馬車に揺られているうちに、眠ってしまっていたらしい。「お嬢様、到着いたしました」と、侍女の声が聞こえて、重い瞼を押し上げる。ぼんやりとした視界に、わたしの顔を覗き込む侍女の姿が映る。瞬きを繰り返して、ようやくその顔がはっきり見えるようになった。
 それなりにお金をかけた馬車の椅子は座り心地こそ悪くなかったけれど、長時間座っていたせいで身体が妙に痛い。気心の知れた侍女しかいないのをいいことに、わたしはぐっと身体を伸ばす。

「ガルグ=マク大修道院に、着きましたのね?」
「ええ、その通りでございます」

 にこり、と侍女が笑う。わたしは窓の垂れ布をすこしだけ開けて、外の様子をそうっと伺った。
 ガルグ=マク大修道院を実際に目にするのは、はじめてだ。ワクワクが抑えきれない。外に出てもいいか、侍女に確認を取ろうとしたとき、馬車の入り口が開いた。

 外から差し込む光は、人影によって遮られていて眩しくはなかった。逆光で、入り口に立っているひとの顔が見えない。それでも、わたしにはそれが誰かすぐにわかった。

「シルヴァン兄さま!」

 抱きついて、その喜びを表したかったのだけれど、さすがにはしたないかと我慢する。
 兄さまの垂れ目が、ほんのわずかに丸く見開かれて、それからすぐにやわらかく細められる。「おいで」と、やさしい声に招かれるまま、わたしは兄さまの腕の中に飛び込んだ。

「ご無沙汰しております、シルヴァン様。お元気そうで何よりです」

 わたしの侍女が、兄さまに向かって丁寧に頭を下げる。兄さまが、どこか困ったように、曖昧に笑った。
 ぎゅう、と抱きついて、兄さまの顔をわたしに向けさせる。

「さて、小さなお姫様。どこか行きたいところはあるかい?」

 わたしを恭しく馬車から下ろしながら、兄さまが問いかける。行きたいところ、は馬車に揺られる長い間に考えてあった。

「はい! わたし、シルヴァン兄さまが勉学に励まれている、教室が見てみたいです」
「……教、室?」

 兄さまの口元がひくりと引きつったのは、見間違いだろうか。


 わたしの手を握る、兄さまの手は大きい。こんなふうに、手を繋いで歩いてくれるのは、いつまでなのだろうなとときどき考える。わたしが見上げていることに気づいて、兄さまが「どうした?」とやさしく微笑んだ。

「ううん、なんでもありませんわ」

 シルヴァン兄さまの視線がしばらくつむじに突き刺さっていたけれど、わたしは素知らぬふりをする。
 手をぎゅうと握ると、兄さまが握り返してくれた。

 門をくぐってから教室に着くまで、シルヴァン兄さまはよくお声をかけられていたし、お声をかけていた。
 兄さまは良くも悪くも目立つ。
 それにしたって、兄さまの悪癖は変わっていないようで、わたしは呆れたようなほっとしたような、複雑な気持ちになった。

 入り口からすこしだけ顔を覗かせて、教室の様子を窺う。ちらほらと残っている生徒たちは、みんな兄さまと同じ制服を身に纏っている。

「お邪魔しても?」
「もちろん」

 兄さまがぱちり、と片目を瞑って笑う。

「……あの、シルヴァン兄さま」

 長机と長椅子の並ぶ教室内をきょろきょろと見まわして、気がついたことがある。

「シルヴァン兄さまは、青獅子の学級でしたよね?」

 兄さまがぎくりとして、あからさまに視線を逸らす。
 シルヴァン兄さまがガルグ=マクの士官学校に入学して、二節──そんな短い間に学級を移るなんて、おかしい。

「おや……これはこれは、珍しいお客様ですな」

 くくく、と低い笑い声が聞こえて、わたしはびっくりして兄さまの後ろに隠れる。
 兄さまの背からそうっと窺えば、背の高いシルヴァン兄さまよりももっと背の高い男のひとが、影のように立っていた。そのすぐ傍に、男のひととは対照的な、眩しい女のひとがいた。銀の髪の毛が、キラキラしているみたいだった。

 兄さまの顔をちらりと窺う。先ほどまで、これでもかというほど振りまいていた愛嬌が、消えていた。

「あら、もしかしてあなたの妹さん?」
「ええ、そうですよ。皇女様」

 シルヴァン兄さまが微笑む。わたしは、兄さまの言葉に固まった。

「こ、こ……まさか、エーデルガルト皇女殿下にあらせられますか?」
「そんなに畏まらなくたっていいわ。ここでは私はただの級長で、あなたのお兄様の学友よ」
「に、兄さま……」

 気さくな笑みを向けられて、わたしはどうすればいいのかわからなくなってしまう。
 皇女殿下と言葉を交わすことなんて想像したこともない。同じ立場であるディミトリ様とは兄さまを通じて、何度かお話したことはある。もちろんそのときだって緊張したけど、いまはそれ以上に緊張していた。

