ガルグ=マク大修道院の玄関口で立ち尽くすわたしは、なんと小さいのだろう。
あまりにちっぽけで情けなくて、できることなら、このまま小さくなって消えてしまえたらよいのにと思う。そばに控えた侍女がオロオロしているのはわかっていたけれど、声をかける気になれなかった。
今日一日、シルヴァン兄さまと一緒に過ごせる予定だった。
兄さまは、昨日と同じようにわたしを出迎えてくれたけれど、皇女殿下を伴ったベレス先生の姿を見つけると一目散にそちらに向かってしまった。「ごめん、この埋め合わせは明日」と、その軽すぎる謝罪は、わたしを見ることすらなく告げられた。皇女殿下が、兄さまを牽制するようにベレス先生の前に立ちはだかったみたいに見えた。
ベレス先生はこちらを気にしているようだったけれど、兄さまはちらりとわたしを一瞥して「大丈夫ですから」と言った。唇がそう動くのが見えて、わたしは俯いた。ちっとも大丈夫じゃない。
シルヴァン兄さまは、はるばるゴーティエからやってきた妹と担任の先生を天秤にかけて、先生を選んだ。
そう思うと、ものすごく腹が立った。けれど、その怒りはすぐに悲しみに代わって、わたしはどうしようもないこの気持ちをため息として吐き出した。
「お嬢様、お戻りになられますか?」
気遣わしげに侍女が、顔を覗き込んでくる。
おもむろに顔をあげた先に、クロードさんとヒルダさんがいた。「おはようさん」と笑いかけられて、わたしは反射的に「おはようございます」と腰を折った。
「か……かわいいー!」
桃色の髪を揺らしながら、ヒルダさんが抱きついてくる。
「あーあ、あたしもこんな可愛い妹、欲しかったなー」
「へえ、案外ヒルダが姉ってのも向いてるかもな。なんだかんだ、面倒見のいいところあるだろ?」
「……褒めても何も出ませんー」
ぷいっ、とヒルダさんが顔を背けた。照れ隠しなのかもしれない。
わたしはヒルダさんに抱きつかれたまま、クロードさんを見上げた。「シルヴァンはどうした?」と、あたりを見回す仕草から、つい先刻のやりとりは見られていなかったようだ。
口を開くけれど、言葉がすぐには出なかった。自分の口から、兄さまに選ばれなかったのだと伝えるのは、堪える。
見かねた侍女が、簡単にあらましを説明してくれる。わたしはなんだか情けなくて、つま先をじっと見つめた。
「信じられない! あたしだったら、一週間は口を利いてあげないんだから」
「じゃあ、の予定はぽっかり空いちまったってわけか」
クロードさんが膝を折ったので、わたしは視線を上げた。翡翠色の瞳がわたしを見つめる。
「よし! なら、俺たちに付き合ってくれ。ちょうど暇してたんだ」
わたしが何かを言うより早く、クロードさんの手がわたしの手を握った。困惑しながらヒルダさんを見れば「シルヴァンくんより楽しませちゃうよー」と、笑う。わたしは、クロードさんの手をそっと握り返した。
侍女が首を垂れて見送ってくれる。さりげなくゴーティエの護衛もついているし、ここはガルグ=マクだし、心配は不要だろう。
すう、と息を吸い込むと、草花の爽やかな香りが胸いっぱいに広がった。
わたしは見たことのない植物に目を白黒させる。ファーガスは寒冷な土地で、あまり植物は育たない。ガルグ=マクの温室ともなれば、珍しいものもたくさんあるのだろうし、一見綺麗な花でも観賞用ではないのかもしれない。
花壇を覗き込んでいれば「花は好きか?」と、頭上から声が降ってきた。わたしを見下ろすクロードさんは、やさしげな顔をしている。
「はい、好きです」
わたしは答えて、また花へと視線を戻す。
「ベレス先生も種を植えたらしいぞ」
「ちゃんは、どんな花が好きなのー? あたしはアネモネ」
ヒルダさんの指が、色鮮やかな花を指す。
花は好きだけれど、特別どれが好きと考えたことはなかった。「えっと」視線を巡らせるけれど、どれにも目は止まらない。
「ま、花はどれも等しく美しいってことさ」
「もー……クロードくんは情緒がないんだから」
ヒルダさんが呆れた顔をする。
わたしはクロードさんを見上げた。悩んでいるわたしに助け舟を出してくれたのだろうか。弧を描いた唇が、耳に近づく。
