(100題「遠浅の海」続き)
翌日大学に行くと、南雲はストーカーから彼女を救ったヒーローとしてもてはやされていた。
構内に足を踏み入れた途端に他方からの視線を感じ、内心身構えていたは、友人が興奮気味に教えてくれたその話に脱力した。南雲の行為は過剰防衛としか思えなかったが、みんなあの顔に騙されているのだ。騒ぎが大きかったこともあり、ストーカー男の停学処分が決定したらしい。
「それにしても、格好よかったよねぇ……ちゃんの彼氏」
友人がぽわっと頬を赤くして、うっとりと呟いた。「いいなあ」と羨ましそうに続ける友人を前に、もはやはその関係を否定できないことに気づいた。おのれ南雲、許すまじ。
「正直、彼氏作ってる余裕ないんだけどね……就活の準備で忙しいし。う~でも羨ましい~」
「……そういえば、教授がお呼びになっていらしたのでは?」
「あっ、そうだった! 忘れてた~、ありがとう! ちゃん、また明日ね」
これ以上南雲の話を続けられてはたまらない、とは何げなく話題を変えた。友人は慌てて席を立ち、これまた慌ただしく去っていく。
は微笑みながら小さく手を振っていたが、その姿が見えなくなると小さくため息を吐いた。
南雲が彼氏なんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。
顔の良さも、殺しの腕も認めるが、性格に難がありすぎる。絶対にパスだ。
人の噂も七十五日──南雲の噂がなくなるまで、彼には絶対に大学に近づいてほしくないが、正直に頼んだところで面白がって逆に日参されるのは目に見えている。どうしたものかな、とは憂い顔で、もう一度細くため息を吐き出した。
「だな」
席を立つと同時に、うしろにぴたりとくっついてきた人影が、ぼそりと小さく呟いた。動きや気配からして、一般人ではない。「妙な動きをするとどうなるかわかるな」と、手にしたナイフをわざわざちらりと見せてくれる。
「家にはたっぷり恨みがあるんだ。わるいな、お嬢ちゃん」
「…………」
「歩け」
この口ぶりだと、は暗殺稼業とは無縁の、ただの女子大生だと思っているようである。
は少しだけ身を震わせながら、指示に従った。つかず離れずの距離を保ってついてくる男を、はちらりと窺った。私怨で殺しをするなんて、殺し屋としては二流三流と言わざるを得ない。
表向きは、昨日も南雲も言っていた通り大手警備会社を家族経営しているが、その実態は暗殺一家である。もまた、大学卒業後は暗殺稼業を営むため、三年生になったいまも友人のような就職活動は必要ない。
大学を出ると、また男が距離を詰めてきた。人気のない行く先まで、指示したいらしい。にとってもそれは都合がいい。
怯えたふりをしながら大人しく歩いて、辿り着いたのは路地裏だった。
はいかにも、こんなところには足を踏み入れたことはない、とばかりにそわそわとあたりを見回しながら振り返った。
「あ、あの……」
「大事なお嬢ちゃんが死んだら、あいつらはどんな顔をするんだろうな?」
くつくつと笑いながら、男はナイフを振りかぶった。遅い。はその切っ先を視線で追いかける。
「危ない!」
静かな路地裏に、あたりを切り裂くようにして声が割り込んだ。
男よりもよほど鋭い身のこなしでの前に飛び出たその人は、振りかぶられたナイフを蹴飛ばして、あっという間に男を取り押さえてしまった。は悲鳴を上げてうずくまりながら、内心で拍手を送った。
「シン! 急に走ってどうしたネ!?」
「いや、なんか物騒な声が聞こえて……っと、あんた大丈夫か?」
「あ…………は、はい……」
差し出された手を、は震えながらとって立ち上がる。シンと呼ばれた金髪の青年が、何故だか妙な顔をした。その背後では「こいつ、悪いヤツ?」と、中華娘が昏倒した男を足蹴にしている。
「……ほら、こんなとこに来るなよ。危ないから」
青年が、の肩をそっと押しやる。
「は、はい。助けてくださり、ありがとうございました……」
はそのまま走って、路地裏を離れた。
ずいぶんと親切な殺し屋がいるものだ。青年は、紛れもなく同業者である。そういう匂いがした。
それにしても、不運が続く。明るい表通りに出たは、ため息を吐きながら、肩についた埃を払ったのだった。
「シン、あの女がどうかしたカ?」
「……心が読めなかった」
「女の心読むなんて、変態ネ」
「おい!」
「……と、いうことがありましたの」
昼間の出来事を手短に報告して、は用意されていたナプキンを膝へと広げた。
どうやら、夕食に同席する父と母に心当たりはないようで、つまりあの男の私怨は三人いる兄のどれかに向けられている。
