(「濡らした頬の舌触り」続き。五年後)
五年も経てば少しくらいは変わっているのではと期待をしたが、ところがどっこい、ときたら何ら変わらずベルナデッタの後ろに控えていた。「はあ?」と、ユーリスが思わず凄んでしまったのも致し方ないことである。
ヴァーリ伯が蟄居したのだから、はもはやベルナデッタのお目付け役である必要はないはずだ。
この五年、ユーリスはアビスを離れることができなかった。
ヒューベルトが介入したとはいえ、実際にアビスで賊たちの面倒を見れるのはユーリスくらいだ。教団の手を離れれば、あっという間に秩序を失い、瓦解するのは目に見えていた。
ユーリスとて、嫌々だったわけではない。けれど、アビスに留まることを迷ったことはある。
結局、まともに学生生活を終えることができなかったことが、ユーリスにしこりを残していた。あまりに突然の別れだったから、何もかもがうやむやになってしまった。の手を、離すつもりはなかったのに──
せめてもと思って、アビスの面倒を見る代わりに、ヒューベルトにヴァーリ伯を蟄居させた。もとより彼は反エーデルガルトだったこともあり、苦もなかったはずである。見返りとしてはあまりに安すぎるが、これでが自由になれるのなら、彼女が「ベル」と忌憚なく呼べるのなら、構わないと思ったのだ。
「だってのに、あんまりだろうよ」
ユーリスは大きくため息を吐いて、苛々と酒杯を机に叩きつけるように置いた。死ぬほど忙しい思いをしていた甲斐は、ベレスが戻ってきたからあったにはあったといえる。
勝手に期待をしたのは自分だから、それを裏切られたと思うのは間違っている。
それを理解しているからこそ、ユーリスはこの憤りをにぶつけるわけにはいかなかった。
「……チッ、変わったのはベルナデッタばっかりかよ」
背が伸びて、髪も整えて、驚くことに部屋に籠ってもいない。穴熊と呼ばれるのが相当嫌らしいが、以前のベルナデッタならばそれくらいで部屋を出ることはなかったはずだ。
その変わりようを、が嬉しそうに見ている。
以前と同じように、従者らしく傍に仕えながら。「ベルナデッタ様」と呼びながら。
「荒れてるね」
ふと、落ちてきた声に顔をあげる。ベレスの硝子玉のような瞳が、どこか心配そうにユーリスを見つめていた。
五年という月日は、彼女の顔をあいまいに十分な時間だったらしい。いまいち、しっくりこないような感覚がある。だというのに、ベレスはまるで昨日今日顔を合わせたような距離感をもって、ユーリスたちに声をかけてくる。それがさらにちぐはぐ感を与えるのだが、それを指摘すればまた「ひどい」と口を尖らせるのだろう。
ユーリスは軽く肩を竦めた。「あんたも飲むか?」と、軽口を叩いてみるが返事などわかっていた。
もうガルグ=マク士官学校はないというのに、ベレスは教師の顔をする。咎めるような視線が酒杯に向いた。
「遠慮するよ。それより、君にお客を連れてきたよ」
「……客?」
ベレスの後ろから姿を現したのはだった。
ユーリスは思わず、がたんと席を立った。
ベルナデッタに悪い影響があったら困る、と言って在学中はアビスに寄りつくことはなく、一度だって足を踏み入れたことなどなかったのだ。不安そうにあたりを見やってから、その視線がユーリスで止まる。
「」
「アビスの入り口で右往左往してたから、案内したんだ」
「……何しにきた」
に好奇の目が集まっていることに気づいて、ユーリスは眉をひそめた。突き放すような声が出てしまって、ユーリスはぐしゃりと前髪をかき上げた。ちがう、こんなことが言いたいわけではない。
の顔がますます不安に染まっていくのがわかった。
「二人とも、わだかまりは解けたんじゃなかったの」
ベレスの声には、わずかな呆れが含まれていた。「まさか、五年ぶりに会うの?」と、真顔で問われて、ユーリスは閉口した。
変わったのはベルナデッタばかり、とは言ったが、とて五年前と寸分も違わぬというわけではない。大人びて、きれいになった。いつか初めてを奪った唇は、艶やかに彩られている。
「忘れられていないようで安心しました」
「うん? 俺がお前を忘れるわけ──ああ、先生か。いや、あれは言葉のあやって奴だよ」
肩を竦めて酒杯に手を伸ばすが「お酒はやめたほうが」と、が素早く遠ざける。
そういえば、の前で酒に酔って失態を犯したこともあった気がする。そんなことも、いまでは記憶の片隅に追いやられてしまっていた。五年あれば、赤ん坊だって歩き回ってしゃべりだすというものだ。
「酔いつぶれたら、お前に看病してもらうさ」
ユーリスは口角を上げて、の顔を覗き込んだ。の手ごと、酒杯を自分のほうへと引き寄せる。ぴくり、と手の中での指先が跳ねた。
「……困ります」
「ああ、貸しをつくっておく必要があったか?」
「そ、そうではなく……」
が目を伏せる。睫毛が頬に影を落とした。
逃げようとする手を掴んで、指を絡める。揺れる瞳がユーリスを見た。以前と変わらずに、そこら中に暗器を仕込んでいるのはわかったが、がそれを取り出す気配はない。
「五年も放っといて悪かったな」
そんなつもりじゃなかった、なんて言いわけをするつもりはない。
