(100題「泣き虫に告ぐ」続き)
暗殺チームの生き残りである女が、身体を使ってボスに取り入った──
がイタリアに戻ってきてからすぐにその噂は広がり、当然ながらミスタの耳にも届いていた。正直に言えば、下世話な話は嫌いじゃあないし、むしろ好んでいるほうである。しかし、今回に限ってはあまりに耳障りだった。
ミスタとて、まだ彼女のことをよくは知らない。
ただ、子どものように泣きじゃくったの顔が、ミスタの脳裏に焼きついて離れない。えてして、男とは女の涙に弱いものだ。
根も葉もない噂だと一蹴していたが、ミスタは偶然にも目にしてしまった。朝方、ジョルノの寝室から眠そうに目元を擦りながら出てくるの姿を、ミスタは見てしまったのだ。
ミスタは思わず身を隠し、息を潜めた。そんなミスタに気づくことなく、は小さく欠伸を零して立ち去った。しばらく呆然と立ち尽くしていたが、我に返ったミスタはジョルノを訪ねた。「おはようございます」と、ジョルノ・ジョバァーナは、いつもとまったく変わらない態度でミスタに挨拶をした。
身だしなみは整っていたし、ベッドに乱れた様子もなかった。そんなところをちゃっかりチェックしてしまった己を、ミスタは自己嫌悪した。
「うーむ……」
ミスタはひとり、首をひねった。
パッショーネでのの立場は、危うい。
ボスと敵対していた暗殺チームの人間が、ふつうに組織にいられるのは女の武器を使ったのだ、とあれこれ尾ひれをつけて囁かれている。
もちろん、ミスタは事実を知っている。がジョルノへ報告した内容については、すでに調べがついているものと何ら相違がないため、組織の人間として認めただけに過ぎない。
彼女は麻薬の密輸ルートを調べて中国に飛んでいた。もちろん、パッショーネの麻薬は作られていたものであり、密輸ルートなどは存在していなかったのだから、それは徒労に終わっている。
パッショーネへの忠誠を試す必要はない、とジョルノが判断を下した以上ミスタに異論はないし、を疑う気などさらさらない。けれども、彼にしてはずいぶんと甘い、と思ってしまったことが顔に出てしまっていたのか「彼女はチーム全員を一度に失っているんです」とミスタを諭すようにジョルノが告げた。そこにあるのは、哀れみや同情ではない。
上に立つ者としての誠実さであり、を委縮させないための慈悲であり、彼女から真実を引き出すための言葉だった。二十歳にも満たぬ少年ながらも、ジョルノは確かにギャングのボスである。我がボスながら恐ろしい。
腕を組んだミスタの前で、おやつの時間を楽しむセックス・ピストルズが、相変わらず五番だけに意地悪をしている。ミスタはそれを注意して、自分の分であるティラミスにスプーンを突き刺した。
「おッ、うめぇなァ~コレ」
ミスタはあれこれ考えるのをやめて、目の前のドルチェに意識を向けた。
セックス・ピストルズたちが食事やおやつにうるさい、とミスタが何気なくぼやいた際に、がおすすめしてくれた洋菓子店のものだった。という女は、そういうふつうの女っぽいところがある。甘いものや可愛いものに目を輝かせる。ギャングと知っていてなお、裏社会には似つかわしくないような、そんな匂いがする。
そういう奴がいたって、別におかしなことではない。そうとわかっていても、何だか納得できないような、妙な気持ちになる。またのことばかり考えていることに気づいて、ミスタは眉をひそめた。
「……ったくよぉ、何だってオレがこんなに気に掛けなきゃあなんねーんだよ」
「なにを?」
「だから、……って、どわあああァァァァァァーっっ!?」
ふいに声をかけられ、ミスタは椅子ごと倒れる勢いで仰け反った。「あっ、それ、わたしが教えてあげたやつ」と、が人の気も知らずに呑気に笑う。
「何か用かよ」
ミスタはそれを横目で見て、努めて冷静な顔をして見せる。心臓が早鐘を打っていることを悟られぬように、ついつい、ぶっきらぼうな言い方になってしまう。
「わたしもお茶にしようかと思って」
「……フーン」
やはり素っ気なく返して、ミスタはスプーンを手にする。しかし、気がつけばティラミスの残りはセックス・ピストルの腹に収まってしまっていた。
ミスタは「お前ら……」と、こめかみを引くつかせた。自分のスタンドだというのに、何ということだ。