「え~、なにそいつ。殺しちゃっていい?」
「……なぜ、南雲さんがうちにいらっしゃるんです?」
「ちゃん、そう邪険に扱うものではありません」
母親にぴしゃりと嗜められ、は閉口した。
その顔で母親までもを籠絡するとは、恐るべし南雲。はちら、と南雲を見やってすぐに視線を手元へ落とした。このフォークとナイフで、何とかこうとか、南雲の息の根を止められないだろうか。無理か。
「南雲さんは、ちゃんの婚約者になられるのよ」
反射的に、フォークを南雲の眼前に突きつけていた。ナイフではなくフォークだったのは、南雲が左隣にいたからである。「危ないなぁ」と、困ったような顔をして、南雲が事もなげにフォークを取り上げる。
はナイフをいつでも振れるようにしながら、母親を振り返った。
「笑えない冗談ですわ」
「あら、冗談ではなくってよ。ただし、南雲さんがあなたをその気にさせれば、ですけれど」
は母親から視線を外し、黙する父親へと向けた。「そういうことだ」と、だけ告げる。
一家の大黒柱であり、娘を溺愛する父でありながらも、妻には弱い。どうせ母親の勢いに押されて、何も言えないのだ。は再び母親へ視線を戻した。
「意味がわかりませんけれど」
「ちゃん、あなた南雲さんのどこが不満なのかしら? 南雲さんほど我が家にふさわしい方もそうそういないと思わなくて? あなたは南雲さんを信用できないみたいですけど、ORDERに所属しているなんて一番信頼に値しますでしょ」
「お母様……」
完全に丸め込まれている。
は右手に持っていたナイフを、力なくテーブルへと下ろした。
「納得してくれた?」
くるりとから取り上げたフォークを手の内で弄びながら、南雲がこてんと首を傾げた。さらりと黒髪が流れる。
納得したのではない。これは、諦めである。
「お兄ちゃんたちにはまだ言っちゃだめよ、きっと荒れ狂うもの。ちゃん大好きですからね」
「……お母様、お父様。わたしは承服できかねます」
南雲が不服そうに唇を尖らせる傍らで、母親が高笑いをした。
「そんなことわかっていてよ。だからこそ、あなたをその気にさせれば、という条件をつけたのです。わたくしたちだって、できれば大好きなちゃんをお嫁になんか行かせたくないの。だからね?」
「だから?」
「ちゃんが大学を卒業するまでにその気にさせられなかったその時は、金輪際ちゃんには関わらないようにしていただくわ。我が家総出でね」
終始上機嫌に笑みを湛えていた母親が、鋭い殺気を放った。娘のでさえ、手の内に冷や汗をかくほどだったが、南雲はといえばケロッとしている。
母親はそれを見て、満足そうに目を細めた。
「ね~、これって全部毒入り?」
色の変わったナイフとフォークを見て、南雲がげんなりとした顔をする。毒に慣れさせるため、家の食事は基本的にすべて毒が盛られているのだ。さすがの南雲も毒入りの食事には手がつけられないらしい。
はそれを見て、少しだけ胸がすいた。
「もちろん、家ですもの。わたしと結婚したら大変ですわね?」
は得意げに言って、南雲からフォークを取り返した。
当たり前のようにの部屋までついてきた南雲が「お腹空いたな~」と、ソファに身を沈めながらぼやく。は南雲を黙らせるために、友人からもらったポッキーを鞄から取り出して押しつけた。
「えっ、くれるの? ありがとーちゃん、だいすき~」
「それを食べたら帰ってくださる?」
は冷めた目を向けた。
南雲がに絡むのは、好意からなどではない。殺連に所属していない家の手綱を握りたいだけだ。
──その気にならなければいい。
はそう結論づけて、ふいっと南雲から視線を外した。
そう、がその気にならなければ、南雲との煩わしいやりとりはなくなる。いかに南雲とはいえ、家総出となれば、手出しはできないはずである。
「ちゃん」
振り向くと、すぐそこに南雲の姿があった。音も気配もなく──
ぎくりと身体を強張らせたの唇に、ポッキーの先がくっつけられる。にこ、と南雲が笑って「一本あげる」と言った。
「わたしが差し上げたものですのに、図々しいですわよ」
「くれたんだから、僕のものでしょ」
ため息を吐きながらもポッキーを受け取り、その先端を齧れば、南雲もまたポッキーをぱきりと口の中で折るところだった。はちら、と南雲の手元を見て「食べたら帰ってくださいね」と、もう一度念を押す。
南雲からは笑みが返ってくるばかりである。
それどころか南雲は「そういえば」と、話題を転換した。
「昼間の奴、ホントに殺しちゃっていいよね?」
は小さくため息を吐いて、南雲を追い出すことを諦めた。労力の無駄である。
「お好きにどうぞ」