(100題「檻の中の自覚」続き)
パレードをぼんやりと眺めていると、こつんと後頭部に触れるものがあった。「仮装はやめたんじゃないのか?」と、見下ろすクルーウェルを、はぐっと唇を噛んで睨みつける。
「マジカメモンスターがいないなら、構わないでしょう」
ふん、と鼻を鳴らして、はクルーウェルの教鞭を手で弾いた。
クルーウェルに言われた通りは泣く泣く仮装を諦めてハロウィーンウィークを過ごしていたが、それを知ったカリムがものすごく残念がって、スカラビア寮生に泣きつかれたのだ。まあ、寮長思いなのはいいことである。
は喉元に手を当てる。たった三日前につけられた鬱血痕は、まだ消えそうにない。
非常に癪ではあるが、これはある意味首輪の役割を果たしている。この格好でうろついても絡まれることがない、とはそういうことなのだ。
ほんとうに、心の底から、非常に癪である。はため息を呑み込んで、ちらりとクルーウェルを見やる。
「……クルーウェル先生は、こうなることをわかっていたんじゃないですか?」
「こうなる?」
「”やんちゃな”クルーウェル先生ですもの、生徒と似たようなことを考え」
ぴっ、と教鞭の先が唇を押さえる。の言葉を封じたクルーウェルが、満足げににやりと笑う。
「滅多なことは言わないほうがいい。マジカメモンスターがいなくなったのは事実だが、仔犬どもがおいたをした証拠などないからな」
まるで悪党がする顔である。
ナイトレイブンカレッジは確かに名門校ではあるが、少々荒っぽい生徒が多い。例に漏れず、クルーウェルも問題児だったに違いない。
は口を噤み、クルーウェルから視線を外した。べつに、言い争いをしたいわけではない。
最低最悪だと思っていたハロウィーンは、何とか楽しく終われそうなのだ。クルーウェルと衝突して、この向上した気分に水を差したくはない。
「あっ、先生! おーい!」
パレードの中から、カリムがブンブンと手を振っているのが見えた。カリムの傍らで、ジャミルが呆れた顔をしているのも見える。
仮装である尻尾が、はしゃぐ子犬のように左右に揺れているような気さえする。カリムを真似して、スカラビア寮生が同じようにこちらに手を振ってくる。狼男の仮装のはずだが、これでは恐ろしさの欠片もない。
スカラビア寮は、砂漠の魔術師の熱虜の精神に基づく寮であり、思慮深く、知略に優れた生徒が多いはずだが──寮長たるカリムの陽気さに引っ張られているように感じる。
何だかこうしていると、狼男の群れを従えるリーダーになったような気分である。
は手を振り返して、くすりと笑う。
「生徒たちが楽しそうでよかった」
一時はどうなることかと思ったが、フロートに乗る監督生もグリムも、目を輝かせている。
これもすべて、運営委員会の頑張りによるものだ。いつも手を焼かせる生徒たちだが、あとで労いの言葉をかけてあげようと思える。
「先生」
クルーウェルの呼び声に、視線を向ける。教鞭の先が、おもむろに獣耳をなぞった。
「ハッピーハロウィーン」
クルーウェルが一歩踏み出すだけで、随分と距離が縮まってしまう。心地よささえ覚える低音が、耳を撫でるようにして落ちてくる。その近さに、の身体がぎくりと強張った。
もよっぽど丁寧に化粧を施した瞳に見下ろされ、咄嗟に目を伏せる。
自然に、なんでもないふうに、と思えば思うほど、変に意識してしまう。どうしてか、喉元がひどく熱い。
「……ハッピー、ハロウィーン」
絞り出した声は、まったくハッピーな感じがなかった。それを自覚しているからこそ、は気まずげに顔を俯かせた。
ふ、とクルーウェルが笑みを零す。
「まったく、どこが格好いい狼なんだ?」
「ほ、放っておいてください」
