あの暗い天蓋の森でのレオンとのやり取りを知っている者には腫れ物に触れるような、またなにも知らない者には疑わしいと言わんばかりの態度をとられ、は居心地の悪さを感じていた。しかし、カムイの手前愚痴の一つもこぼせず、は沈んだ気持ちのまま、黙々とノートルディア山を登る。
険しい山道が延々と続き、息切れとともに、の額から汗が流れ落ちた。それを手の甲で拭い、ふうと息をつく。先頭を行くカムイからも疲労を感じるが、弱音を吐いたりはしないし、足を止めることもない。
北の城塞で過ごした日々はあまりに遠く、まるで自分の知っているはずのカムイの姿とは、ずいぶんと違って見える。あの頃は、皆に守られて、ただただやさしく笑っていた──
拭い損ねた汗が顎まで伝い落ちて、に不快感を与える。
「みんな、大丈夫ですか」
息を弾ませながら、カムイが振り向いた。傍らに控えるジョーカーが素早くハンカチでカムイの汗を拭っている。また、カムイのすぐ後ろを歩いていたリョウマが、前方を指さした。霧の向こうにうっすらと建物が見える。ほっ、とだれかが安堵のため息をついた。
はそびえ立つ七重の塔を見上げる。かつてガロン王やマークス王子が乗り越えたという虹の賢者の試練だが、カムイに恐れや迷いはないようだった。
いずれは、レオンも同じ道をたどるのかもしれない。
マークスという兄の存在に、レオンがプレッシャーや負い目を感じていることを、は痛いほどに知っている。マークスとは違い、魔導に非凡な才能を持っていようと、兄には敵うまいという意識がレオンにはある。
「おい、ぼうっとするな」
ふいに、言葉とともに思い切りどつかれる。「ひっ、執事長」痛い、という言葉すら悲鳴に代わって、は大袈裟に身を竦ませる。そんなの情けない姿をジョーカーがせせら笑い、それからすぐに睨みを利かせて凄んでくる。ひ、と再びひきつったような悲鳴が口から漏れる。
「カムイ様を全力でお守りしろ。傷ひとつでもつかせるな」
「も、もちろんです」
はこくこくと壊れた人形のように、なんども首を縦に振る。レオンがおらずとも、は暗夜王国に仕えるメイドであり、王族たるカムイを守るのは当然だ。最も、そんなもっともらしい理由などいらない。カムイが白夜の人間になろうとも、はカムイのことを大切に思うだろうし、カムイと過ごした時間は大事な思い出に変わりない。
ジョーカーがを一瞥して、すぐにカムイのために塔の扉を開けに行った。ぎい、と扉が開く重々しい音に、は緊張にごくりと唾を飲み込んだ。
先の森でカムイと対峙した際にも思ったが、先陣切って剣を振るいながら皆に指示を出すカムイには、脱帽する。長いこと城塞で温室育ちだったはずなのに──このような才能があったとは、驚きである。
はジョーカーやフェリシアと同じように、カムイの傍らで戦いながら、こっそりと感嘆する。
マークスに剣の稽古をつけてもらったり、レオンに勉強を教えてもらったりしていたのは知っているが、それはほんの暇つぶしや戯れのようなものだったに過ぎない。なにせ、カムイが外に出ることはないと考えられていたし、さらに言えば戦場に立つなんて思いもよらないことだったからだ。
けれど、カムイの決意の固さこそが、強さの理由かもしれない。私は選びました、とカムイが剣を強く握って言うように、などには到底わからないほどに悩んで選んだ道なのだろう。
それにしても、とは内心でつぶやく。
ジョーカーの言いつけを守ることは、困難である。皆を守るように、導くように、カムイが先頭に立ってしまうから、必然的に敵の狙いの的となるのだ。指揮を執るリーダーなれば、もっと後ろに控えてもいいだろうに、カムイがそれをすることはなかった。
「くだらねぇな……」
