ちゃん、午後から講義入ってないよね? 学食でランチしようよ」

 別の講義を受けていた友人が隣に腰を下ろして、ずいっと距離を詰めてくる。ふわ、とつい先日お揃いで買ったヘアオイルの香りが、鼻先をかすめた。
 は視線だけを隣にやって、小さくため息を吐いた。

「大学はどなたにでも門戸を開いておりますけれど、不審者も入り放題で困りますわね。警備を見直していただかないと」
「えっ、急に何? 大手警備会社の社長令嬢らしいお言葉だけどぉ」
「南雲さん。白々しいにもほどがあります。わたしの友人のお顔を借りるのはおやめくださいね、不愉快ですから」

 ちえっ、と唇を尖らせるその顔は、すでに友人のものではない。

「あ~あ、すぐバレるからつまんないな~。ちゃんさあ、ちょっとは騙されたふりしてくれない?」
「茶番につき合う筋合いはありません」
「つめたいなぁ。僕だって傷つくんだよ? たまには優しくしてくれてもいいと思うんだけど」
「傷つく? 南雲さんが?」

 は奇妙なものを見る目で南雲を見やって「あり得ません」と、断言した。
 南雲が腕を組んで机に突っ伏しながら、上目遣いにを見る。顔がいいだけに、たったそれだけの仕草がとてもあざとい。大きな瞳はうるうると潤んでいるようにさえ見える。
 小型犬のような顔をしておいて、南雲は獰猛な狼である。いや、狼よりもよっぽどたちが悪い。

「それで? ランチはどお?」
「それこそ、あり得ません。おとといきやがれ、ですわ」

 はにこりと笑って、席を立った。右隣は南雲に占領されているので、鞄を手には反対側から通路に出ることにする。長机はこういうところが不便だ。

「あっ、よかったちゃん! まだ帰ってなかったんだね」

 駆け寄ってきたのは、さきほど南雲が変装していた友人である。「お昼どうするー?」と、屈託のない笑顔を向けてくる。南雲の胡散臭い笑顔とは雲泥の差だ。
 友人が南雲に気づく前に、はさっとその視線を遮った。

「ごめんね~、今日は先約があるんだ」

 だというのに、南雲の腕が後ろから伸びて、の肩に絡んだ。ぽかんとした友人が南雲の顔を見て、ぽっと頬を赤らめる。

「あっ、そっ、そうだったんですね! お構いなく!」
「うん、ありがと~」

 にっこり。
 その笑みひとつで友人を篭絡して、南雲がの手をぎゅっと握る。きゃあ、と友人が小さく黄色い声を上げた。
 違うのだ、すべて誤解である。この男とは”そういう”関係ではなく──と、内心で呪詛のように言いわけしながら、は南雲に微笑み返した。手を握る力が強くて振り解けない。

「では、お言葉に甘えて。お先に失礼いたしますわ」

 表面だけは仲の良い恋人同士のようにふるまって、講義室を後にする。友人の視線が背中に突き刺さっているのがわかって、はろくに抵抗ができない。

「相変わらず最低ですのね」
「え~? やだな、それって誉め言葉?」

 照れるなあ、と笑う南雲を横目に、ため息を吐く。
 どうやったら南雲を殺せるだろうか。
 がそう考えたことは、一度や二度ではない。けれど、想像の中でさえ、南雲はいつも殺されてはくれないのだ。

 握られた手に指を絡められて、は南雲を見上げた。「お昼どうする~?」と、友人の言葉を真似て、南雲がこてんと首を傾げた。

「…………」
「あれ? おとといきやがれは? あの言い慣れてない感じ、可愛かったんだけどな~」
「ほんとうに癪に障る方ですわね」

 南雲とのやりとりは常に面倒で、煩わしいことこの上ない。
 さくっと殺してしまえれば楽なのだが──ORDERの名は伊達ではない。が殺す気で向かったとて、返り討ちにされるのが関の山である。南雲とはやり合うな、と一家全員殺し屋である家族にも釘を刺されている。

 ふと、南雲がの耳元に唇を寄せる。傍から見れば、立派なイチャつくカップルである。

「素人丸出しの尾行。もしかしてストーカー?」
「ああ……放っておいて結構です。二週間くらい前から見かけるようになりましたが、ただの一般人ですもの」
「ふ~ん。僕が追い払ったら、見直してくれる?」
「え?」

 思わぬ言葉に、は目を丸くして南雲を見た。にこ、と人のよさそうな笑みが返ってくる。
 「そこの角を曲がるね~」と、小さく囁いて、南雲がの手を引いた。角を曲がった先で立ち止った南雲が、ぴたりと壁に背を付けた。

