ガルグ=マクに来てからも時おり不安になって、夜更けにベルナデッタの無事を確認してしまう。
 ベルナデッタが部屋に引き籠るようになってからというもの、ヴァーリ伯の興味は失せ、更には世間から次期当主としては落ちこぼれだと認識されるに至った。ユーリスのような輩は、もはや現れることはないに等しい。

 はベルナデッタの部屋の前を静かに離れる。夜のガルグ=マク大修道院は、どこか不気味な恐ろしさがある。ベルナデッタなら震え上がるだろうが、にはこの静けさがむしろ心地よかった。
 ふと、前方に人影を見つけて、は立ち止まった。

 真夜中ではあるが、見回りの先生やセイロス騎士、夜遊びの生徒などを見かけることはある。いずれも警戒のいらない相手ではあるものの、は気を抜かずに薄闇に目を凝らす。
 細身。外套がはためいている。相手もに気づいて、足を止めた。

「誰かと思えば、かよ」
「……ユーリスさん」

 ユーリスが髪をかきあげる。ただそれだけの仕草がやけに様になっているのは、美しい顔立ち故だろうか。

 かつてユーリスがベルナデッタの部屋に忍び込んだのも、こんなふうに皆が寝静まった夜だった。足音が近づくたびに緊張が増し、は殊更身を強張らせる。
 間近に迫った瞳がじっとを見つめる。はひどくぎこちなく、後ろに足を半歩ほどずらして、わずかに身を反らす。淡い月の光が、ユーリスの大きな瞳を幻想的に輝かせている。

 はそれ以上動くことも、何かを言うこともできなかった。その瞳に吸い込まれたかのように、視線すら逸らせない。今この瞬間に首に刃を当てられたとしても、逃げられそうになかった。背筋に冷たいものが走る。
 ぷっ、とユーリスが吹き出した。

「別に取って食いやしねえよ。お前はお嬢様のお守りか? 大変だなあ」

 けらけらと笑うユーリスからは、甘い香りが漂う。は眉をひそめた。

「お酒を飲まれたんですか?」
「お説教なら御免被るぜ。ほら、いい子ちゃんはさっさと帰ってねんねしな」

 ユーリスに腕を掴まれる。痛みが走ったわけでもないのに、びくっと身体が跳ねた。物言いたげにユーリスが目を細めるが、言葉はなかった。そのまま歩き出す方向は、の部屋だとわかった。

「……待ってください」

 ユーリスが気だるげに振り向く。その顔には手を伸ばす。思った通り頬が熱く、暗がりでも赤みが目視できた。

「井戸に。さすがに飲み過ぎです」
「……」

 嫌そうに顔を歪めて抵抗するそぶりを見せたが、が手を引けば思いのほか大人しくついてくる。「俺にまで世話を焼く必要はないだろうよ」と、呆れたようにユーリスが小さくぼやいた。


 井戸の縁に腰掛けたユーリスに、汲み上げた井戸水を手渡す。喉を潤してから、軽く顔を洗ったユーリスが、顎先に滴る雫を手で拭った。毛先に水滴が残っている。
 ふーっ、と長く息を吐いたユーリスがを振り返った。

「お前さ、俺を殺したいほど憎んでなかったか?」
「……今だって、あなたを許す気にはなりません。ですが、あなたがベルナデッタ様と親しくして下さったこと、そしてベルナデッタ様の命を奪わなかったことは事実です」

 は懐から取り出した手巾を、ユーリスに向けた。

「わたしにとっても……あなたは、友人でした」

 また暗器でも飛び出すのかと警戒していたのか、わずかな間を空けてからユーリスが手巾を受け取った。
 はユーリスの顔が見られず、目を伏せる。

 にとって心許せる存在はベルナデッタだけだ。しかし、それは決して友と呼ぶことのできない関係である。は、ベルナデッタと対等にはなれない。ヴァーリ伯の命に背くことだって、できるわけがなかった。
 ベルナデッタと共に、ユーリスと遊び回った日々は、にとってもかけがえのない思い出だ。
 ──同時に、消してしまいたいほどの記憶でもある。

