風魔龍の姿は見えず、鳴き声も聞こえない。それでもいまなお、モンド城は風災に見舞われていた。は風の渦巻く上空を見上げて、目を眇める。
モンドの”四風守護”の一柱、東風の龍トワリン──それが風魔龍のかつての姿だ。
ぶわりとひときわ強い風が吹きつけて、は目を瞑った。こんなふうに、機嫌を損ねるようにしては、風が吹き荒れる。竜巻こそ収まっているものの、いつまた襲いくるかわからない状況が続いていた。
「危ない!」
風に紛れて声が届く。
薄く開いた視界に、風によって飛ばされた看板が迫るのが見えた。は反射的に身構えるが、衝撃が訪れることはなかった。そろり、とが再び目を開けたときには、壊れた看板が足元に転がっていた。
視界に広がっていたのは白い背中だった。薬品の香りがする。「大丈夫かい?」と、顔を覗き込むアルベドの髪が、風によっての頬をくすぐった。
「ありがとうございます、アルベドさん」
「こんなところで何をしていたんだい? まだ城内を歩くのは危険だと思うよ」
「ええ、でもマーガレットさんに頼まれて、猫を探しているんです」
そう、とアルベドが少しばかり呆れた顔をする。
先日の暴風に驚いて、飼い猫が逃げ出してしまったというのだ。マーガレットがひどく心配しているので、早く見つけてあげたいところである。
「とりあえず、ここはボクが見ておくよ。城壁を強化しておく必要があるからね」
「まあ、アルベドさんが? お忙しいのでは?」
「ついでだから、大したことないよ。それより、もうすぐこの風も収まるはずだ。猫を探すのはそれからにしたほうがいい」
「アルベドさんがおっしゃるなら、そうします」
見上げた空はいまだ暗い。には風が収まるようには到底思えなかったが、アルベドの目にはそう映ってはいないということだ。
アルベドは、西風騎士団の首席錬金術師兼調査小隊隊長である。天才と呼ばれる彼には、などでは理解できないようなことを考えているのだろうし、多くのことが見えているのだろう。は感心するばかりだ。
ふいに、髪と同じく淡い色の眉がひそめられる。
伏せた睫毛に縁どられた薄氷の色をした瞳が、暗い空のもと影を落とすように見えた。
「怪我をしているのかい?」
アルベドの手が、の腕をそっと持ち上げた。
打撲と擦り傷という、にしてみれば小さな怪我である。先刻と同じように、風に飛ばされた物がモンド市民に当たりそうになったところを庇ったのだ。アルベドに指摘されるまで忘れていたほどだが、彼はその端正な顔を痛ましげに歪めた。
「大したものではないので大丈夫ですよ」
「工房に」
「いえ、あの」
「スクロースがいるから、彼女に手当てをしてもらうんだ」
アルベドは有無を言わせぬ力強さでそう告げて、の背中を押した。「言うことを聞いてくれるよね?」と、言葉ばかりはやさしげだったが、を貫くその視線は鋭かった。
「……わかりました。では、お邪魔させていただきますね」
満足そうに頷いたアルベドが、踵を返す。結われた三つ編みの毛先が風に揺れるのを見つめてから、は工房へ向かうべく風の翼を広げて、城壁を降りたのだった。
丸い眼鏡の向こう、大きな瞳が落ち着きなく動いている。
怪我の手当てはすぐに終わって、工房をお暇しようとしたを引き留めたのは、スクロースだ。「先生が戻るまで、待って」と言われたものの、やはりはお邪魔なのではないかと思う。アルベドの工房には触れてはいけないものが多いし、そもそも騎士団はにとって居心地のよい場所ではない。
騎士団に力を貸してほしい、と言うのはアンバーやガイアだけではないし、昨日今日に限ったことではないのだ。
「あの……その……」
西風騎士団の一員とはいえ、工房にこもってばかりで、かつモンドを離れることも多いアルベドたちとはそれほど顔を合わせる機会があるわけではない。スクロースの消え入りそうな声に、は小首を傾げた。
「ただ待ってるだけは、つまらない、よね……でも、何を話せばいいのか…………」
「まあ、そんなこと。気にしないでください」
は微笑んだが、スクロースの表情は晴れないままだ。どうしたものか、とが眉尻を下げたとき、コンコンと扉がノックされた。
