(100題「時計の針は戻らない」続き)
は混乱していた。
息苦しさを覚えて瞼を開ければ、すぐ傍に美しいバーナビーの顔があったこと。更に言えば、彼は服を着ていなかったこと。慌てて見まわしたそこが、見慣れぬ部屋であったこと。離れた場所に、虎徹がこれまた裸で眠りこけていたこと。
──はっとして自分を見下ろして、悲鳴を呑み込む。もまた一糸まとわぬ姿だったのだ。
は慌てて脱ぎ捨てられた服を身にまとい、なるべく目を逸らしながらバーナビーと虎徹にアンダーウェアを着せる。目を覚まさないように、という祈りが通じたのか、二人が起きる気配はなかった。
「……ふう」
一息ついて、はようやくここがどこか思い至った。
バーナビーの住まうマンションである。流石スーパールーキーともなると、住む場所も格が違う。
そして、何故ここに来たのかということも同時に思い出し、はそうっと寝室を覗いた。広いベッドの上には、身を寄せ合うドラゴンキッドと赤ちゃんの姿があった。すやすやと眠っている様子である。
は内心でバーナビーに断りを入れて、適当に毛布を二つ手に取った。やたらと広いリビングに戻って、眠るバーナビーと虎徹にそれを掛けてやる。
眼鏡をしていないバーナビーの寝顔を見つめる。こうしてみると、いつもよりも少し幼いように思えた。何故、裸だったのかということは、意識的に考えないようにしていた。もとより、考えても記憶にはない。
は無心で、転がる酒瓶と散らかる食べ物を片付ける。
「……たぶん、二日酔いだよね…………」
一晩で何本ボトルを開けたのだろう。は袋の中を見て、小さくため息を吐いた。
二日酔いにはシジミの味噌汁が効く、と母親だったか祖母が言っていたのを思い出して、は財布をもってマンションを出た。一度出てしまえば、締め出されることはわかっていたので、窓から失敬する。そんなところにばかり気を回してしまうあたり、やはりパニック状態だったのだ。
そのまま自宅に帰ってしまうのが一番よかったのかもしれない。だが、混乱していたはそんなことを思いつくこともなく、生活感のないバーナビーのキッチンに立っていた。砂抜きしたシジミをゴシゴシと擦り合わせて洗い、昆布と共に鍋に入れて火にかける。ゆっくりと水が湧く様子を、はぼんやりと見つめる。
お酒を飲むと記憶をなくしてしまうことは、前々からわかっていた。だからこそ、会社の人間にもアニエスにさえも口を酸っぱくして、付き合いでも酒を飲まないように言われている──のに。
「ヒーロー失格……」
鈍くさいヒーロー。自覚すら足りない。
はぐすっと鼻を啜った。更にその後、ドラゴンキッドと赤ちゃんが寝室に居なくて騒動となるのだが、いないことに気づかず呑気に味噌汁を作っていた自分が情けなくて、はぐずぐずと鼻を啜ったのだった。
の混乱は、それから数日経っても続いていた。
「さん、こんにちは」
やけにさわやかな笑顔で挨拶されて、は頬を引きつらせる。バーナビー・ブルックスJr.は、なにせ本名かつ顔出しでヒーローをしているのだ──とはいえ、ヒーローでなくても人目を惹く容姿を持っている──ざわっと辺りがどよめく気配を感じる。
ひそひそと囁く声が聞こえてきて、はつい他人のふりをしたくなった。「あれってバーナビー?」「ねえ、あっちの女誰?」「まさか恋人じゃないよね?」に向けられる視線には敵意がある。
「あ、の……こ、こんにちは…ブルックスJr.さん」
「バーナビーで構いません」
バーナビーの手が自然な仕草での肩を抱いた。ぎくりと身体を強張らせるに対して、バーナビーがキラキラと輝くような笑みを向けてくる。まぶしい。はさっと顔を伏せた。
「そう言われても、」
「これからトレーニングですか?」
「あ、は、はい」
と、正直に答えてから、は後悔した。「一緒に行きましょう」と、肩に回っていた手が、これまた自然にの手を握る。
は困り果てて、バーナビーを見上げた。
「……わたし、本当に何も覚えてなくて」
「知ってますよ。覚えているなら、」
バーナビーがふと口を噤んだ。
少しだけ寂しそうに目尻を下げて、その瞳がを見つめる。
「もし、さんが覚えていたら、目も合わせてくれなかったかもしれません」
は何も言えないまま、ただ手を繋いで歩いた。相変わらず周囲の視線は突き刺さるようだったが、それでも手を振りほどくことはできなかったし、文句を言うこともできなかった。
こういう日に限って、トレーニングルームには誰もいないのだ。もう顔を隠す必要もないので、は髪を括って、無心でトレーニングに励もうと努める。
けれども、どうしたってバーナビーのことが気にかかって、集中できない。
考えないようにしていても、あの日のことが頭を過ぎる。は子どもではない。酒に酔って、何か間違いが起きてしまったのだ、ということは容易に想像できる。虎徹の態度もどこか馴れ馴れしくて、ぎこちないのだから、気がつかないほうがおかしい。
首元の鬱血痕はもうほとんど残っていないのに、ひりつくような──
「ようやく、消えたんですね」
「えっ……」
バーナビーの視線がうなじにそそがれていることに気づいて、は慌てて手のひらでそこを隠した。何もないとわかっているのに、何故だか堪らなく恥ずかしい。
じんわりと汗をにじませるに対して、バーナビーの顔は涼しい。近づいてくることがわかっても、はただ身を竦ませることしかできなかった。長身の影に覆われて、はようやくそろりと顔を上げた。
「さん」
バーナビーの手がの頬に触れて、じいっと翡翠の瞳が顔を覗き込んでくる。ふわっとオーシャンの香りがした。の記憶の底をくすぐるような、気がした。
「覚えていなくてもいいんです。むしろ、忘れていてほしい。酔った勢いで手を出してしまったなんて、恥ずべき行為だと思っています。すみませんでした」
悔しげに眉をひそめて、バーナビーが頭を下げる。はびっくりして、慌てて口を開く。まさかあの生意気なルーキーが、この鈍くさいヒーローに頭を下げる日が来るとは、夢にも思っていなかった。
「か、顔を上げてください……」
言われた通りに顔を上げたバーナビーが、やさしく微笑んだ。「それに」と、続けるバーナビーの瞳が、悪戯っ子のように細められる。
「覚えてないのなら、何度でも告げます」
「なに、」
「好きです、さん」
「え?」
の混乱は続く。