ん、と短い吐息のような小さな声とともに、手のひらを突き付けられる。
 その態度は到底生徒とは思えぬほど傲慢で、は思わずたじろいでしまう。つい、ズレてもいないのに眼鏡のつるを指先で支える。

「ば、爆豪くん? えーと、その手は……」
「痛ェ」
「あ、うん、そうだね……」

 なおも突き付けられる爆豪の手のひらを取って、視線を落とす。見るからに分厚い手のひらには傷など見当たらない。ちら、とは眼鏡のレンズ越しに爆豪の顔を見やる。視線が合う感覚はなかったが、爆豪の鋭いとも言えるようなつり目は、じっとを見つめていた。慌てて視線を逸らす。

 痛む原因など本人にはわかりきっているはずである。
 爆豪の個性である爆破は、この手のひらの汗腺から出るニトロのような汗によるものだ。攻撃に向いた個性は実にヒーロー向きであり、本人の好戦的な性格と相まって、とても強力である。個性を使い過ぎると汗腺が痛む──そんなことは、幼い頃から個性と付き合っている彼にとっては、当たり前に知っていることなのだ。

「個性の使い過ぎだね。体育祭が近いから、頑張るのはわかるけど」
「いいから治せ」

 爆豪が眉間に皺を刻んだ。その迫力に気圧されて、は後ずさる。

「治せって、そんな横暴な。ちょっと待って、いま冷やすものを」
「あ? んなまどろっこしいことすんな、個性使えよ」

 ぎくりと身が強張った。手元が狂いそうになりながらも、小さな氷嚢を用意する。
 生徒に対して個性はあまり使いたくない。唾つけときゃ治んだろ、といきなり口に指を突っ込まれたが故に、爆豪の傷はの唾液で癒えた。それを知ってから、事あるごとに爆豪が押し掛けてくるようになってしまって、正直言っては辟易している。そして、自分の迂闊さに頭を抱えた。

 唾液に含まれる催淫効果は、大したものではない。けれども、確かに効果はあるのだ。

「爆豪くん……あなたは生徒なんだから、もうちょっといろいろ弁えてくれないと困──

 振り向きざまに、爆豪の手が眼前に迫る。背後を取られていたことに気がつかなかったことと、爆豪の指先が眼鏡に伸びることが、を焦らせた。瞳を見られてはいけない、とぞわりと背筋を悪寒が駆け上ったのと同時に、身体は反射的に動いていた。

 爆豪の手から逃れるため顔を背け、身を低くする。行く手を阻むように咄嗟に踏みこまれた足を払って、首根っこを掴んでそのまま完全に体重を乗せて押さえ込む。
 ぽしゃ、と氷嚢が落ちる音が、ひどく間抜けなように聞こえた。

 どくどくと激しく心臓が脈打って、指先は震えていた。

「てめえ……!」

 ぎらつくような瞳に睨まれて竦みあがる思いがしたが、は押さえ込む手に力を込めた。指先どころか、全身が震えていることに、爆豪が気づかないわけがなかった。

「……なにやってるんだ?」

 ふいに掛かった第三者の声に、も爆豪もはっと息を呑んだ。
 なにをやっているのか、との問いに答えを窮しながら、は慌てて爆豪の上から退いた。無言で身体を起こした爆豪がを睨むことはなく、その視線は逸らされている。

 第三者たる相澤を、は縋るように見た。はあ、とため息を吐いた相澤が落ちていた氷嚢を拾い上げ、爆豪に投げつける。「安静に」と、取っ手付けたような言葉に対し、爆豪が何かを言うことはなかった。不満げに一瞥をくれて、保健室を後にする。
 爆豪の姿が見えなくなって、は身体の力を抜いた。

「爆豪となにが?」

 相澤に顔を覗き込まれるが、そこにあるのは探るような視線ではなく、気遣わしげなものだった。安堵のせいで泣きたくなるが、それをぐっとこらえる。まだ震えの治まらないの背に相澤の手が触れた。



