな。、おまえは立ち回りが下手だし、攻撃も単調すぎる」
レオンのもとにいた頃にも鍛錬はしていたが、いつも相手はゼロとオーディン、ときどきレオンといった面々だったせいか、たしかにあまり組み手などはしていなかった。剣も扱うレオンだが、ほとんど肩慣らしみたいなものだったし、とは荒い呼吸の中で暗夜王城での日々を思い出す。
ジョーカーが顎に手を置き、顔をしかめながらを見下ろす。
「体力もない。本業が給仕とはいえ、情けねぇな……まあ、暗器の扱いはなってるし、距離取ればそこそこだな」
ぐい、とジョーカーに腕を引かれて、立たされる。頬についた傷をジョーカーの指先が撫でた。
「その痛みは自分の実力によるものだ。てめぇの無力をしっかりと噛み締めろ」
ふっと腕が離れて、支えをなくしたは思わずふらつくが、倒れることはなかった。「は、はい……」ようやく息も整い、は意気消沈しながら、頷いた。気を遣らなかっただけましだろうか。
ジョーカーが、そのままだったワゴンに手をかける。
「あ……」
「これは俺が片付ける。てめぇはさっさとその傷の手当てして寝ろ。明日からは、組み手をやる」
「く、組み手ですか?」
声が上ずる。がジョーカーに指導を受けたのはほんの短い期間であるが、その厳しさと容赦ない罵倒はいまでも夢に見てはうなされるほど、トラウマとなっている。
「不満か?」
「滅相もございません! むしろ、執事長のお手を煩わせてしまって、申し訳ないです……」
「……ほう、殊勝だな」
「執事長はカムイ様のお世話もありますし……」
と違って忙しいだろう。ふん、とジョーカーが鼻で笑った。
「舐めてもらっちゃ困る。てめぇの指導なんざ、屁でもない」
カムイ様に見られる前に失せろ、とせっつかれて、はそそくさと自室へ戻った。そうして、傷の手当てをしながら、明日からの組み手を思って身震いするのだった。