素敵だな、と場違いにも思ってしまった。
 ヴァルターの残忍で容赦のない攻撃から、姫を守らんとするその姿が、まるで物語に出てくる姫と騎士のようだったからである。絵に描いたような二人、というのがの印象として残った──それが、ルネス王女エイリークと、その騎士たるゼトであった。だが、エイリークを背に庇って前に進み出たフォルデもまた姫を守る騎士には違いなかった。とぼけた雰囲気を醸し出しているくせに、を見る視線は鋭い。
 フォルデの背の向こう、エイリークが困惑した顔をしている。もまた、フォルデの行動に眉尻を下げるほかない。

「あの、何もしませんから、そんなにこわい顔をしないで下さい」

 は両手を上げて降参を示してみせるが、フォルデの警戒が和らぐことはなかった。
 フォルデの殺気のせいで、は落ち着くことができない。下手な真似をしたら、斬り捨てられそうな恐怖に心臓が痛くなってきた。

 ヴァルターのもとにいた頃に比べればたいした恐怖ではないとは思うのだが、それでも恐ろしいものは恐ろしいのだ。の心情を察してか、相棒のワイバーンが心配そうに顔を寄せてくる。エイリークがびくりと肩を揺らし、わずかに後ずさった。それに合わせてフォルデが警戒を強めた。その手は剣の柄に触れている。
 見た目は凶暴そうかもしれないが大人しくていい子だから大丈夫、と思うが言葉にならない。緊張で口が渇く。
 不意に脇腹がじくりと痛んだ。


 ヴァルターがに付けた最後の傷だ。
 はそれほど優秀ではなかったが、女であるという理由で多少のヘマをしても殺されることはなかった。しかし、事あるごとに難癖をつけられ、身体的にも精神的にも痛めつけられた日々はそう遠いことではない。
 性格には難がありすぎた彼だが、腕は確かだったことは事実であり、だからこそゼトにも怪我を負わせることができたのだ。尊敬など欠片も抱けない上官であったが、彼が死んだという実感がいまだに持てない。蛇のような執拗さでいつまでも纏わりついているような気がしてならないのだ。

 灼けた砂の中、ルネスに寝返ったを見て、激昂したヴァルターの恐ろしさは思い出すと震えが走る。
 許さんぞ──呪うような声が、まだ耳に残っている。

 ぞっとして、慌てて脇腹を押さえたを、エイリークが心配そうに見る。「怪我をしているのですか?」なんて慈悲深い姫なのだろう。しかし、傍らの騎士の視線の冷たさといったら、本当に泣けてくる。
 思えば、フォルデの態度ははじめからとても辛辣であった。フォルデだけではなく、ゼトやカイルなどルネスの騎士の面々はを警戒し、まるで目の敵のようにしてくるのだが、フォルデは中でも顕著でひどいのではないだろうか。ヴァルターの命でエフラムを追っていたときに、対峙はしたけれど、それがまだ尾を引いているとは考えにくい。ヴァルターの追撃を逃れたエフラムに素直に感心し、かつ説得されてルネスに寝返ったことに不信感を持たれていたとしても、ヴァルター亡き今そんなに目くじらを立てなくてもいいだろうに。

 彼らルネスの騎士の態度のせいで、軍内の風当たりが強くまともに話せるのは、同郷のアメリアやクーガーくらいである。同じグラド兵のアメリアはとてもよく馴染み、クーガーでさえも受け入れられているというのに、は爪弾き者だ。何故自分だけこのような仕打ちをされるのか甚だ疑問である。しかし、はそれを面と向かって問いただすことができるほど、強かではなかった。どちらかといえば気が弱いので、騎士の面々からは逃げるようにしているくらいだ。それを知っているくせに、フォルデが敵と対峙するような殺気を向けてくる。
 は思わず、じわりと目尻に涙をにじませる。

「わたしはただ、エイリーク様にご挨拶がしたかっただけなんです」
「そんなものは必要ないさ」

 間髪入れずに冷たく返され、はしゅんと項垂れる。
 確かにその通りなのだ。のような身分の者が、エイリークと言葉を交わすなどということは、畏れ多い。それでも、ヴァルターの非礼を詫びようと思っていたし、忠誠を少しでも表したかったのだが叶いそうもない。

「そ、そうですよね。すみません……」

 エイリークが「フォルデ」と不安そうに名を呼ぶが、変わらずフォルデが睨み付けてくる。はもう一度謝るとワイバーンに跨り、空へと逃げた。




 じわりと血が滲んでいる脇腹をみて、は小さくため息を吐いた。ナターシャに言えばすぐに治してくれるのはわかっていたが、この程度の傷に杖を使ってしまうのは勿体ないため、言えずにいる。
 人当たりのよさそうなフォルデのあの態度はとても堪える。
 アメリアには笑顔で剣の稽古さえもつけているくせに、と思うと恨みがましいものがある。