「背後を取られた?」

 相澤の包帯を変える間、ぽつぽつと事の顛末を話した。動揺しているせいで上手く言葉が出てこなかったが、かすかに震える指先ではたかが包帯交換にさえ手間取ってしまったため、かえって丁度よかったかもしれない。

「情けないです。わたしだって、プロヒーローだったのに」
「……プロヒーロー、ね」

 相澤の呟きにはどこか含みがあった。「ヒーロー名は教えませんからね」と、釘を刺せば、相澤が肩をすくめて小さく笑った。

「まあ、爆豪に敵意がなかった証拠でしょう。そう気を落とさずに」
「はい……」
「俺でよければ、ヒーローの勘を取り戻す手伝いしますよ。組み手でもしますか?」
「え? いや、そんな」

 相澤の個性は抹消であり、敵との戦い方は主に捕縛布を使った体術である。では、肩慣らしにもならないかもしれない。

「もう、冗談はいいですから。まずは怪我を治してくださいね」

 それもそうだな、と細められた相澤の目元には脳無にやられた傷が残っていて、は直視できずに視線を落とす。涙が込み上げてくるのを隠して、は口角を上げる。

「はい、これで終わりです」
「ああ、どうも。いつも助かります。ばあさんみたいに小言もない」

 相澤の口調は軽い。気を遣ってくれているのだとわかって、心が温まるようだった。視線を伏せたままのの頭にぽんと相澤の手が乗せられる。

「爆豪が迷惑をかけるな」

 じんわりと、目尻が熱かった。






 ガラッ、と開けられた扉に対し、びくっと肩が跳ねる。ノックもなしに乱暴に扉を開けてくるのは、爆豪であるとわかっているからだ。

「爆豪くん、いつも言ってるけどノックと挨拶をしてね?」

 は言いながら、椅子ごと振り向く。
 ちっ、と舌打ちをした爆豪が、ツカツカと足早に歩み寄ってくる。座ったままのを見る視線は、どう見ても見くだすようだった。

「……返す」
「あ、うん。ありがとう」

 乱暴な仕草で氷嚢を手渡される。ここ最近は毎日手のひらを突き付けられていたので、拍子抜けしてしまう。そのまま踵を返そうとした爆豪に向かって、慌てて声を掛ける。

「あの、昨日はごめんね。びっくりしちゃって」

 足を止めた爆豪が、億劫そうに振り返った。苛々している様子を隠そうともしていない。
 大きく舌打ちをして、たった一歩でひどく距離を詰めてくる。には立ち上がる暇さえなかった。ぐわっと勢いよく手が迫ってくるが、は身を竦めるばかりで動くことができなかった。右手が肩を掴んで椅子に抑え込まれ、左手が腕を押さえ付ける。

 顔を寄せられ、瞳を覗き込まれる。爆豪の指先がぴん、と分厚い眼鏡のレンズを弾いた。
 彼にはこの眼が見えているだろうか──

「体育祭、この眼かっぴらいて見てろ。俺が一位になる」

 すぐには言葉が出ずに、スタスタと歩くその背を呆然と見つめていると、入り口で爆豪が立ち止まって振り返った。は小さく息を呑み、反射的に背筋を正して身構える。
 くく、と爆豪が喉を鳴らすように笑った。

「ただの一位じゃねぇぞ。俺は完膚なきまでの一位を取る」
「完膚なきまで……」
「ご褒美期待してるぜ、先生」

 「おい」「クソ前髪」だのろくでもない呼称ばかりで、爆豪に先生と呼ばれるのは初めてだった。がそれに気を取られている間に、爆豪は扉の向こうに消えていた。

「あっ、ちょ、待って……ご、ご褒美?」

 一人残された保健室で、は頭を抱えた。

テディ・ベアの逃

(逃げ道を探さなきゃ!)