(100題「テディ・ベアの逃走」続き)













 雄英体育祭といえば、かつてのオリンピックに代わる日本の一大イベントである。先日の敵連合襲撃事件のせいで、雄英高校は良くも悪くも世間から注目を集めているなかでの開催は、間違いなく例年よりもずっと盛況だった。
 個性を使って競い合うのだから、怪我はつきものである。リカバリーガールとともに生徒たちの治療に備えるは、ソワソワしながら競技の行方を見守っていた。

 褒美をねだったあの一件以来、爆豪が保健室を訪れることはなかった。体育祭で一位を取るということは、簡単なことではない。ただ、爆豪の個性、性格、身体能力──それらを考えると、決してあり得なくはないだろう。あれだけはっきりと宣言したのだから、彼はやってのける、ような気がしてならない。
 しかし、にはふさわしい褒美など思いつかないのだ。

 激しい爆発音と黒煙が上がる。爆豪の個性がステージを抉るように破壊して、細かな瓦礫が舞う。生徒たちが真剣に、全力でぶつかり合っている。だからこそ、も真剣に、真摯に爆豪に向き合わなければならない。ステージの熱気がこちらにまで伝わってくるようだった。
 これまでとは比にならない、爆豪の手のひらから放たれた爆発に、は思わず目を瞑る。ぶわりとした熱風がの前髪を舞い上がらせた。


 爆豪と対峙していた麗日が気を失い、担架に乗せられる。「アンタはあの子の手を見ておやり」と、麗日につき添おうとしたをリカバリーガールが制した。
 リカバリーガールは、と爆豪のやりとりをある程度知っている。は戸惑いながら、頷いた。まだ観客席には戻っていなかった爆豪の姿を見つけて、立ち止まる。声をかけることに躊躇って、は一度小さく息を吸った。

「爆豪くん」
「あ?」

 振り向いた爆豪の目つきの悪さに怯むが、その目はすぐに逸らされたため、身体の強張りもすぐに解ける。

「手のひら、少し痛んでいたでしょう」
「……これくらいなんともねぇ」
「ちょっと前までは、すぐに保健室に押しかけてたのに」

 爆豪の驚くほどの身の変わりように、思わず苦笑が漏れる。
 ちっ、と爆豪が舌打ちする。先生と呼んでくれた割に、まったくもって尊敬や礼儀などを感じられない。ポケットに突っ込まれたままの手を掴んで、目の前に持ってくる。相変わらず、分厚い手のひらをしている。

「大したことねぇ。ほっとけや」
「すごい火力だったね。びっくりした……素手だと負担が大きいでしょ、これで冷やしておいて」

 無理やり氷嚢を手のひらに乗せる。意外にも、爆豪がそれを素直に受け取ってくれるので、は眼鏡の奥で目を丸くする。
の方が触れていた手を、爆豪の手が握り返す。
 びく、と身体が小さく跳ねた。

「見てろよ」

 じっ、と爆豪の赤い瞳がを見つめる。分厚いレンズは視線を拒んでいるはずなのに、どうしてか心までもを見透かされているような気持ちになる。

「……うん、ちゃんと見てるよ」

 爆豪の手が緩む。それと同時に、爆豪の表情もまた緩んだ。





 果たして、彼は一位を取ったが、それは納得のいくものではなかったらしい。
 表彰台の一番高いところで、爆豪が拘束されている。決勝戦で、轟があまりに呆気なかったことが原因であることは明らかだった。

 いつものことながら、体育祭は怪我人が多いため冷や冷やしてしまう。無事、とは言い切れないかもしれないが、閉会式が終わってはほっと胸をなでおろした。強い西日が差し込む保健室には、一人である。椅子に座ったままぐっと腕を伸ばすと、身体が緊張状態にあったことがよくわかった。
 ガラリ、と保健室の扉が開け放たれる。制服に身を包んだ爆豪が不機嫌そうに入り口に立っているので、は苦笑する。

「お疲れさま、爆豪くん。優勝おめで」

 の言葉を遮るように、ガンっと荒々しく扉を閉められる。

「っんにも、めでたくねぇんだよ!」

 握り締められた拳が壁を叩きつける。
 睨みつけるようにを見る瞳は、苛烈な激情を孕んでいる。その勢いのままに、大股でズンズンと距離を詰めてくるので、の身体に再び緊張が走った。

 目の前で足を止めた爆豪が、悔しげに顔を歪ませて舌打ちする。

「クソが……!」

 言葉遣いも荒く、好戦的で乱暴者のようだが、爆豪がに危害を加える真似など一度だってしたことはない。相澤が言っていた通り、敵意の欠片もないのだ。
 彼はが思っていたよりもずっと、生徒と看護教諭の立場を理解して、弁えていた。

「こんな一位を俺は認めねェ。褒美もいらねえ」
「爆豪くん……」

 はきつく握られていた爆豪の手を取って、開かせる。
 最後に放った大技の火力や、短いクールダウンを挟むだけの個性の連続使用は相当な負担をかけたはずだ。平気な顔をしているが、手のひらだけではなく、前腕まで痛みがあるだろう。

「オールマイトさんは、この一位はあなたの傷の証として受け取るように言ったね。でも、わたしは素直にすごいと思うよ」

 この日のために、日々訓練を重ねていたことだって知っている。もちろんそれは爆豪だけではないが、一位を目指すために彼がどれだけ心血を注いでいたのか知っているからこそ、有言実行した爆豪には尊敬の念を覚える。
 爆破に耐えうる分厚い手のひらは、それだけ爆豪が個性を使ってきたからに他ならない。

「これは、ご褒美じゃないからね?」

 は爆豪の手のひらに唇を寄せて、小さく口付ける。少量の唾液は、痛みをわずかに和らげる程度で、催淫効果も現れないだろう。
 ばっ、と勢いよく手を振り払われる。
 たたらを踏むように後退した爆豪の顔は、薄らと赤くなっていた。それが怒りなのか羞恥なのか、には判断がつかなかった。治療と称して人様の口に指を突っ込んでくるような子が、この程度で恥じらうようには思えないため、やはり怒りだろうか。

 すう、と爆豪が息を吸い込んだ。怒鳴られるのかと身構えるの前に、反対の手が差し出される。困惑しながら見上げた爆豪の頬はまだ赤みを帯びていたが「治療だろ?」と、すっかりいつもの調子である。
 同じように手のひらに唇を押し付けると、爆豪が小さく息を吐いた。

「まだちょっと痛ぇな。本気出せよ」
「こら、調子に乗らないの」

 爆豪が舌を打つ。
 訪ねて来た当初よりも、怒りは治まっているようだった。

「……
「よ、呼び捨て……名前を呼ぶのはいいけど、先生をつけなさい」
「チッ……先生」

 舌打ちはいらない、と指摘すると、不服そうに片眉を跳ね上げる。
 爆豪の手が、おもむろに顔に伸びて来て、は身を硬くする。「取って食ったりしねーよ」と、爆豪が呆れたように言った。眼鏡には触れずに、爆豪の指先はの長い前髪を攫った。

「俺はこんなもんじゃねぇ。この程度ですごいとかほざくな、ボケ」

 ぴん、と軽く額を弾いて、爆豪の指が離れていく。

「ま、悪い気はしねぇな」

 爆豪が口角を上げた。少し痛む額を抑えながら、は分厚いレンズ越しでしかその笑みを見られないことを、ほんのちょっとだけ残念に思った。

陽炎の中に見たも

(黒煙の奥に立つあなたは、とても眩しかった)