「あら? 寝ちゃったのね、セテスさん」
帳の隙間から顔を覗かせたマヌエラは、もうすでに帰り支度を済ませていた。化粧直しをした一層美しい顔を、ほんのわずかに不安そうに曇らせる。
「あたくし、もう帰るけれどひとりで大丈夫?」
これから気になる男性と食事に行く、と嬉しげに話していたマヌエラを思い出し、はにこりと笑った。
「はい、大丈夫です。机上業務しながら、セテス様がお目覚めになるのを待ちます」
「そう? 何だか悪いわね」
「いいえ、気にしないでください。代わりと言っては何ですが、明日、マヌエラ先輩のいい報告を楽しみにしています」
「ええ、ええ。任せなさいな」
今度こそは、とマヌエラが拳を握り締める。お綺麗な顔に似合わぬ、気迫のこもった表情だ。
歌姫と謳われたマヌエラの美貌は、それから年を重ねても衰えたようには見えない。男性から声をかけられることも少なくない。ただ、恋人ができたという話は、がガルグ=マクに来てから一度も耳にしていない。
そんなに焦る必要はないだろうに、と思いつつは己の口角に指を添える。
「先輩、笑顔ですよ。笑顔」
「あらやだ、あたくしとしたことが。それじゃ、お先に失礼するわね」
「はい。お疲れさまでした」
足取りの軽いマヌエラを見送って、はふうと息を吐いた。
寝台に横たわるセテスに視線を落とす。伏した睫毛の元に、はっきりと隈が刻まれている。心なし、顔色も悪い。
忙しいひとだとは知っていたが、ここまで疲弊したところを見るのは初めてだった。
がガルグ=マク大修道院の、見習い医師として働くようになって、早二年が経つ。セテスと交わした言葉など、おそらく片手で足りる程度だ。いつも決まりきった問答しかしない。大司教補佐を務めるセテスととでは、立場があまりに違い過ぎるのだから当然である。
最近など「いつものお薬ですね」とが言うばかりで、セテスは口を開くことすらない。
それを横暴だと思ったことなど、一度もない。むしろ、あれこれ言わなくなったのはを医師として信頼してくれている証拠なのだろう。
前節は、セテスが医務室に足を運ぶことはなかった。
それどころではなかったのだということは、ガルグ=マクにいる者ならば誰もが知っている。セテスの妹たるフレンが行方不明になり、士官学校の生徒も捜索に当たったのだ。果たしてフレンは無事だったし、騒動の際に怪我を負ったマヌエラも鷲獅子戦への参戦は見合わせるものの、食事に出かけるくらいには回復している。
「…………」
寝返りどころか身じろぎひとつもしない。思わずは、呼気を確かめるためにセテスの顔に手をかざした。ひどく静かな寝息を手のひらに感じ、ほっと息を吐いた時だった。
手首を掴まれる。
誰に──否、考えるまでもなく、その大きな手はセテスのものだ。
「え……」
の口から、呆けた声が漏れる。
ぐるりと視点が反転したかと思えば、は寝台の上にいた。セテスの顔越しに、天井が見える。
「私に薬を盛るとは、いい度胸だな」
「……!」
喉の奥で、悲鳴を押し殺す。
弁明しようと思うも、薬を盛ったのは変えようのない事実であり、セテス自身にばれてしまっているのであればそれは言い訳に他ならない。医師として、あるまじき行為であるのは確かだ。
「も、申し訳ございません」
「謝れば許されると?」
「そ、れは……」
は思わず言い淀み、目を逸らした。謝って許されなくとも、には謝ることしかできない。
セテスに飲ませたのは、数十秒で眠りに落ちるという薬である。
「もし、変な男に絡まれたらこれを使って逃げなさい」と、マヌエラに手渡され、お守り代わりに持っていた代物である。
効果のほどは半信半疑であったが、医務室を訪ねてきたセテスに出した紅茶に混ぜたら、あれよあれよという間に舟を漕ぎ出したのだから驚きだ。
こうなることを予想していなかったわけではない。けれど、いつものように入眠導入剤と滋養強壮剤を処方するだけでは、不十分だと思ったのだ。
「……だんまりとは、がっかりだ。君は、優秀な医師になると思っていたのだが」
セテスが眉間に深い皺を刻み、ため息を吐いた。は身を竦める。
つまり、信用の置けないはもうガルグ=マクにはいられない、ということだろうか。
「医務室に二人きり……なるほど、既成事実を作ってしまおうとでも考えたか? 思惑通りにいかず、残念だったな」
「……きせい、じじつ?」
セテスの言葉が、うまく頭に入ってこない。は呆然とセテスを見つめた。
「違わないだろう? 無垢な顔をして、恐ろしいものだ。君は私に、媚薬を盛った」