「花が好きなら、あとでとっておきの場所に連れて行ってやるよ」
ぱちり、と瞬きをしたときには、クロードさんは歩き始めていた。ひらりと揺れる外套を視線で追いかけていると、ヒルダさんに名を呼ばれた。
ヒルダさんの手には、一輪の花があった。ヒルダさんが好きだとおっしゃった、白いアネモネだ。
「管理人さんに貰っちゃったー。ふふ、ちゃんに似合うと思って」
そう言って、ヒルダさんはわたしの髪に花を差し込んだ。
「かわいいー! うん、やっぱりちゃんの髪には白が映えるね」
ヒルダさんがあまりに手放しに褒めるので、わたしは恥ずかしくなって、うまくお礼が言えなかった。
もじもじするわたしを、先を行くクロードさんが振り返って見ていた。
温室を出たあとは、近くの池へと向かった。釣竿を握らせてもらったのはいいものの、わたしには釣りの経験なんてなかった。
「きゃっ、これ、どうすればよいのですか!」
「おっ、結構引きが強いな。、釣りの才能があるんじゃないか?」
「く、クロードさん!」
てんやわんやするわたしたちを、ヒルダさんが「がんばってー」と遠目から応援している。
クロードさんの手を借りて何とか釣り上げた魚を食堂に預けて、大聖堂に向かうため橋梁を歩く。吹き抜けた風は、ゴーティエに比べると随分と暖かい。
「は信心深いほうか?」
煌びやかな色彩硝子を見上げていると、クロードさんが小さく問うた。わたしは視線を天井に向けながら「いいえ」と答える。
貴族は敬虔なセイロス信教徒であることを求められるけれど、女神に祈ったところで──と、わたしは思ってしまうのだ。ちら、とクロードさんを見やる。翡翠色の瞳は、わたしを非難しているわけではなさそうで、ホッと胸を撫で下ろす。
「実は、俺もだ」
クロードさんは、内緒話を打ち明けるように、そっとわたしに耳打ちした。
長椅子でご学友とお話ししていたヒルダさんが「あー抜け駆け禁止なんだから」と、頬を膨らませる。お隣に座る大人しそうな女生徒が、困ったようにそれを宥めていた。
「先に抜け駆けしたのはそっちだろ?」
クロードさんの指が、わたしの髪に挿されたアネモネの花びらを撫でる。
どう反応したらよいのかわからずに、わたしは首を竦めた。わたしを置いていったシルヴァン兄さまが憎らしくて仕方がない。
困惑するわたしをよそに、クロードさんの手がひどく自然に右手を包んだ。
「訓練場に顔を見せてみるか? イングリットやフェリクスがいるかもしれないぜ」
「いいえ。きっと、ご心配をおかけしてしまいますもの」
「じゃあ、街に行きましょ!」
ヒルダさんが明るく笑った。揺れた桃色の髪が、天井から差し込む光を受けて、虹色に輝くようだった。
一緒に街に出たヒルダさんだったが、インジさまがお勧めしてくださった宿場で食事を終えるや否や「うっ、セテスさま……ちょっと用事を思い出したから、帰るねー」と、そそくさと立ち去ってしまった。
ヒルダさんは人混みの間を縫って、すぐにそのお姿が見えなくなる。
呆然としていると「じゃ、俺たちはとっておきの場所に行くとするか」と、クロードさんが得意げに笑った。
クロードさんが連れてきてくださったのは、花畑だった。なるほど、花が好きならとはこういう意味だったのか。
きょろきょろとあたりを見渡していると、クロードさんはその場にごろりと寝転がった。薄々感じてはいたが、クロードさんは貴族然としていない。とはいえ、シルヴァン兄さまもその節はあるから、ひとのことをどうこう言う筋合いはない。
「……いい場所だろ?」
「はい、とても」
クロードさんに顔を覗き込まれて、わたしは頷く。ふ、と自然と口元が緩んだ。やわらかい風が、わたしの髪と、髪を彩る花を揺らす。
クロードさんとヒルダさんのおかげで、沈んでいた心はもう浮かび上がっていた。
「シルヴァンに会いにきたのには理由が?」
「兄さまのお誕生日をお祝いしたくて。まさか、お父様がガルグ=マクに行くことを許可してくださるとは思っていませんでしたわ。きっと、兄さまの素行が気になったのでしょうけど」