「おっと、そうはいかない。仔犬には首輪をつけて、きちんとリードを引いてやらないとな」
クルーウェルの指先が喉元に伸びる。赤い手袋の硬い感触が、鬱血痕をなぞった。
「……誰が仔犬ですか」
「もちろん、・先生に決まっている」
さも当然、とばかりの物言いである。は手を払って、クルーウェルを睨みつけた。いくらなんでも、生徒と一緒くたにされるのは我慢ならない。
「いい加減に……」
肩を掴まれたかと思えば、くるりと立ち位置を入れ替えられる。クルーウェルに遮られてパレードが見えない。
文句を言おうと口を開くが「トリック・オア・トリート」と、クルーウェルが言葉をかぶせてくる。は怪訝にクルーウェルを見上げた。
たしかに、ハロウィーンにはこれ以上なくふさわしい言葉である。
は慌ててポケットを探るが、お菓子の欠片さえも見つからなかった。にやりとクルーウェルが唇を歪める。
「そうか、菓子が貰えないとなると……いたずらしないといけないな」
身構えることすらできなかった。
気がついたときには、唇に柔らかいものが触れていた。それがクルーウェルの唇だと気づくのに時間は必要なかったが、脳が理解するには数拍を要した。理解してなお、は動くことができなかった。
「っ、」
自身、罵倒すべく口を開いたのかさえ定かではないが、そのわずかな隙間を縫ってクルーウェルの舌が口腔内に侵入してくる。
さすがに、いたずらというには度が過ぎている。
突き飛ばそうとした手は容易く捉われて、ぐっとクルーウェルの手がの腰を抱き寄せた。
「手を上げようだなんて、バッドレディだな」
一度離れた唇が、おかしそうに言った。「なら、クルーウェル先生はバッドジェントルマンですね」と嫌味のひとつでも言ってやりたかったのに、噛みつくように重なった唇のせいで声にならなかった。
の手を掴むだけだったクルーウェルの指が、まるで恋人にするように絡んでくる。すり、と指を撫でる手袋の感触がくすぐったい。
「ん……っ」
口づけから逃れようにも、クルーウェルの手によってがっちりと身を固定されてしまっている。
はさっと周囲に視線を走らせた。皆パレードに夢中になっているし、クルーウェルの長身がうまく視線を遮ってくれているようだった。ホッとすればいいのかもわからないが、兎にも角にも誰かに見られる心配はなさそうだ。
「余所見とは、随分余裕があるじゃないか」
クルーウェルが呟く。「いい加減、目を閉じろ」と、続け様に囁いたかと思えば、再び唇が合わさる。
クルーウェルの言いなりになるのはごめんだった。なので、はクルーウェルの閉じた瞼を睨んで対抗した。
下唇をやわく食まれると、絡んだ指先に力がこもる。舌先で結んだ唇を突かれれば、舌を招き入れるように口が緩んでしまった。いけない、とが思ったときには、すでに舌がねじ込まれていた。
は、反射的にぎゅっと目を瞑る。
「ふ……」
口蓋を舐めあげる舌の感触に、ぞくりと背筋が震えて、強張っていた身体から力が抜ける。
自然とクルーウェルの手に支えられることになって、はひどく不本意な気持ちになる。舌に噛みついてやろうか、と思うも、にはそれを実行する勇気がなかった。
自分の情けなさに腹が立つが、もっと腹立たしいのはこの口づけを受け入れてしまいそうになっていることだ。
かくん、と膝が折れる。「おっと」と、腰に回った手が一層を抱き寄せた。
はさっと背けた顔を、クルーウェルの胸元に押しつけた。
「……仔犬には刺激が強すぎたか?」
「うるさい」
なるべく不機嫌な声を出したが、クルーウェルは痛くも痒くもない様子である。
こんなふうに密着したくなかったけれど、距離を取ればこの真っ赤になった顔を見られてしまうし、まだ足に力が入りそうになかった。せめてもの仕返しに、繋がったままの手にぎゅうと力を込める。手袋がなければ爪痕くらいは残せたかもしれない。
