マリアベルよりもすこしだけくすんだ金髪を目で追っていることに気づいて、クロムは眉間にしわを寄せた。抱きしめたやわらかな感触も、ふわりと香った花のようなにおいも、すべてはっきりと思い出せるのに、もう二度とそれは感じられない。
「怖い顔をなさって、どうしましたの?」
目の前のマリアベルが首をかしげ、クロムの眉間を人差し指でつついた。「いや……」と、答えながら、クロムは意識的に視線をマリアベルへと向ける。
すこしわがままなところもあるが、それも含めて可愛らしいともいえる、よき妻──
これでよかったのだ、とクロムは何度も自分に言い聞かせてきた言葉を、今一度胸のうちでつぶやく。
エメリナ亡きいま、自警団をやっていたころのように、自由で無茶はできないことはよく理解している。恋という感情よりも、立場を重んじなければならないということも、クロムは知っている。
いけません、クロム王子。
腕の中で、がしずかに首を横に振った。それでも、と父親であるテミス伯に頭を下げた。
そこではじめて、の出生について知った。テミス伯もと同じように首を横に振ったのだ。が申し訳なさそうに、悲しそうに目を伏せて「ごめんなさい、クロム王子」と、白い背中を晒した。
「まあ、またですわ! 疲れているんじゃありませんの?」
マリアベルが心配そうに顔を覗き込んでくる。「ああ、そうかもしれん」クロムは軽くかぶりをふって、ちらつくその白い肌を、くすんだ金髪を脳裏から追いやる。
「なんだ、疲れてるのか? ほら、甘いものでも食え」
テーブルのうえに、菓子が置かれる。呆れた顔でマリアベルがガイアを見やる。「あなた、一体どこから……」クロムも同感である。いつの間に、という思いでクロムはガイアを見上げた。
この甘党の盗賊は、いまなお己に尽力してくれている。報酬はやはり菓子だと言うのだから、可笑しいものだ。
マリアベルの厳しい視線を受けて、ガイアが居心地悪そうに首をすくめる。「クロム、少しいいか? 報告があるんだが……まあ、手短にするよ」クロムは一つ頷き、席を立った。マリアベルがため息とともに紅茶に口をつける姿が見えた。
「結婚式、明後日だな」
「ん? ああ……」
ふいに、ガイアがつぶやくように言った。そう、マリアベルとの挙式はもう二日後に控えている──
ぐい、とガイアの手が肩に回る。
「そんな疲れた顔で式に出るなよ。一生に一度の晴れの日だからな」
ガイアにしては意外な言葉である。クロムが驚きをもってその顔を見つめれば、ガイアが気まずそうに目を逸らした。
「なあ、クロム……」
すこしだけ潜められた声に、クロムは耳を澄ませた。
マリアベルはガイアと連れ立ったクロムの背をしばし見つめて、それからテーブルに置かれたガイアの高級菓子に視線を落とす。以前忍び込んだ城を我が物顔で歩くその厚顔無恥さには腹立たしさを覚えるが、クロムのためにガイアが汚い仕事をしてくれていることも知っている。それに、彼はかつて自分の命を救ってくれた。
それを思えば、つんけんしてばかりでは、悪いような気もしてくる。
「マリアベル」
ふわり、と花のような芳しい香りがマリアベルの鼻腔をくすぐった。
顔を上げれば、血の繋がりのない姉の姿が目に入る。この姉は二日後に迫った結婚式のために、王宮に寝泊まりし、色々と準備を手伝ってくれている。「、」と、自分の口からこぼれ落ちたその名前が、どうも暗い響きを持っていてマリアベル自身驚いてしまう。
「どうしたの? 結婚式の準備で忙しくて、疲れちゃった?」
「い、いいえ、そんなわけありませんわ」
慌てて首を横に振って、答える。が不思議そうに首を傾げた。
マリアベルは、知っている。
がかわいそうな生い立ちをもち、かわいそうな理由で我が家に養女に迎えられたこと、そしてクロムが思いを寄せていたことを、知っている。身代わりに、と育てられたがその通りに、ペレジアでは身を挺してマリアベルを守り、代わりに攫われた。ペレジア軍に騒ぎ立てたのはマリアベルだったのに、がかばって代わりに連れ去られることとなった。
マリアベルの金髪よりもすこしくすんだ髪を、が指で耳にかける。さらりと滑る髪の合間に覗いた首筋に、赤い虫刺されのようなものを見た気がして、マリアベルは眉をひそめた。
「マリアベル?」
髪がかかってすぐに見えなくなる。凝視するわけにもいかず、マリアベルはあいまいに笑った。
「なんでもありませんわ」
「そう? なら、いいんだけど……」