言いながら、わたしは苦笑を漏らす。
ディミトリ様やインジさまがお傍にいてもなお、素行が改まらないのならば、もはや諦めるほかあるまい。
シルヴァン兄さまの、ベレス先生を見つめる眼差しを思い出す。わたしは、兄さまが好きだし、兄さまの幸せを願っているけれど──わたしにできることなんてない。マイクラン兄さまに、わたしができることがなかったことと同様である。
「シルヴァンのことが好きなんだな」
わたしは、クロードさんを見つめる。やさしげで、どこか寂しげな顔をしていた。
「クロードさんにもご兄弟がいらっしゃるのですか?」
「みたいな可愛い妹はいないけど、兄弟はわんさかいるよ」
「…………」
リーガン家にも複雑な事情があるのだろう。
わたしは視線を落として、花に手を伸ばした。
「摘んでも構いませんか?」
「俺のものじゃあないが、ちょっとくらい構わないだろ」
クロードさんはそう答えて、目を閉じた。
それもそうか、と納得して、わたしは白い花を手にした。温室で見たものと違って、名前も知らない花だ。白い花を集めて、花冠を編んでいく。
花冠の季節には毎年白薔薇を摘んで、兄さまには勿論、両親にも花冠を贈っていた。だから、花冠を作るのはお手の物だ。
ものの数分もしないうちにできあがったそれを、そっとクロードさんの頭に乗せる。
ぱちり、とクロードさんの瞳が開いた。
「ああ……花冠の節には、白薔薇の花冠を贈るんだったか」
まるで初めてもらったような反応に、わたしはくすりと笑う。
クロードさんは身体を起こすと、その花冠をわたしの頭へと乗せた。
「ありがとう、って言いたいところだが、やっぱり似合うやつにやらんとな」
クロードさんの指先が、顔にかかった髪の毛をやさしく払ってくれる。離れていくクロードさんの指を、わたしは黙って見つめた。
「可愛いな。童話に出てくるお姫様みたいだ」
翡翠色の瞳が、やわらかく眇められる。やっぱりわたしは、恥ずかしくなってしまって、俯いて小さな声でお礼を告げたのだった。
だいぶ日が傾いてきた頃、ガルグ=マクの門のところで、シルヴァン兄さまと鉢合わせした。
兄さまがさっと気まずげに視線を逸らす。兄さまを怪訝そうに見上げるベレス先生の手を、皇女殿下が引いた。昨日から薄々思っていたのだけれど、兄さまと皇女殿下の仲はよろしくないのかもしれない。兄さまの悪癖のせいだろうか。
「行きましょう、師」
「……うん」
小さく頷いたベレス先生が、すこし背を屈めてわたしに視線を合わせてくれる。
「今日はシルヴァンを借りて、ごめんね」
表情こそあまり変わりがなかったが、ベレス先生の手がやさしく、そうっとわたしの頭を撫でた。
皇女殿下がどこか焦った様子で、ベレス先生の手をぐいぐいと引いて行く。「エーデルガルトは先生が大好きだからなぁ」と、クロードさんが揶揄うように言った。兄さまがなんとも言えない顔で、遠ざかっていく二人の背中を見つめている。
「兄さま」
わたしはわざと尖った声を出す。背の高い兄さまが、わたしの機嫌を取ろうと膝をついた。
わたしは頭に乗ったままだった花冠を、兄さまの頭に移した。キョトン、と兄さまの垂れ目が丸くなる。
「わたしがいいと言うまで、それを外したらだめですわよ」
お世辞にも似合ってるとは言い難い花冠をつけて、ガルク=マクを歩く。そのくらいの辱めは受けて然るべきだ。
頬を膨らませて、顔をぷいと背ける。わたしは怒っているのだ。
「そりゃあいい! 食堂で夕飯にしよう」
クロードさんが呵呵と笑う。
笑みを引き攣らせたシルヴァン兄さまと、笑い転げるクロードさんの手を引いて、わたしは食堂に向かった。
シルヴァン兄さまは、インジさまやディミトリ様に花冠をつけた姿を見られて笑われていたけれど、とってもいい気味としか思えなかった。
クロードさんと笑い合いながら、わたしは明日、兄さまとどう過ごそうかと思いを馳せた。
シルヴァン兄さまと過ごす一日が、今日より楽しくなるかどうかは、まだわからない。ただ、このガルグ=マクでの思い出は、きっと忘れられないのだろうなと思う。