 慌てた足音が近づいてくる。一般人らしくドタバタしている。しーっ、と人差し指を唇の前に立てている南雲を見て、は開きかけた口を閉じる。

ちゃんに何か用?」

 そう言いながら、南雲はあろうことかストーカー男に足をひかっけた。
 角を曲がったたちを見失わないように、と走っていたストーカー男がこちらの存在を予想していたわけもなく、見事に床を転がった。蛙が潰れたような声が上がる。

 むくりと起き上がったストーカー男は、羞恥か憤怒か、はたまた思い切りぶつけたせいか、顔を真っ赤にして南雲を睨んだ。

「ぼ、暴力反対!」
「えー、暴力って? 僕の足が長すぎたせいじゃない?」
「なっ、なっ、な……」
「ななな?」

 南雲がさきほどにして見せたように、小首を傾げる。ストーカー男が勢いよく南雲に掴みかかった。
 「きゃっ」と、は小さく悲鳴を上げて後ずさる。ちら、と南雲の視線が一瞬だけこちらを向いた。ストーカーに出くわした女子大生なら怯えるはずだ、何もおかしなことはない。

「ねえ、もう一回聞くよ。ちゃんに何か用?」
「ぼ、ぼくはただ、さんを見守っていただけで、やましい気持ちなんて」
「あはは、知ってる? それってストーカーっていうんだよ」

 南雲がストーカー男の手を簡単に振り払う。虫か何かを払ったかのように見えた。

「ストーカーだと! ぼくはそんな低俗なモノじゃない!」

 唾を飛ばしながら叫ぶストーカー男の顔面に、南雲の拳がめり込んだ。軽く二、三メートルほど吹き飛んだストーカー男は、昏倒している。人気がなかったはずの廊下にはいつの間にか人が集まってきていた。足元にストーカー男が転がってきて、学生が悲鳴を上げて飛び退く。
 南雲が、殴った拍子についてしまった血を「うわ、ついちゃった」と顔を歪めて拭っている。

「南雲さん……」
「確かに、大学の警備って心配だね!」

 にっこりと笑った南雲がの手を掴んで走り出す。人だかりの中に、教授の姿を見つけたらしかった。
 振り返った先で友人と目が合って「ごめんなさい」と、は手を合わせながら口を動かす。意図を汲みとった友人が、びしっと敬礼ポーズをしたのを見届けて、は南雲の後に続いた。



 息のひとつも切らしていない南雲に対し、悔しいがの呼吸は弾んでいた。足のリーチの差、と思うも、は内心でもっと体力をつけることを誓った。

「南雲さん、もういいでしょう」

 大学の門が見えたところで、は無理やり南雲の手を振り解いた。ふう、と大きく息を吐いて呼吸を整えてから、口を開く。

「……やりすぎですわ、南雲さん」
「あー……うん、だよね~」

 南雲が珍しく気まずげに目を逸らして、指先で頬を掻いた。

「彼氏面してちょっと脅してやろうと思ってたんだけど、ムカついちゃってさ~」
「ムカつく?」
「そう。ただのストーカーのくせに自分を正当化して、この二週間ちゃんをずっと見てたかと思うと……はらわたが煮えくり返ったんだよね」

 は思わず、怪訝な顔で南雲を見つめた。
 南雲がそんな小さなことで腹を立てるとは思っていなかったからだ。「何その顔」と、南雲がむっと唇を尖らせる。

「やましい気持ちしかない目で好きな子がじろじろ見られて、ムカつかないわけないでしょ」

 好きな子──会うたびにその好意を伝えてくるが、は南雲の言葉が、気持ちが、少しも呑み込めずにいる。
 だからますます、眉間の皺が深くなるし、南雲を見る目が細くなる。

 南雲の大きな手のひらが、の頬をむにゅりと挟んだ。

「傷つくな~その顔、僕のこと一ミリも信用してませんって書いてあるよ」

 は南雲の手を払って「その通りです、鋭いですわね」と、にべもなく告げた。南雲が唇を尖らせたまま、ジト目で見てくる。二十七にもなる男がする表情ではない。

「でも、前言撤回いたしますわ」
「え?」
「あんな些細なことで腹を立てるなんて、人間らしいところもありますのね。南雲さん」

 は小さく笑いながら、門前に停まった黒塗りのリムジンへと乗り込んだ。

「あなたも傷つくことはあるのかもしれませんわね」

 南雲が大きな瞳を丸くしている。
 「それでは、ごきげんよう」と小さく手を振って、は走り出した車に身を預けた。車に乗り込んでくる強引さがなくてよかった、と撫でおろした胸は、まだ早いリズムを刻んでいた。

(ふいに深みに嵌ってしまいそうで、)