「あなたと過ごした日々は楽しかった。でも、それを思い出すたびに、わたしはベルナデッタ様の友にはなれないと思い知らされる」

 ふいに、ユーリスの指先がの顎を掬った。「あなたを許せない」と、告げるその声は震えてしまった。ユーリスについていた水滴を含んで湿った手巾が、目元に押し当てられる。

「だけどそれ以上に、わたしはわたしを許せません」

 ユーリスの言う通りなのだ。
 こそが、ベルナデッタを一番傷つける。

「はあ……お前の涙は結構堪えるんだけどなあ」
「え?」
「ガキの頃から、お前はしょっちゅう泣いてたな。ベルナデッタが怪我しただの何だの、ちょっとしたことで泣くから大変だったんだぜ」
「……そんなことは忘れ」

 ユーリスの手が手巾を剥ぎ取って、の言葉は途切れた。驚いて、は思わずユーリスを見つめる。涙を吸い込む布がなくなって、滴が頬を伝い落ちていく。

「お前はまだ、ベルナデッタのためにそうやって泣くんだな」

 ふ、とユーリスの口角があがる。けれど、その笑みは決して皮肉げなものでも、嘲りを含んだものでもなかった。
 だからは、目尻に伸ばされたユーリスの指から逃れることができなかったのだ。指先が涙を攫う。「ちったあ、俺のためにも泣いてくれないもんかね」呆れたふうに呟かれたその言葉の真意など計り知れなければ、問うことだってできない。

「それにしても、こんな真夜中に女が一人で出歩くんじゃねえよ。何かあっても知らねえぞ」

 そう言いながらも、ユーリスの足はの部屋へと向いていて、その手はの腕を掴んで離さない。これでは、世話を焼いているのはどちらなのかわからない。
 は知らず、泣きながら笑った。








? ぐ、具合でも悪いの?」

 扉の向こうから、ベルナデッタの声が聞こえる。迎えに行かずとも部屋から出ることができたのだ、と感慨を覚える間もなく、は反射的に扉を少しだけ開けた。

「おはようございます、ベルナデッタ様」
「おはよぉ。いつも朝起こしに来るのに来ないから、どうかしたのかと思ったあ」

 ベルナデッタがほっと胸を撫で下ろす。

「もしかして寝坊? ふふふ、にもベルみたいな抜けてる一面があるんだね」

 寝坊ではない──のだが、どう説明したらいいのかわからずに、は眉を八の字にする。「?」と、不思議そうに首を傾げたベルナデッタが、わずかな隙間から部屋の中を覗き込んだ。

「べ、ベルナデッタ様、すぐに準備を済ませます!」
「あ、う、うん? 別に急がなくて、も……」

 慌ててベルナデッタの視界を遮ったつもりだったが、その瞳は丸く見開かれて固まる。ベルナデッタの震える指先が指した寝台には、ユーリスが眠っている。

「ゆ、ゆ、ユーリスさんんんんん!?」
「うるせえなあ。クソ……頭に響く」
「……! ……!?……!? ……!?!」

 ベルナデッタが声にならない悲鳴をあげて、ふらりと崩れ落ちた。「きゃあっ! ベル!?」は敬称も忘れて咄嗟にベルナデッタを抱きとめる。
 軽くベルナデッタの頬を叩いてみるも、閉じられた瞼はぴくりとも動かない。

「べ、ベルナデッタ様、」

 は狼狽えながら、倒れた際に怪我をしていないかベルナデッタの身体を確かめる。
 どこにも傷はなく、呼吸や脈拍にも異常がない様子に、はひとまず息を吐いた。本当に、ただ気を失っているだけだ。