「こそ、あんまり張り切り過ぎて、挙式当日に倒れたりしたら許しませんわよ」
そんなことしないわ、とがくすくすと笑う。その仕草はたおやかで、淑女らしい。マリアベルでさえも見惚れるような、貴族らしく美しい所作である。だれが彼女を、奴隷であったなどと思うだろう。
マリアベルはいま一度、視線を菓子へと落とした。
自分のなかに芽生えた、に対する感情を、どうにかして飲み込む。
──クロムにとって、自分はの代わりだ。
じくじくと痛む胸は、式が近づくにつれてどんどんひどくなっているような気がする。けれど、もしかしたら、この胸の痛みをはずっと昔から持っていたんじゃないか、とマリアベルは思う。だれかの代わりなんて、くそくらえ、ですわ。マリアベルは内心でごちて、紅茶を飲み下した。
の手は震えをもって、花嫁のヴェールを下ろした。薄いヴェールがかかったうつむいた顔の表情は窺えない。純白のドレスを身にまとったその姿に、は涙が込み上げるのをぐっとこらえる。
今日は、クロムとマリアベルの挙式だ。
「きれいよ、マリアベル」
けれど、言葉は涙声になってしまった。
白いシルクの手袋をした手が、の手に重なる。「、聞いてほしいんですの」はその手を見つめながら、じっとマリアベルの言葉を待った。躊躇うような、すこしの間が空く。
「もう、わたくしの代わりだなんて、やめてくださいな」
「え……」
「わたくしはわたくしで、クロムさんの愛を勝ち取ってみせます。わたくし、身代わりなんて絶対に嫌ですもの」
は驚きをもってマリアベルの顔を見た。しかし、やはりヴェールに遮られてその表情はよく見えない。ふふ、とマリアベルがいたずらっ子のように、愛嬌にあふれた笑いを漏らす。
「、あなたにはあなたの人生がありますのよ。それを忘れてはいけませんわ」
もうわたくしの真似はおしまいよ、とマリアベルが囁くように言って、は呆然とした気持ちのまま頷きを返す。マリアベルは、すべてを知っていた──瞳を瞬かせた拍子に、涙がこぼれ落ちた。
「、さあ席に行って」
テミス伯がの背をやさしく押した。
は慌てて言われた通りに席について、マリアベルとテミス伯がヴァージンロードを歩く姿をぼんやりと見つめた。幸せそうなマリアベルの姿が涙で滲む。
「マリアベル……」
涙の向こうで、誓いのキスが交わされた。
だれからも祝福される、素晴らしい挙式であることは間違いようがない。温かい拍手を受けて、クロムとマリアベルが連れ立って歩いていく。
ふいに、の背をやさしくさする手があった。「お父様、」血の繋がりはない。それでも、テミス伯は、の父親である。
「には、辛い思いばかりをさせてしまったね」
「そんな、」
「マリアベルの言う通りだ。君には君の人生がある。幼い君に、ひどい責を負わせて、すまなかった」
「……わたしのほうこそ、お父様を失望させてしまったでしょう」
まさか、とテミス伯が目を瞠る。
マリアベルと同じ色をした瞳が、やさしく温和に細められる。大きな手がの頭をやさしく撫ぜた。隣に立つテミス伯夫人も同じようにやさしい顔で微笑んでいるから、はむず痒くなるような気持ちになってうつむく。
「いままでマリアベルを守ってくれてありがとう。その騎士の役目は、クロム王子にお譲りしようか」
「そうね。それより、。あなたにも良いひとがいらっしゃるんですって?」
「……えっ」
うふふ、と夫人が少女のような笑顔を見せる。
はやく紹介してくださいな、と夫人の言葉にガイアの顔を思い浮かべ、はひとり羞恥で顔を赤くする。「や、やめてください……」は慌ててかぶりを振って、視線から逃れるようにより一層顔をうつむかせた。
「ねえ、わたくしたちは、娘の幸せをいつだって願っていますのよ」
やさしい言葉のせいで、引いたはずの涙がまた浮かんでくる。はうつむいたまま、頷く。このひとたちは、血の繋がりがなくても、ほんとうの家族だ──
「まさか、クロムさんが結婚するなんて」
タキシード姿のクロムを見てもなお信じられない、というようにルフレがつぶやく。その傍でケーキを頬張りながら、ガイアは遠巻きにクロムとマリアベルを見やった。
まあ、その気持ちはわからないでもない。ガイアは口にはせずに心の中で思う。
花嫁の親族として挨拶に追われるが人の輪を抜けて、そっとテラスへ向かう姿が見えて、ガイアはルフレたちを横目にそのあとを追った。
ふわ、と風にくすみがかった金髪が揺れている。常とは違い綺麗にまとめ上げられ、白いうなじがあらわになっている。何気なく視線を向けて、ガイアはその首筋にファンデーションで隠された小さな赤を見つけて、思わず大きな足音を立ててしまった。が振り向く。