ユーリスを見つめる瞳が、じんわりと潤んでゆく。が慌てて顔を伏せて、目元を指先で拭う。「ベストラ候に聞きました」と、小さく落とされたその声は湿り気を帯びていた。
「あなたは、この五年アビスのために奔走したと。それに、旦那様の蟄居にあなたも関わっていると」
「別に、大したことじゃねえさ。ここにいる奴らの面倒は誰かが見なきゃならねえし、ヴァーリ伯の蟄居だってなるべくしてなったようなもんだ」
「それでも、わたしはあなたに感謝しています。ベルナデッタ様が」
くい、と指先での頤を持ち上げる。驚きに見開かれた瞳はわずかに濡れていた。
「ベルナデッタのためなわけねえだろ」
ぎゅ、との手を握り込む。
ベレスの顔は忘れかけようとも、のことを忘れるわけがない。顔すら拝めないこの五年、気がかりだったのは、の安否でありもっと言えば心移りだった。ユーリスが忘れずとも、彼女は忘れているかもしれない。
忘れられていなくて安心したのは、ユーリスのほうだ。
なにせ、ユーリスが誇れるものといえば、この美しい顔くらいである。だというのに、顔なんて忘れてしまう。
「お前のためだ」
が小さく息を呑んだ。
「蟄居なんかじゃ甘かったみたいだな」
「え……」
「忘れたか? 俺は悪党だぜ?」
「……、」
「お前のためならいくらだって手を汚せる。ガキじゃねえんだ、ベルナデッタのときみたいなヘマはしねえよ」
薄く開いたの唇から、震える吐息が漏れた。ユーリスの本気を感じ取ったのかもしれない。
ぐ、とのまなじりに力がこもる。
「わたしはそんなこと、望んでいません」
の睨むような視線を受けて、ユーリスは双眸を細めた。
「悪党が、他人の気持ちを汲むと思うか?」
「ユーリスさんが悪党でも、わたしの気持ちは汲んでくれるでしょう?」
おもむろに、掴まれたままの手に、が空いている手を重ねた。今度はユーリスが息を呑む番だった。
「惚れた弱みです」
がはにかみながら言った。ユーリスは反射的に言い返そうとして、しかし、口を噤んだ。
ユーリスがに惚れているのは、紛れもない事実である。
自分で言っておきながら、がさっと目を伏せた。薄暗い地下でも、その頬の赤みが見えるし、瞼の色づきもよくわかった。
友にはなれない、と泣いたのために、と思っていた。けれど所詮それは、悪党らしい、自分本位で身勝手な押し付けだ。は友という関係にはなれずとも、ベルナデッタの傍にいることを選んだのだ。そう望んでいる。
黙ったままのユーリスを窺うように、が瞼を押し上げた。
その顔に影が落ちる。ユーリスが身を乗り出したからだ。
「初恋は報われない、なんてのは嘘だな」
何かを言いかけたの唇を噛みついて、言葉を奪う。閉じたの瞼から、堪えきれないように涙が落ちた。「会いたかった」と、震える声が唇に触れた。
手の内で、酒がとっくに温くなってしまっていた。
「あっ、! どこにいたの? 探し……ひぃッ、ユ、ユ、ユユユーリスさん!?」
バタバタと慌ただしく駆け寄ってきたベルナデッタが、喜色を一転して青ざめる。
「この美少年を見て、悲鳴を上げるとは失礼な奴だなあ」
「なっ、あ、うっ」
「ベルナデッタ様、どうか落ち着いてください」
変わったと思っていたベルナデッタだが、こうして接してみれば、中身は五年前とほとんど同じである。自ら部屋を出ている点は、褒めてやってもいいかもしれない。
繋がったユーリスとの手に視線を落として、ベルナデッタが目を見開く。
「、…………?」
「ま、そいういうことだ。ベルナデッタ」
ユーリスは勝ち誇った顔をして、の肩を抱いて見せつけた。ベルナデッタが瞠目したまま固まっている。石造のごとく動かないので、立ったまま気絶でもしたのかと思うくらいだった。
心配そうにが顔を覗き込むと「ハッ!」と、ベルナデッタが正気を取り戻す。
「べ、ベルは、ベルは、認めません! のこと、泣かせたんですよねっ!?」
の目元が赤いことに気づいたのだろう。ベルナデッタがユーリスとの手を引きはがし、こちらを睨みつけてくる。ユーリスは、以前よりも近づいた目線を新鮮に思いながら、ベルナデッタを見下ろした。
「が泣き虫なのは昔からだろ? 大体、お前に認めてもらう必要なんかねえだろうよ」
ベルナデッタの鼻先を指で弾いて、ユーリスは呵々と笑った。
心配して損した、と憤慨しながら去っていくベルナデッタの後に続こうとしたの手を、むんずと掴んで引き寄せる。振り解こうと動いたその身体を、ユーリスは抱きしめることで押さえつけた。
「ユーリスさん」
不満げなその顔に指を伸ばす。
「五年ぶりに会えたんだ。ベルナデッタよりも、俺を優先してくれたっていいだろ?」
「それは……」
つい、と目元をやさしくなぞってから、ユーリスは親指の腹での下唇を押さえた。そこに艶やかさはすでにない。「化粧、取れちまったな」と呟けば、がはっと頬に手を当てた。
「ユーリスさんの隣に立てるように、努力をしたのですが……どうでしょうか?」
「いいんだよ、お前はそんなことしなくて。どうせ、俺様の美貌の前では霞んじまうんだし」
「……」
「変な虫がついたら困るだろ?」
「っ、どうしてついてこないの!? 裏切者おおっ!」
ベルナデッタがわめきながら戻ってくるが、意外にもはユーリスの腕の中で大人しくしていた。