怒鳴り散らしそうになるも、の手前ミスタは冷静を装った。このパッショーネに置いて、ミスタはNo.2である。無様な姿は見せられない。だが、内心は非常に腹立たしかった。セックス・ピストルズの次回のおやつは、ケチってやろうと人知れず決心する。
はい、とが湯気の立った紅茶を差し出してくれる。
「グラッツェ」と答えながら、ミスタは迷っていた。ジョルノとの関係を問いただしていいものか、ということである。
ジョルノに馬鹿正直に尋ねたとしても、うまく言いくるめられるのが関の山である。むしろ、それで済めばよいが、ジョルノのことだから逆にアドバンテージをとられて詰問される可能性すらある。のことが気になるんですか、と──
ちら、とミスタは紅茶に口をつけながら、を見やる。
は恐らく、聞けば答えてくれる。組織内の立場はミスタよりも下だし、なにより信頼を寄せてくれている。けれど、ミスタは唇を結んで口を開くことをしなかった。
答えが知りたいのに、聞くのが怖くもあるのだ。己のあまりの情けなさに、ミスタは内心で頭を抱えた。
「ティラミス、おいしかった?」
が身を寄せて、顔を覗き込んでくる。
「ん、あ……ああ、美味かったぜ」
距離の近さにドギマギするせいで、ミスタの態度がぎこちなくなる。それを誤魔化すためにも、ミスタは「一口しか食えなかったがな」と、じろっとセックス・ピストルズを睨んだ。小さなスタンドたちは、ミスタの視線など気にも留めずにはしゃぎまわっている。
が小さく笑う。フー、とミスタは息を吐いて、カップをソーサーに戻した。
「なあ、組織とはうまくやれそうか?」
言ってから、どのみちうまくやっていくほかないのだと気づく。ミスタは気まずげに視線を逸らした。
どうせ、この不名誉で下品極まりない噂は、の耳にも届いている。そんなふうに言われるがどんな目で見られ、どんな態度をとられているかなんて、想像に容易い。
が笑みを浮かべたまま、わずかに目を伏せた。
「言わせたい奴らには言わせればいいのよ。いずれは、黙るしかないもの」
その物言いは確かにギャングらしくて、ミスタは小さく笑った。
仕事が終わったのは、夜更けだった。
早めに報告しなければならない内容だったので、ミスタはジョルノがまだ起きているだろうと踏んで、部屋を訪ねた。
「ミスタ、ちょうどよかった」
「はあ?」
開口一番、ジョルノがほっとしたように言うので、ミスタは眉を跳ね上げた。
「彼女を部屋に運んであげてくれませんか?」
報告を聞き終えるや否や、ジョルノが己のベッド指差した。「なッ……!」驚きのあまり、馬鹿でかい声が出そうになるが、ミスタは根性でそれを抑え込んだ。
彼女──が、すやすやと寝息を立てている。当然だが、ここはジョルノの部屋であり、このベッドの主はジョルノである。ミスタはその事実を、時間をかけてようやく飲み込んだ。
「…………」
ミスタはまじまじとその寝顔を見つめ、閉じられた目尻に涙が滲んでいることに気づいた。ミスタはジョルノを振り返る。
あの、噂は──ごくり、とミスタの喉が鳴った。
「言っておきますが、噂のような関係じゃあないですよ」
ミスタの考えを読んだように、ジョルノがため息交じりに告げて続けた。
「眠れないという彼女と話をさせてもらっていたんだ。ブチャラティの話や、彼女のチームの話……まあ、今日に限っては早々に寝てしまいましたが」
「……」
ミスタは探るようにジョルノを見るが、彼は小さく肩を竦めるだけだ。「ベッドを占領されて困ってたんで、彼女を部屋まで頼むよ」と、ジョルノにぽんと肩を叩かれる。
もう一度、ミスタはの寝顔に視線を落とした。昼間に見たときには気づかなかったが、目元には隈がある。
「……ったく、食えねー奴だよ、おめぇはよォ」
ミスタがぼやくように言えば、ジョルノがふっと笑んだ。その顔を見て、ミスタはジョルノに問いたださなくてよかった、と思ったのだった。
抱き上げたの身体は、思った以上に軽かった。そうして向かったのはが与えられた一室ではなく、ミスタ自身の部屋である。慎重にベッドに寝かせたつもりだったが、小さく呻きながら、の瞼がゆっくりと開いた。
「……ミス、タ…………」
掠れた声が名を呼んで、ぼんやりとした瞳がミスタを見つめる。
その瞳がふにゃりと頼りなく歪んで、涙がぽろりと落ちた。泣き顔を見るのは二度目である。ミスタの知る限りでは、与えられた仕事を卒なくこなして、大なり小なり嫌がらせがあっても弱った素振りは見せていなかった。