「可愛い子ね。ガルグ=マク大修道院を楽しんで」

 皇女殿下の手が、わたしの頭をやさしく撫でた。ぽかんとしているうちに、皇女殿下は男のひとを伴って、教室を出ていった。

「まさか兄さま、皇女殿下に懸想して……」
「馬鹿言え、俺だって声をかける相手くらい選ぶさ」
「だったら何故、学級を移動なされたのですか」

 じろりと兄さまを睨む。シルヴァン兄さまは困り切った顔で、視線を逸らした。

「もうっ、兄さまったら! お父様のお耳に入ったら大変ですわ」
「まあまあ、俺にも色々と事情があるんだって」
「事情、ね」
「そう、事情が……」

 ふいに、わたしと兄さま以外の声が割って入った。
 兄さまと同時に声のほうを振り向けば、女のひとが無表情でこちらを見ていた。制服姿ではない。

「先生」

 兄さまは彼女をそう呼んだけれど、教師にしてはとてもお若くて、兄さまとさほど変わりがないように見えた。不思議に思って見上げた兄さまの横顔は、珍しく苦々しいものが滲んでいた。
 視線を、先生へと戻す。
 兄さまに向けられていた瞳が、わたしを映した。その瞳は、あまり見たことのない、不思議な色をしていた。

「いつも兄がお世話になっております」
「……驚いた。小さいのに、ずいぶん礼儀正しいんだね」

 驚いたという割に、先生の表情は変わりがなかった。「ベレスだよ、よろしく」と、差し出された先生の手は小さいのに、兄さまと同じように武器を持つ手をしていて不思議な感じがした。
 ちら、と兄さまを窺う。耳の端が、明るい髪色と混じるように、赤みを帯びていた。

 そうか、とわたしは思う。これが、兄さまの言う”事情”なのだろう。

「兄さま! おなかが空きましたわ」

 もとより、兄さまの恋愛事情に首を突っ込む気は、さらさらない。シルヴァン兄さまが「なら、食堂に行こう」と、ほっとしたように笑みをこぼした。



「きゃー可愛い!」

 そう言って顔を覗き込んできたのは、桃色の髪と瞳の女生徒だった。
 情けなくも突然のことに驚いて、わたしは言葉が出なかった。シルヴァン兄さまは、食べ終えた食器を片づけるため、離席していた。

「おいヒルダ、困ってるだろ?」

 咎めるように言いながらも、わたしの隣に腰を下ろしたひとは面白そうに笑っていた。ヒルダ、と呼ばれた方が、わたしの向かいの席に座る。どちらも断りはなかったので、うまく躱す機会を失ってしまう。
 そのうえ端の席を選んだせいで、囲われるような形になってしまった。
 目の前のニコニコとした笑顔に悪意は感じないけれど、隣の笑みには言い知れぬ不安を覚える。

「あたしは金鹿の学級のヒルダ。よろしくねー」
「クロード=フォン=リーガン」

 言葉と共に差し出された手のひらを見つめる。
 家名まで名乗られては、こちらもそれに倣うしかない。わたしはクロードさんを警戒した。大人しく兄さまを待つべきか、でも、ヒルダさんという方はいかにも兄さまが好みそうな華のある──「どうしたの? シルヴァンは?」と、先ほど耳にしたばかりの声が、わたしの思考を断ち切った。

「あ、シルヴァンくんの妹さんー? 言われてみれば、似てるかも」

 ヒルダさんが桃色の瞳を一層大きくして、首を傾げる。二つに括られた髪の毛が揺れて肩を滑っていく様子を横目に、わたしは顔をあげてベレス先生の姿を確認した。ほんのすこしだけ、そのお顔に険がある。
 たしかに、食器を下げるだけなのに遅いような気もする。兄さまを探して視線を巡らせれば、女性とにこやかに会話していた。

 呆れた悪癖である。ベレス先生もまたその姿を見つけて、足早に近づいていく。
 お叱りをいただいているらしい兄さまが、ばつの悪そうな顔をしているのが見えた。わたしはふう、と小さくため息を吐く。

「お名前は? お嬢さん」

 再び、意識が隣に吸い寄せられる。じっと見つめてくる翡翠色の瞳を、わたしは見つめ返した。
 クロード=フォン=リーガンという名を、子どもだから知らぬと思っているのだろうか。今年のガルグ=マク大修道院は、各国を担う者が集っているとんでもない年だという。自国のこと以外は疎いわたしだって、帝国の皇女の名は知っているし、レスター諸侯同盟の盟主の名くらい知っている。

! 来るのなら、前もって教えてくれたらよかったのに」
「インジさま」

 わたしはさっと席を立って、兄さまの幼なじみであるインジさま──わたしはガラテア伯爵令嬢イングリットさまをそう呼んでいる──の元へ駆け寄った。わたしを抱き寄せたインジさまは、ベレス先生のあとを肩を落としながら付いてきたシルヴァン兄さまを睨んだ。

「シルヴァン、どうしてを放っておくのよ」
「いや、すぐに戻るつもりで……」
「えー? その割には、ドロテアちゃんと話し込んでたよねー?」

 ヒルダさんが可愛らしく小首を傾げて、兄さまの言い訳を一刀両断した。味方がどこにもいないと知って、兄さまは「悪かったよ」と素直に頭を下げた。

「そうだぞ、シルヴァン。ガルグ=マクには、素行のいい貴族子女ばっかりじゃないからな」

 にやり、と意味ありげに翡翠の瞳を向けられて、兄さまは笑みを引きつらせた。

「そりゃ、ご忠告どうも」
「いやいや、学友として当然のことをしただけだ。礼はいらないさ」

 芝居がかった仕草で肩を竦めたクロードさんが、おもむろに席を立つ。インジさまの背に隠れるようにしたわたしに向かって、腰を屈めて視線を合わせると改めて手を差し出した。

「よろしくな、

 インジさまに励ますように肩を押されて、わたしはおずおずとその手を握った。
 クロードさんの手は、兄さまともベレス先生とも違った感触をしていた。不思議に見上げた先で、クロードさんの片目がぱちりと瞑られる。小さな三つ編みが、可愛らしく顔周りで揺れていた。