「痛ぁ……ヴァルター様も最期にやってくれるんだから」

 ヴァルターはにいくつも傷を付けた。稽古ではない。ただの嗜好によるものだ。
 はふと、ヴァルターに付けられた傷が脇腹のものだけではなかったことを思い出した。首元に手をやると瘡蓋のざらつきを感じる。戦場で、喰いちぎらんほどの勢いで噛みつかれた光景は、ひどく異様なものだっただろう。
 ──行為のとき、ヴァルターはよく噛みつき、歯形を残した。
 いらぬことまで思い出してしまい、は眉を顰める。ぞわりと悪寒が走り、鳥肌が立った。

 こわい。
 指先が震える。ヴァルターはもういない。恐れる必要はない、とは自分に言い聞かせる。



 は飛び上がるようにして振り返った。反射的に槍を握りしめていたが、エフラムだとわかると肩の力を抜いた。

「わ、エフラム様!? ど、どうされたんですか」
「ああ、驚かせてすまない」
「わたしなんかに謝らないでください!」

 一国の王子だというのに、身分や立場に分け隔てなく接してくれることは嬉しいが、王子らしからぬ態度には困惑してしまう。エフラムが強いことは重々承知しているが、側近を伴わないのはあまり宜しくないのではないだろうか。まして、信用の置けない元グラド兵に声をかけるのなら尚更である。
 はそわそわとフォルデやゼトの姿を探してしまう。このようなところを見られては、灸をすえられるに違いない。

「どうした」
「い、いえ、なんでもありません」
「そうか。お前はいつも、皆から少し離れたところにいるな」
「え?」

 エフラムの言うように、はいつも距離をとっている。軍に馴染めていないからであり、またできるだけフォルデたちの視界に入らないようにしているからだ。

「……この子に怯えてしまいますから」

 はごまかすように笑い、ワイバーンの首を撫でた。「そうなのか?」ワイバーンを恐れることのないエフラムが不思議そうに言う。
 言いわけにされたワイバーンはすこし不機嫌そうだ。はエフラムに気づかれないように、小さく苦笑を漏らす。

「エイリークから聞いた。フォルデのことだが……」
「っ! い、いいんです、わたしが差し出がましいことをしてしまったから、怒るのも仕方がないんです」

 はエフラムの言葉を遮り、早口に捲し立てる。エフラムが怪訝そうな顔をする。

「わたしのことなんて、気にかけてくださらなくても、結構です。エフラム様にご迷惑はおかけしません」

 お気遣いありがとうございます、と頭を下げるが、エフラムが動く気配はない。
 は不思議に思って顔を上げる。いつの間にかひどく近い位置にエフラムがいて、は驚く。「わっ」エフラムの手が腕を掴んだ。──不意に、ワイバーンが翼を広げた。エフラムだけでなく、までもが驚いて肩を跳ね上げる。

「ど、どうしたの、あっ……え、エフラム様すみません!」
「いや、構わん。……釘を刺されてしまったな」

 エフラムが呟くように言い、苦笑を浮かべる。ワインバーンがつんとそっぽを向いて、いつになく機嫌が悪そうだ。
 は不思議に思いながら宥めるが、聞く耳を持たない。いつもは大人しくていい子なのに。エフラムに無礼なことをしてしまった、と焦るに対し、エフラムが気にする様子はない。


「エフラム様……?」

 つ、と指が首筋をなぞるように滑り、エフラムが目を細める。
 ははっとして首元を押さえる。痛々しい歯形なのに、キスマークよりもずっと恥ずかしいものを見られたような気がしてしまう。

「……ヴァルターめ」
「え?」


 忌々しげに呟かれたかと思えば、名を呼ばれ顔を上げる。エフラムの指先が顎に掛けられ──「エフラム様」不意に声が降って、寄せられた顔は離れていく。

「フォルデか」

 エフラムの声に動揺はなく、至って平素である。
 はドキドキする胸を押さえ、赤くなった顔を隠すために俯かせた。しかし、フォルデの名を聞いて、反射的に顔を上げた。苦虫を噛み潰したような顔をして、フォルデが立っていた。

「……なにしてるんですか」

 呆れたような、苛立ったような物言いだった。エフラムが答えるより早く、は慌てて頭を下げる。

「すみません! エフラム様にご迷惑をかけるような真似をしてしまって」

 腰を折った拍子に傷が痛んだが、泣き言を言っていられるような状況ではない。はフォルデの不躾な視線から逃れるように首を垂れる。小さなため息とともに、軽く頭を叩かれる。「顔を上げろ」声音はやさしいが絶対的な響きを持って、の顔を上げさせる。

「少し話をしてただけさ」
「そうは見えませんでしたけどね」

 フォルデがわざとらしく肩を竦める。はエフラムを伺い見るが、悪びれた様子は少しもない。
 なにか咎められるようなことをしていたわけではないにしろ、フォルデの心配を汲んでやってもいいのではないかと思う。

「エフラム様、お戻りに」

 なってください、と続くはずの言葉が途切れる。
 エフラムの唇が掠めるように重ねられ、は口を閉ざさざるを得なかったからだ。驚きのあまり反応することが出来ない。小さく笑ったエフラムに対し、はぐうの音も出ない。フォルデも同じようでぽかんとしている。

「そう間抜けな顔をするな。悪いな、の相棒」

 ワイバーンが高く鳴いた。

くちびるを切り落とす

(なにも言えないのは、臆病だからです)