持ち上げられた片腕がの目元を覆った。噛み締めた唇から、押し殺した嗚咽がかすかに漏れる。
ミスタはおもむろにその手を退けて、濡れるまなじりに親指を押し当てた。
「舐められたくねぇっつー気持ちはわかる、わかるがよぉ……オレにまで強がるんじゃあねえ」
「……だって」
「だって?」
「こんな、弱くて泣き虫な女は、パッショーネに不要だと思われたくない」
がぎゅっと目を閉じた。ぽろぽろと涙が溢れて、落ちていく。
「みんなは正しかった。わたしは、ペッシよりもずっとマンモーナで、みんなについていく覚悟もなかった。だから──」
ミスタは唇を重ねて、の言葉を奪った。嗚咽交じりの掠れた声が途切れる。
の唇はひどく熱くて、やわらかい。そのまま貪りたい気持ちを堪えて、ミスタは少しばかり距離を取った。まあるい瞳がミスタを映し出す。
「そりゃあ、違うな。何も言わずにお前を中国に逃したのは、お前だけには生きて欲しかったからだろうな」
「……何故? わたしだって、チームの一員だったのに」
「そいつらも、ブチャラティと同じような気持ちだったんじゃねぇの? お前は切り捨てられたんじゃあない。守られたんだよ」
ミスタにはわかる。を大事に思う気持ちも、守りたいという気持ちも、よくわかってしまうのだ。
が口を噤む。涙に濡れた瞳が、ミスタの顔を映していた。
「」
結ばれた唇に指を這わせて、ミスタは頬を流れる涙を舌先で掬いとる。己のベッドでを組み敷いている、ということを意識して、ミスタは身体の一部に熱が集まるのを感じた。
「……ジョルノとの噂が、オレとの噂に変わっちまうかもな」
にやりと唇を歪めて囁けば、が恥ずかしそうに目を伏せて、戸惑うように唇を震わせた。何かを言われる前にその唇を塞いで、ミスタは今度こそ思うがままの唇を貪った。
何かが動く気配を感じて、ミスタは無意識に手を伸ばした。捉えたのは手首だった。細くて、その気になれば折れそうだった。
小さく息を呑んだのがわかった。触れたところから緊張が伝わってくる。意識は覚醒していなかったが、ミスタの身体はすでに反応していた。ベッドから抜け出ようとしていたを再び抱きしめる。
「まだいいだろ……」
「み、ミスタ、でも部屋に戻らないと」
「……」
ミスタは盛大な欠伸をして、目尻に涙を滲ませる。何度か瞬きをしてから、ようやくの姿を視界に捉えた。狼狽えながらも、腕の中でじっとしている。
「朝食の時間、過ぎちゃうわ。ほら、起きて」
ちゅ、と触れるだけのキスをくれる。
このままもう少し戯れていたいが、セックス・ピストルズがご飯をくれと騒ぎ出すのは時間の問題である。ミスタは小さく舌打ちをして、仕方なしに身を起こした。
「ボンジョルノ」
がはにかむ。ミスタは少しだけ腫れぼったい目元に指を這わせて、それから唇を合わせた。
「よく眠れたろ?」
「……うん。久しぶりに、すごく安心して眠れたわ」
そう言って、が目を細めて微笑む。「グラッツェ」と囁く唇がミスタの頬に触れる。
決して性的な接触ではないというのに、何故だか蠱惑的に感じてしまうのは、昨夜の熱がまだ残っているからだろうか。やはりもう少しだけこのまま──と、の腰に手を這わすが、その手を払いのけられて逃げられる。
「もうっ……手つきがいやらしいわ、ミスタ」
「そりゃあ健全だからな」
ミスタは悪びれずに答える。む、とが唇を尖らせた。
「仕方ねぇ、夜まで待つとするか」
この手の冗談を好かないタイプだと判断して、わざとらしく肩を竦めてみせれば、赤い顔でがミスタの肩を小突いた。肉体的には強靭とは言えないので、彼女の打撃など痛くも痒くもない。以前に食らった平手打ちだって、綺麗に決まった割にはそう大した痛みはなかった。
こうしていると、ほんとうにふつうの女のようである。
彼女が言うほど弱くはないが、泣き虫という点は否定しがたい。ミスタはもう一度、の目元に指を伸ばした。隈を残す下瞼をやさしくなぞれば、が目を閉じた。ミスタは、瞼に唇を寄せる。
「……泣くなら、オレの前にしろよ」
ジョルノにだって、泣き顔を見せたくない。「しょうがねぇなぁ、オレ様の胸を貸してやるぜ」とおどけて言えば、が泣き笑いのような顔をして、頷いた。
もう眠れない夜など過ごさせてなるものか。