歩くたびに、後頭部の簪が揺れるのがわかる。
食堂では、結局食べるだけで時間が過ぎ、他の乗員の話を聞くことはできなかった。ステラに浴衣の脱ぎ方を教わるため、はセツと別れてLABに足を向ける。フォン、と音を立てて開いたドアの向こうに、ステラの姿はなかった。
「いつまでほっつき歩いてんだよ。さっさと部屋に戻れっつーの」
声に振り向けば、沙明が細い目をさらに細め、を睨んでいた。このループでは、どうやら自分は彼と不仲らしい。はようやくそれに気がつく。
「もう戻るよ」
「あっそ。んなチンタラ歩いてりゃあ、襲ってくれって言ってるようなもんだけどなァ?」
「……やけに突っかかるんだね」
は小さくため息を吐いた。
胸を押さえる。苦しいのは、帯の締めつけによるものではない。沙明の発言に一喜一憂するこの気持ちが恋でないのなら、何だと言うのか誰でもいいから教えてほしいものだ。
「沙明こそ、フラフラしてると襲われるよ」
沙明によく言われる台詞を返してみる。犬も歩けば棒でンーフーンーフーまで言ってやりたいところだったが、は唇を結んで沙明の脇を通り過ぎた。
ふいに横から伸びた手が、の肩を掴んだ。
「っきゃ……!」
かと思えば、壁に押しつけられて、は背中をしたたかに打ちつける。
いくら嫌われていようとも、こんなふうに乱暴にされる謂れはない。ぶつけた背中の痛みと、肩に食い込む指先の痛みを堪えながら、は沙明を睨めつけた。
「ま、そのカッコ自体、男誘ってんだけどな」
「な、に……」
「どうするよ。セツがいなけりゃ、お前なんか簡単にヤっちまえるんだぜ」
「な……」
うまく言葉が出てこない。
怒ればいいのか、泣けばいいのか、責めて罵ればいいのか。沙明の考えが読めなくて、はどう振る舞うのが正解なのかわからなかった。そもそも、ヤるというのは──
「グノーシアとして、消すという意味?」
「は? 違ェーよ! なんッだよ、お前純情ぶってんじゃねェっての」
「よく……わからないけど、何かひどいことをするの?」
ぐっと沙明が言葉に詰まるが、肩から手が離れることはない。苦虫を噛み潰したような顔をして「調子狂うわ」と、沙明が小さく呟く。
「呑気な顔しやがって」
そう吐き捨てる沙明の唇が、すぐ傍に迫る。近づいてはいけない、とは明確に思った。身を捩って、顔を背ける。
ハッと嗤った沙明が、ぐっと肩を押さえつけて、空いていた手で顔の向きを無理やり変える。沙明の口元に尖った犬歯が覗いていた。「無駄だって。ァンダスタァン?」言い切るより早く、唇が重なっていた。
「やっ、しゃ……っん」
顔を逸らすが、すぐに唇が追ってくる。頬に触れていた沙明の手が、するりと滑ってうなじを押さえた。下唇をやさしく食んで、結び目を開かせる。熱く湿った舌先が、唇を割って侵入してくる。
混乱しながらも、は抵抗を続けた。胸を押し返したり、服を引っ張ったり、けれどそんなものは抵抗にすらなっていないようだった。
「……なァ」
沙明がわずかに距離をあけた。
「もっと気合入れて抵抗しねーと、マジでこのままヤっちまうぞ」
つい、と沙明の指先がうなじを撫でる。くすぐったいような感覚に、は首を竦めた。
話し合いの場ではよく回る口も、思考回路も、すべてが鈍い。ただ「どうせ忘れてしまうくせに」という恨みがましい思いが、腹の底を熱くさせる。
一瞬、あたりの照明が赤く光った。警報音はない。
部屋に戻るようLe Viに告げられ、沙明が渋々といった様子で身を離した。はうつむいて、押し黙る。口を開けばひどい言葉が飛び出しそうだった。ループしているの事情など、沙明が知る由もない。
「…………」
沙明の口も重い。は目を合わせることなく、足早に自室に向かった。
力なくベッドに腰を下ろす。指先で触れた唇は熱く、ジンジンと痺れているような気がした。