「び……えっ? び、媚薬? 媚薬とは、もしかして、いえもしかしなくても、性欲を高める薬のことでしょうか?」
「そうだが……何故、君がそんなにも混乱する?」
だって、にはそんな薬を盛った覚えはない。
は思わず、探るようにセテスを見た。険しい顔をして、セテスが見つめ返してくる。嘘をついているようには見えない。かといって、媚薬を盛られたようにも見えなかった。
動悸が激しくなり、体温が上昇し、興奮を覚える。そんな様子が、セテスには一切見られないのだ。
ただし、の太ももに硬い何かが触れているのは、確かだった。
「わたしが、セテス様の紅茶に入れたのは、眠りに落ちる薬です。ですから、セテス様も先ほどまでぐっすりと眠られていたのです」
沈黙が落ちる。
に馬乗りになっていたセテスが、ゆっくりと退いた。寝台のふちに腰掛けて項垂れる様は、全身全霊で反省と後悔の意を示すかのようだった。
「あ、あの……」
心なし、小さくなったように見える背中に、は何と声を掛けたらよいのかわからなかった。
「……すまない。私の勘違いだ」
「いえ、わたしがいけないのです。出過ぎた真似をいたしました。セテス様のお怒りは当然です」
セテスが振り向くのがわかって、は顔を俯かせた。
赤くなった手首に気がつき、は慌てて手を掛布で隠した。恐慌状態にあったせいか、掴まれていた時にはまったく痛みを感じなかった。目にした途端、思い出したかのようにじくじくと痛み始める。
ふいに、セテスが寝台を降り、跪いた。下から顔を覗き込まれ、はセテスの視線から逃れることができない。
掛布が剥ぎ取られ、赤みを帯びた手首にセテスの指が触れる。やさしい仕草だった。
「すまなかった」
「いいえ、どうか謝らないでください。お立ちください、セテス様」
しかし、セテスが立ち上がる気配はない。いつまでも、セテスに膝をつかせるわけにはいかない。は同じように寝台を降りて膝をつこうとするが、脚を下ろしただけで「やめなさい」と制止される。
手首に触れていた手が、の手を包み込んだ。
「セテス様、」
「確かに強引な手段ではあり、医師としてあるまじき行為だ。だが、それは君の思いやりでもある」
「…………」
「私を心配してくれたのだろう。今回のことは、不問とする」
言い切ると同時に、すっとセテスが立ち上がる。かと思えば、わずかに身を屈め、の頬に手を伸ばした。
「……さて、君を傷物にした責任は、どうとったらいいだろうか」
「きっ──そんな、大袈裟です」
ひっくり返った声が出て、は恥ずかしさに睫毛を伏せる。頬に添えられたセテスの手が、俯くことを許してくれなかった。
親指の腹が目尻をなぞり、は促されるように視線をあげた。
相も変わらず険しい顔をしているが、セテスの頬に薄らと赤みが差している。
「……が相手ならば、やぶさかではないと思ってしまったのだ。そんな自分に腹が立ち、憤りを君にぶつけてしまった。いわば八つ当たりだ、どうか償わせてほしい」
は思わず、ぽかんとセテスを見上げた。
八つ当たり。いや、重要なのはそこではない。はうまく働いてくれない頭を動かして、セテスの言葉を脳内で反芻させる。
が相手ならば、やぶさかではないと思ってしまったのだ。
何の相手、とやけにぼんやりと考えたところで、は太ももに感じたものを思い出す。
つまり。つまり、──つまり?
「?」
「…………セテス様は、わたしを、憎からず思ってくださったということですか?」
セテスが困ったように眉尻を下げた。は慌てて前言を撤回しようとするが、それよりも早くセテスが口を開いた。
「そうだ」
耳に心地よい低音が、落ちる。
それは、にとって青天の霹靂であり、この上ない僥倖であった。
何か言わなければ、と思うのに、唇からはただ震えた吐息が漏れただけだった。すり、とセテスの指先が耳の縁をなぞる。
この想いには、幾重にも蓋をしたはずだった。
けれど、それが溢れるように、の瞳から涙が零れ落ちた。
「ご、ごめんなさい、何だか夢のようで」
「夢? そうか、ならば夢ではないと確認してもらわねばならないな」
「え……」
セテスがさらに身を屈める。唇に触れる柔らかさを感じながら、は反射的に目を閉じた。
現実に引き戻すための口づけは、より一層を夢心地にさせた。
「あれ、」
背中が寝台に触れていることに気づいて、は呆けた声を漏らした。目の前にはセテスの顔があって、その背景には天井が見える。先刻見たばかりの光景に、は瞳を瞬く。
「私も、夢ではないと確認してもいいだろうか」
つ、と指先が首筋を撫でる。
はうんともすんとも答えられずに、こくりと小さく頷いた。