「驚きすぎてぶっ倒れるやつがあるか」

 呆れ果てたように言って、ユーリスが身体を起こした。こめかみを押さえていることから二日酔いであることが窺えるが、顔色はいい。

「そこを退けてください。ベルナデッタ様を寝かせます」
「……貸せ」

 おもむろに寝台を降りたユーリスが近づいて、軽々とベルナデッタを抱き上げる。やや乱暴に寝台にベルナデッタを放って、ユーリスがため息を吐いた。

「マヌエラ先生に診てもらったほうが」
「どう見たっていらねえだろ。ああもう、いちいち泣くなって……」
「っ」

 ユーリスの手に両頬を挟まれる。長い睫毛の先がぼやけるのは、涙のせいでも近すぎる距離のせいでもあった。

「泣き止まねえとこのまま口づける」

 は鋭く息を呑んだ。射抜くようなユーリスの視線が、冗談ではないと物語っている。

「待っ……」

 ぽろ、と瞬きの拍子に涙の粒が落ちる。
 ユーリスの唇が触れて離れた後に「待つわけねえだろ」と、ニヤリと笑って囁いた。

 は信じられない気持ちで、ユーリスを見つめた。その顔が滲んでしまうのは、涙がちっとも止まらないせいだ。

「ははっ、そいつは俺のせいで泣いてんな?」

 ユーリスが親指で目尻をなぞった。

「初めてだったのに」
「そりゃあいい。こんな美少年と口づけなんざ、滅多にできるもじゃねえぞ」
「何言っ……」

 もう一度、柔らかい感触が唇に触れて、の言葉を奪う。「なあ」と、唇がほとんど触れ合ったまま、ユーリスが呟いた。

「伯爵の言うことなんざ、もう聞くんじゃねえよ。お前がヴァーリ家を出りゃ、ベルナデッタとも対等になれる。それが無理だってんなら、俺が伯爵の一人や二人、消してやる」

 なんて物騒なことを口説き文句にするのだろう。やはり、ユーリスはとんでもない悪党である。
 それにしたって──

「どうして、あなたがそんなことを」

 出会い頭に暗器を向けられておいて、こんなふうに気遣うなんてどうかしているとしか思えない。は狼狽して、抵抗することも忘れていた。
 ふっ、とユーリスが笑みを零す。

「俺はお前に惚れてるんだよ」

 ううん、とベルナデッタが小さく呻いて、もぞりと身を起こした。ぼんやりとした瞳が、とユーリスの姿を捉えて「こ、これは、夢……」と再び昏倒する。
 しばしの沈黙ののち、ユーリスが小さく吹き出した。
 は恥ずかしいやら申し訳ないやら心配やらで、どんな顔をしていいのかわからない。

「ま、とにかくそう言うことだ。俺はヴァーリ家を出ることを勧めるね」
「……」
「ああそれと、世話になったな。寝台を占領して悪かったよ。昨夜は、タチの悪い貴族にこれまたタチの悪い酒を飲まされたもんでね」

 ユーリスが肩を竦める。
 を部屋まで送り届けた途端、糸が切れたように眠りに落ちたので、仕方がなく寝台に寝かせたのだ。あまりの顔色の悪さに、はユーリスを叩き起こすことができなかった。

「借りが一つ、ありましたよね。それを返しただけです」
「無理やり貸し付けたようなもんなのに、律儀だなあ。怪我させたのは俺だし、頼まれてもないのに治したんだぜ?」

 呵呵と笑うユーリスを横目で見ながら、はベルナデッタの傍に膝をついた。
 とユーリスさんが、とベルナデッタがうなされている。眉間の皺をそっと解してやるが、なかなか消えてくれそうにない。「こりゃ重症だな」と、ユーリスがの背後からベルナデッタの顔を覗き込む。

 が振り向くより早く、ベルナデッタに触れる手にユーリスの手が重ねられ、ぎくりと身体が強張る。もう一方の手が、を抱きしめるように胴に絡みついた。

「知ってるか? 悪党ってのは、どんな手段を使ってでも欲しいもんは手に入れるんだぜ」

 やはりあの時、命を奪ってしまうべきだった。そうすれば、ベルナデッタが過去を思い出して苛まれることもなければ、こうしてうなされることだってなかっただろう。
 そう思いはすれど、は隠し持った暗器に手を伸ばすことが、もはやできそうになかった。

「あなたこそ、知っていますか? ユーリスさんは、わたしの初恋の人です」

 振り向いた先にユーリスの驚いた顔がある。こともなげに告げたつもりだが恥ずかしさまでは消えてくれず、頬が熱くて堪らない。してやったり、とは無理やり口角をあげた。
 けれども、ユーリスのほうが何枚も上手だった。
 笑みを形どった唇に噛みつかれて、止まっていた涙がまたじんわりと滲んでくる。

「じゃあ、両想いってことで構わねえな?」

 あっははは、とユーリスが勝ち誇ったように笑った。

濡らした頬の舌触

(俺のために泣くってんなら悪くない)