生徒たちが投げたお菓子が転がって、こつんとの靴に触れる。もうすこし早ければ、クルーウェルに悪戯をされることはなかった。
もっとも、これがいたずらで済むのかは甚だ疑問である。
「…………」
そろりと顔をあげれば、クルーウェルがじっとを見下ろしていた。引き始めていた顔の熱が再び集まってくるのを感じるが、目を逸らしたら負けな気がして、はクルーウェルを睨みつけた。
「ハロウィーンに免じて、許します」
「言葉と表情が乖離しているぞ。まったく、お前は思ったことがすぐに顔に出る」
「いちいちうるさいです。誰のせいで……」
「ほう……俺のせいで、そんな顔をしていると? それは光栄だ」
クルーウェルが実に満足げに口角を上げる。
ぶわ、と途端に顔が熱くなって、は慌ててクルーウェルの身体を押し返した。
「と、と、とりあえず、もう離れていただけますか!」
「離れる? 手を握って離さないのは、先生のほうでは?」
「クルーウェル先生!」
もはや、顔の赤みが怒りなのか羞恥なのかわからない。じわ、と涙が滲んだところで、ようやくはクルーウェルに解放された。すぐさまクルーウェルから遠ざかるべく踵を返すが「ステイ」と、生徒にするのと同じように教鞭の鋭い音と共に声が飛んだ。
は振り返って、じろりとクルーウェルを見る。
「わたしは、あなたの生徒じゃありません」
「知っている」
くい、とクルーウェルの親指の腹が、の目尻を撫でる。
「だが、首輪がある間は、俺はお前の飼い主だろう」
は慌てて両手で首元を隠す。喉に刻まれた鬱血痕が、ひどく熱いような気がした。
やられっぱなしは性に合わない。は覚悟を決めると、しなを作ってクルーウェルに身を摺り寄せた。
「いい子にしてたらご褒美をもらえますか? ご主人様」
目を丸くしたのはクルーウェルだけではなかった。パリンと割れた音に振り向けば、零れんばかりに目を見開いたカリムが、手に持っていたグラスを落としてしまっていた。
「カリム、何やって……」
遅れてきたジャミルもまた、とクルーウェルを目にして固まる。
は錆びついたブリキのおもちゃのごとく、ぎこちない動きでクルーウェルから離れると、わざとらしく咳払いをした。
「アルアジーム、バイパー。いま見たことは忘れるように」
教師らしく告げながら、は記憶を消せるユニーク魔法が使えたらいいのに、と思わずにはいられなかった。
「ハッピーハロウィーン」
ハロウィーンの運営委員長たるヴィルが高らかに告げる。
は目を逸らしながら、クルーウェルとグラスを合わせた。見なくたって、クルーウェルがニヤニヤしているのがわかる。こんなはずではなかった。そうだ、目を丸くしたクルーウェルの顔は拝めたのだから、一矢報いたと言っても──ちら、とカリムのほうを窺えば慌てて顔を背けられる。ジャミルも思い切り視線を逸らしていた。
だめだ、が受けたダメージのほうが大きい。内心で深くため息を吐く。
「もっと楽しそうな顔をしたらどうだ? ハロウィーンパーティーだぞ」
誰のせいだと文句を言ってやりたかったが、近づいてくる学園長に気づいて、は笑みを張りつけた。
「楽しんでいるようで何よりです。さあ、生徒たちに声をかけてあげましょう!」
九分九厘、ハロウィーンパーティーは中止だと思っていた学園長は、こうしてパーティーが開催できてスキップしそうなほどに上機嫌である。は笑顔を引きつらせながら、クルーウェルと共に学園長に続く。
「楽しいハロウィーンになったな」
「……ええ、そうですね!」
やけくそになって、は叫ぶように答えた。
前言撤回、やはり今年は最低最悪なハロウィーンである。