警報音で目が覚めるのは、もう何度目かもわからない。また一日が始まる。は億劫に思いながら身体を起こす。浴衣が着崩れてきているし、髪もほつれている。
「様、お着替えを手伝います」
ステラの声に、は警戒することなくドアのロックを解除した。
「悪ィ、ステラ。俺が先な」
「えっ? 沙明様!?」
ステラを押し除けて、沙明がズカズカと部屋に入ってくる。ご丁寧にドアロックまでしている。
「よぉ、まだ時間あんだろ。昨日の続きといこうや」
後ずさるを見ながら「お互い、無事でよかったな」と、沙明が目を細めて笑う。
沙明が近づくたびに後退していたが、すぐに距離を詰められて、昨日と同じように肩を掴まれた。さほど強い力ではなかったが、の身体は押されるがままベッドに倒れ込む。体勢を整える間もなく、沙明に馬乗りになられて身動きが取れない。
「沙明、何をする気?」
「ナニに決まってんだろ。お前は俺に身を任せりゃイイんだよ、そうすりゃお互いヘヴンってワケ。オゥケィ?」
「待って、よくわからな……」
沙明の手が、浴衣の合わせ目に伸びる。びくりとは身を強張らせた。
「……わたしが嫌いだから、嫌がらせをするの?」
眼鏡の奥で、沙明の瞳が丸くなる。
「にっぶ! オイオイ、冗談だろ!?」
「え……」
「嫌いなヤツにキスなんかしねェよ。わかんだろ? イヤ、やっぱわかんねーか。カーッ! これだから恋愛初心者は困るわ」
「…………」
はあああ、と沙明がこれみよがしに盛大なため息を吐く。
貶されている。馬鹿にされている。それを感じとることはできても、には沙明の言いたいことがいまいちピンとこない。
「いいわ。もうお前、黙っとけ」
「冗談言わないでよ。ステラ! 沙明を追い出すの手伝って」
ドアの向こうから返事はない。「ステラも俺の味方みたいだなァ、おい」と、沙明が口角をあげる。
「」
見下ろす沙明の瞳が、どこか熱っぽい。何故だか目を逸らすことができなくて、は戸惑う。沙明の指が、の輪郭をなぞるように触れる。
「頼むからそんなカッコでウロチョロすんな。マジで、誰にも見せたくねんだよ。おまけにセツと見せつけるように仲良くしやがって」
指先が触れるか触れないかの微妙な距離を保ちながら、顎先から喉元へと降りていく。
くいっ、と人差し指が顎を掬った。「う、」と妙な声が漏れた喉に、沙明の唇が触れた。ちくりと痛む。
「……わかれよ、俺ぁお前が好きなんだよ」
──どうせ忘れてしまうくせに。
その言葉を飲み込んで、「わかりにくいよ」とは苦笑をこぼした。恨むような気持ちよりもずっと、切なくて、やりきれなくて、腹の底ではなくて目頭が熱かった。
それでも、それよりもうれしさが勝っているのだから、やはりこれは恋なのだ。
いつもの服に身を包み、沙明のすこし後ろをついていく。ふと立ち止まった沙明が「ん」と、手を差し出した。は手のひらをしばし見つめて、首を傾げて沙明を見た。
はあ、と沙明がため息を吐く。
「セツとは手を繋げても、俺とは繋げないんですかー? ンー?」
が何かを言うより早く、手を掴まれる。
呆然とするを引き摺るように歩き出す沙明の、後ろから見た耳がほんのりと赤い。はじっと繋がった手を見つめて、握ってみる。大きくて、骨張った男らしい手は、あたたかい。この手の感触を、は忘れない。
「沙明、」
「…………」
「ちゃんと、続き、してね」
返事はなかったが、握り返す手の力が、肯定しているようなものだ。くす、とは小さく笑う。
メインコンソールのドアが開いて、その向こうに待つセツの瞳が鮮やかに見開かれるのがわかった。挑発的に笑う沙明の隣で、ははにかむように笑んだ。
セツのその後のループでは、沙明を“やってしまう“ことが増えたらしい。