ジョーカーが低いつぶやきとともに、暗器を敵兵へ放つ。綺麗な軌道を描いて、暗器は急所に突き刺さった。
ギュンター仕込みの戦闘能力は、執事でありながらそこらの兵士よりもずっと優秀だ。くるりと手中で暗器を弄ぶ姿を見て、はジョーカーの稽古を思い出して思わず身震いする。
「さん、こちらはいいのでオボロさんの回復をお願いします」
カムイの傍を離れることは不本意だが、指示とあれば従うほかない。は言われた通り、オボロと呼ばれた女性の元へ駆け寄る。
「えっ」
は落としそうになった杖を、かろうじて掴みなおす。「あ、あの……」思わず声が上ずった。オボロが鬼のような形相をしているからだ。仲間だというのに恐怖すら覚えるが、はオボロに近づく。白夜の祓串と違い、ライブの杖は距離があると使用できない。
のぎこちない動きに気づいてか、オボロが視線を上げた。
「ああ、ごめんなさい。私、暗夜王国が嫌いなの。だからついこんな顔になるけど、すぐに戻ると思うから気にしないで」
「あ、は、はい」
は目を伏せて杖を掲げる。ぽう、とオボロの身体を包んだ光が消える頃には、鬼の形相もなくなっていた。ほっとすると同時に、オボロが笑みを浮かべた。
「ありがとう、助かったわ」
「いいえ、これがわたしの務めですから」
はオボロに軽く頭を下げて、カムイの元へと向かう。敵の数もだいぶ減っているようだ。塔の最上階まで来たのだから、もう終わりも近いだろう。は気を抜かぬよう、ぐっと暗器を握りしめる。
再びカムイの傍らまで戻ったときには、最後の敵兵をカムイが斬り伏せた後だった。
カムイが乱れた息を整え、皆を振り返って笑顔を見せる。
「ついに、最上階に辿り着きましたね……この扉の向こうに、虹の賢者が……!」
すぐにでも扉の向こうに飛び込んでいきそうな勢いのカムイを、リョウマの手が止めた。そうして、カムイが緊張した面持ちで扉の前に立ち、塔の入り口でもしたようにジョーカーの手が扉を開いた。景色が一転する。は唖然として瞳を瞬かせた。
カムイの前には、虹の賢者について教えてくれた老爺が立っていた。
カムイが虹の賢者の試練を乗り越え、五番目の勇者となったということは、兄であるマークスや国王ガロンと肩を並べたといっても過言ではない。喜ばしいことのはずなのに、の胸中は複雑な思いを抱いていた。
このことを知ったら、レオンが劣等感を強めることが想像に容易い。
城塞に閉じ込められた哀れな姉に対して、レオンが心のどこかで見下し、またマークスやカミラが目にかけることに嫉妬を抱いていたことをは知っている。決して、子どもじみたことを言うことはなかったけれど、カムイがいなくなってレオンの後ろ暗い胸中が、すこしずつ吐露されるようになっていったから。
ぐっ、と唐突に腕を掴まれる。非難の声を上げようとしたの唇は、相手の顔を見て音もなく結ばれる。掴まれた腕は痛いくらいだったが、には文句も言えない。
「ずいぶん、腑抜けてるようだな。カムイ様を全力でお守りしろ。それができねぇなら、とっとと失せろ」
「……!」
「てめぇのせいで、今日カムイ様は三つほど傷が増えた。傷が残るようなことがあれば、俺に殺されるところだが……今後そうなっても文句はないな?」
畳みかけるように次々と紡がれるジョーカーの言葉に、はうんともすんとも言えずに、うつむいた。ちっ、とジョーカーが舌打ちする。
「これなら、フェリシアのほうがよっぽど使いもんになる」
ジョーカーが吐き捨てるように言って、腕を放す。
は全力でお守りした、と胸を張って言えないことが悔しくて、ジョーカーに呆れられたことが悲しくて、うつむいたまま唇を噛んだ。──カムイの顔を見るたびに、レオンの傷ついた表情がちらついて、動きが鈍ってしまう。