「は、はい!」
「スクロースさま、何かお手伝いすることはありませんか?」
「あ……ノエル。えっと、」
「あら? お客様がいらしていたのですね。お茶をお淹れします!」
工房内にさっと視線を走らせたノエルが「お待ちくださいね」と、素早く踵を返す。しゅん、とスクロースが肩を落としながら振り向いた。
「私、お茶も出さずに……ごめんなさい」
「謝らないでください、スクロースさん。突然お邪魔してしまったのは、わたしですから」
「…………うん」
髪に紛れたスクロースの耳が、ぴくりと揺れる。不安げに揺れる瞳が扉を捉えた。
「ノエルが走っていったけど、何かあったのかい?」
工房の主のお帰りに、スクロースが安堵の息を漏らした。
手際よく紅茶を用意したノエルが「何かありましたらお呼びくださいね」と、微笑んで退室した。西風騎士団のメイドである彼女は、いつも誰かのために動き回っている。ガイアが彼女を忙しすぎ、と評していたことをは思い出しながら、静かに閉じられた扉を見つめた。
「、甘いものは嫌いじゃなかったね?」
「アルベドさん、どうかお構いなく」
「もう一度聞くよ。嫌いじゃないね?」
聞くよ、と言っておきながら、アルベドはの返事を待たずに「スイーツを出してくれるかい」とスクロースに声をかけた。
が止める間もなく、スクロースが跳ねるようにして席を立つ。
アルベドがふう、と小さく息を吐いてティーカップを持ち上げた。黒い手袋に包まれた指先が、髪をすくって耳にかける。髪と指との対比する色に、つい目が留まってしまう。気品あふれる優雅な仕草だった。ふと、の脳裏を完璧な貴公子が過ぎる。
しかし、をひたと捉えたその瞳は、頭に浮かんだ色とはまったく異なっていた。
「怪我はどうだい?」
「あ、はい。スクロースさんに手当てしていただいて、」
「ちょっと見せて」と、アルベドが身を乗り出す。
の腕を持ち上げたアルベドがまじまじと見つめながら、先ほど巻いたばかりの包帯を解いていく。「まあ」とは思わず驚きに目を丸くした。傷がきれいさっぱり治っていたのである。
「うん、効果は十分だね」
「あ……よかった。傷、きれいに……治ってる」
スクロースがはにかむように笑って、切り分けたアップルパイをテーブルに置いた。「ありがとう」と、振り向きもせずにアルベドが告げて、の腕に指を這わせた。
「っ、あ、アルベドさん……!」
は慌てて腕を引っ込めようとするが、アルベドの手がそれを許さなかった。じっとを見つめる瞳は真剣そのものである。
「それも思った通りの反応だ。どんなふうに感じた?」
「……ぞわぞわしました」
「ぞわぞわ? それは不快?」
「アルベドさん……」
アルベドが素早くスクロースにメモを取るように指示を出す。はそれを横目に、小さくため息を吐いた。
「実験に協力してほしいのなら、そうおっしゃってください。こんな騙し討ちみたいな真似は……」
「だってキミ、騎士団に近づこうとしないだろう。それで、そのぞわぞわは不快なものなのかい? それとも、気持ちよさに近い?」
「そうですね……鳥肌が立ちそうな──ッん……!」
ふいに、アルベドの指先が腕を撫でて、はぴくりと身体を揺らした。
撫でた箇所をつぶさに見つめるアルベドがふむ、とひとつ頷く。
「でも、鳥肌が立つわけではないね。ボクが使ったときにはくすぐったいと思ったけど、感じ方は人それぞれだからね」
「アルベドさん」
「ああ、ごめん。傷はすぐに治るんだけど、副作用として治癒したところが敏感になるんだ」
アルベドが口を休めぬまま、包帯を元の通り巻きつけていく。
が騎士団を避けて、アルベドの工房からも足が遠ざかってしまっているのは事実である。
顔を合わせるたび工房に誘ってくるアルベドのその魂胆は、をこうして実験に巻き込みたいからなのでは、と勘ぐってしまう。ただし、彼の実験は危険なものも多いが、を傷つけたことなど一度としてないし、安全面には十分に気を遣ってくれている。
「お茶が冷める前に、どうぞ」