「が、ガイアさ……」
しかし、なにやら動揺はのほうが大きかったらしい。目を見開いたがあっという間に頬を薔薇色に染める。
「よお」
が両親とのやり取りを思い出しているとは露知らず、ガイアは気安い素振りでに近づいた。「さすがに立派な挙式だな。俺みたいなのは、気後れしちまうよ」と、ガイアは苦笑しながら、テラスの手摺に凭れかかる。
「そう、ですね」
「食いもんもうまい」
「……ふふ」
が艶やかな唇を綻ばせる。ガイアはその顔に一瞬目を奪われ、不自然に視線を逸らした。
「……今日は、一段と綺麗だな」
「えっ」
ガイアにとってみれば、着飾ったその姿は花嫁に勝るとも劣らぬほどに眩しい美しさである。が恥ずかしそうにうつむいてしまう。
「ガイアさんも、いつもと違って、あの……なんだか緊張してしまいます」
くたびれたいつもの姿で参加しようものなら、ティアモに大目玉を食らうに違いない。ガイアはぽりぽりと頬を掻いた。自分自身、こんな畏まった格好はあまりに柄ではなく、堅苦しい。
ガイアは風を受け、目を細める。「寒くないか?」のむき出しの肩を見て、問うがからは頷きが返る。
「あの」
「なあ」
言葉がかぶって、お互い顔を見合わせる。「あ……ガイアさん、どうぞ」と申し訳なさそうに促され、ガイアは言葉を詰まらせる。
「あー……その、今さらだが……」
「……?」
「俺と、結婚を前提に付き合ってほしい」
「え……」
ほんとうに今さらだ、とガイアは照れ隠しに首の後ろを掻く。
「ちゃんと言ってなかっただろ? 俺は知っての通り、罪人だが……それでも良ければ、付き合ってくれないか」
ガイアはをじっと見つめる。
が顔をうつむかせる。耳まで真っ赤になっているのが見えて、ガイアは目を細めた。の答えは聞かなくてもわかるようだったが、養女とはいえテミス伯の令嬢である。はっきりさせておく必要があった。
ガイアはの言葉を待ちながら、先日クロムとの会話を思い出す。
──なあ、クロム……のこと、俺がもらってもいいか。
驚いた顔をしたクロムが呆然として「知っていたのか」とつぶやいた。まあ、と視線を泳がせたガイアに、クロムが寂しそうに苦笑を漏らした。
「俺がどうこう言えるようなことじゃないが……幸せにしてやってくれ。俺にはできないことだからな」
ガイアは知っている。クロムがテミス伯に頭を下げたことも、けれどそれが無情にも受け入れられなかったことも。イーリスの王子という立場からのことを諦めたことを、ガイアは知っているからこそ、断りを入れたのだ。
「あの、」
小さな声は、すこしだけ震えていた。
「わたしなんかでよければ、よろしくお願いします……あ、あの、今度……両親に会っていただけますか?」
不安そうな瞳がガイアを見た。テミス伯に、と思うと肝が冷えるが、いずれ結婚を望むならば通らなければならぬ道である。ガイアは力強く頷いた。
「もちろん。愛してる、」
がうれしそうに笑った。
いつの間にかいなくなっていたガイアの姿に、ルフレはそっとため息をつく。
あの甘いものに目がない盗賊は、器用そうに見えて、不器用なところがある──とりわけ、立場だとか身分だとか言ったものに、囚われすぎて不自由してしまっているようだった。
ルフレは望んでもいないのにたびたび発動するラッキースケベによって、ガイア並びのだれにも知られたくない秘密を知ってしまった。そのせいで、ガイアにはやたらと口止めに奔走され、には顔を合わせるたびに悲しそうな顔をされてしまった。
「あ、クロムさん」
いつものように、実に気軽な様子でルフレに近づいてくるクロムと、その隣で輝かんばかりの笑顔を浮かべるマリアベルに視線を向ける。おそらく、一番近くでクロムを見てきたであろうルフレには、薄々であるがクロムの気持ちに気づいていた。
──この選択が間違いではないとは言いきれない。
「おめでとうございます。クロムさん、マリアベルさん」
「ああ」
「ありがとうございます、ルフレさん」
それでも、クロムがマリアベルを見つめる視線はやさしく、その瞳を見返すマリアベルの顔には愛しさがあふれている。そして、うれしそうに微笑むをエスコートするガイアがなんの気後れもしていないような顔で笑っているのだから、ルフレには満足する気持ちが広がっていく。
きっと、未来は明るい。
ルフレは戦場ではないが、軍師としての先見で、そう内心でつぶやくのだった。