そのことをジョーカーに見抜かれてしまったばかりか、叱責を受けてしまい、は動揺を隠せない。
カムイ様を一番に考えたい、と思っているのに、身体がついていかない。そのせいでカムイが受けなくてもいい傷を負った。激しい後悔の念がを襲う。
涙がこみあげてきて、はぐっとまなじりに力を込める。
「……っ、」
けれど、うまくいかずに、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。ジョーカーにだけは見限られたくない。は慌てて手の甲で涙を拭う。
「す、すみませ、」
あまりに涙声で情けなくなる。ごしごしと目元をこすっても、次から次へと涙があふれて止まらない。レオンに冷たく別れを告げられてからというもの、ずいぶんと涙腺が緩くなってしまった。
ジョーカーがため息をついて、の両手首を掴んで動きを止めさせた。
「赤くなるだけだ、やめろ」
手がなくなったことで、涙はぽたぽたと頬を伝い落ちていく。
「てめぇの仕事はカムイ様をお守りすることだ。いいな、次はない」
ジョーカーの鋭い視線をにじむ視界で受け、はゆっくりと頷いた。「わかり、ました……」と、答えた声は震えを持っていた。
綺麗に折りたたまれた白いハンカチが、目元に押し付けられる。
「そんな顔でカムイ様の前に出ることは許さん。心配をお掛けするだけだからな」
返さなくていい、とジョーカーがそっけなく言って、踵を返す。
閉じた瞼にハンカチを当てると、清潔な石鹸の香りがした。ハンカチはすぐに涙を吸って、すこしだけ色濃くなっていく。カムイ以外にもハンカチを差し出すことがあるのだな、とは泣きながらぼんやりと思った。
それ以来、の部屋の机には、大事に大事に白いハンカチが飾られている。
目の前には、再び天蓋の森が広がっている。年がら年中暗い暗夜王国でも、最も暗いと言われる森は不気味であるはずなのだが、暗夜王国で育ったには見慣れた暗闇に安堵を与えた。「戻って来られましたね。暗夜王国に……」ノートルディア公国に行ったときと同じように、カムイが呆然とした様子でつぶやくのを、は傍らで聞いていた。
ほかの面々も、やはり慣れないワープに目を白黒させている。
「次の目的地は北にある砦だな」
リョウマが虹の賢者にもらった地図を広げて先導していく。そのあとに続くカムイの背を、はじっと見つめる。
──お守りすべき、小さな背だ。
視線に気づいたカムイが振り向いて首を傾げた。
「さん? どうしました?」
「あ……い、いいえ、なんでもございません」
そうですか、とカムイが安心したように笑って、また前を向く。はその背を追おうと足を踏み出す。
「っ!」
ジョーカーのいかつい籠手で額を軽く小突かれる。それなりの痛みと衝撃に、はぐっと悲鳴をこらえて、それでもにじんだ涙目でジョーカーを見上げた。
実にさわやかな笑みで見下される。
「執事長……」
「てめぇにしては上出来だ。うまく隠せたようだな」
すい、とジョーカーの指先が動いて、の目元を指した。は額を押さえながら、ジョーカーの叱責を思い出してうっすらと顔を青ざめた。
ジョーカーにハンカチを渡された後、必死で瞼を冷やしたのは記憶に新しい。
は思わず視線を逸らしてうつむく。
「し、執事長、わたし」
ぐ、と片手で顔を掴まれて言葉が途切れる。ジョーカーが笑顔のまま「だが、言った通り次はない。俺は甘やかさんぞ」と、告げる。すぐに手は離れ、ジョーカーもカムイの傍へと消えていく。
食い込んだ籠手の痛みを残されたは、赤くなったであろう頬をさすりながら、自分のつま先を見つめる。
「……わかってます」
じわ、とにじんだ涙は、痛みのせいにした。