アルベドがそう言って、やさしく微笑んだ。ふっとやわく細められたその双眸を前に、は文句を飲み込んだ。
こうして一緒にお茶を飲む時間を望み、楽しんでくれているのもまた、アルベドの本心だと思えたからである。は頬を緩めると、紅茶に手を伸ばした。
「では、いただきますね」
の言葉に、アルベドが満足そうに頷いた。
無事に猫を見つけてマーガレットの元へ届けた頃には、暴風は収まり空には晴れ間が広がっていた。アルベドの言う通りである。
は空を見上げながら、頬を撫でるやさしい風に目を細めた。
くしゅっ、と小さなくしゃみが聞こえて、は振り向く。
「まあ、ウェンティさん」
モンドの街には数多くの自由な吟遊詩人がいるが、”モンド城で一番愛される吟遊詩人”のことをが知らぬわけもない。
ウェンティの詩を聞いたことは何度もあるし、さらに言えば酒場でもよくその姿を目にしていた。
「近くに猫が? うぅ……鼻がむずむずする」
「すみません。先ほどまでマーガレットさんの猫を抱いていたので、そのせいだと思います」
「キャッツテール! うっ……くしゃみが」
キャッツテールは、マーガレットがオーナーを務めるモンドの酒場だ。
モンドの酒造業界はアカツキワイナリーによるエンジェルズシェアが独占していたが、凄腕のバーテンダーによってその状況は崩壊した。
自由奔放でワインを愛する吟遊詩人らしく、キャッツテールに目を輝かせたかと思えば、すぐに困り顔で鼻先を押さえる。そんなウェンティを見て、は慌てて距離をとった。
「ああ、ゴメンね。君が悪いわけじゃないのに」
「いいえ。これから詩を披露するのですよね? 残念ですが、わたしは聞けそうにありませんね」
ライアーを手にするウェンティを見て、は眉尻を下げて笑んだ。久しぶりにウェンティの詩が聞けると思ったが、演奏中にくしゃみが出ては大変である。
「エヘヘ、心配いらないよ。風が君の元へボクの詩を届けてくれるはずさ」
ウェンティがそう言って、掲げたライアーに指を乗せた。柔らかい優しい音色が耳を撫でる。
「じゃあね! ディルックによろしく!」
風のように颯爽と去っていくウェンティを見送りながら「ディルックさんに?」と、は首を傾げた。とディルックは、特別な関係ではない。
「エンジェルズシェアで会おう、という意味でしょうか」
はそう解釈すると、遠くから聞こえてきたウェンティの歌声に耳を傾けた。
空になったティーカップやお皿をノエルが片づける傍らで、アルベドが小さくため息を吐いた。いつの間にか暴風はすっかり止んだようだが、アルベドの表情は明るくない。
スクロースはその様子をそうっと窺う。
の怪我だってきれいに治ったというのに、何が気がかりなのだろう。
スクロースは口にすることはなかったが、視線に気づいたアルベドが苦笑を漏らす。スクロースは慌てて目を逸らしたが、遅かった。目は口ほどにものを言うものだ。
「のことが心配なんだ」
長い睫毛がアルベドの瞳を覆う。憂いげなその顔を、スクロースはちらりと見やった。
「モンドのためなら、彼女はきっと無理をしてしまう。自分の怪我には無頓着だしね」
「……確かに…………」
大した怪我じゃないですよ、と笑ったの顔を思い出す。血が出ていたのに、彼女はほんとうに露ほど気にも留めていなかった。
「モンドに帰ってくるタイミングが悪かったね。騎士団はたぶん、喉から手が出るほどが欲しいだろうね……かわいそうに」
かわいそう。スクロースはぱちぱちと瞳を瞬いた。
「あれ? 知らないのかい。はよく騎士団に手伝いを頼まれていてね、だけどあくまで冒険者だから、とこちらの仕事に手は出さないんだ」
「はい。それがさんの信条、なのですよね」
ノエルがにこりと頷く。騎士団の一員でありながら、あまり他者と関わらないせいで、そんなことすらスクロースは知らなかった。
「その信条を曲げさせてしまうかもしれないね」
小さく呟いたアルベドが、先ほどスクロースがとったばかりのメモ書きに指を走らせる。
アルベドがこんなふうに誰かを気にかけるのは珍しい。スクロースはそう思ったが、決して口には出さなかったし、アルベドを窺うこともしなかった。